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『幻燈花』  作者: 長月有希


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序章

 昭和の御代みよも静かに幕を下ろそうとしている、ある穏やかな午下ごかのことである。


 古びた洋館の一室。半分ほど開け放たれた窓から、季節の移ろいを告げる微温ぬるい風が音もなく忍び込み、色褪いろあせた天鵞絨びろうどの窓掛けを重たげに揺らしている。

 永い歳月を吸い込んで黒光りする重厚な机の上で、長く、ひたすらに長く続いていた万年筆の切っ先が紙をこする音が、ふと途絶えた。


 金張きんばりの万年筆の鋭い切っ先が、分厚く束ねられた紙の最後の余白に深く沈み込み、静止している。

 漆黒しっこく墨液ぼくえきが、和紙の繊維の奥へと血の染みのように深くにじんでいく。それはまるで、数十年の歳月を経てようやく外界へと流れ出ることを許された、よどみきった黒い涙のようであった。


 机に向かっていた年老いた男は、肺の底に滞留たいりゅうしていた古い空気をすべて押し出すように、長く、ひどく重苦しい息を吐き出した。

 万年筆を握りしめていた右手の指は、硬直したままみにく強張こわばっている。関節は木のこぶのように隆起りゅうきし、甲に刻まれた深いしわと青々と浮き出た血管、そして広範囲にのこされた赤黒い火傷やけどあとは、彼がこれまでに歩んできた過酷かこくな人生と歳月の長さを、何よりも雄弁ゆうべんに物語っていた。


 ゆっくりと震える指を開き、万年筆をかたわらの硝子がらす筆置ふでおきへと置いた。

 硝子と金属が打ち合って生じた硬質こうしつな響きが、水を打ったような書斎の静寂の中へと吸い込まれていく。

 すべての言葉を吐き出し終えた部屋の中には、ただ柱時計の規則正しい秒針の刻みと、墨液特有の鼻を突く酸っぱい匂いだけが立ち込めている。


 うず高く積み上げられた数百枚に及ぶ紙の束へ、皺だらけの両手をいつくしむようにわせた。

 和紙特有のあらい繊維の感触。指先に伝わる、まだ乾ききっていない文字のかすかな湿り気。それはまぎれもなく、彼自身が己の寿命をけずり、視力をかすませ、腱鞘けんしょうが引き千切れるような痛みに耐えながら生み出した、執念しゅうねんの結晶であった。


 一番上に置かれた表紙には、『幻燈花げんとうか』という三つの文字が、傾きかけた西日にしびを浴びてにぶく浮かび上がっている。


 「私は生涯、物書きとして生きたことなどただの一度もなかった」と、男は紙の束をでながら、心の奥底で静かにつぶやいた。

 文字で紙面を埋めるような生き方とは、およそ無縁むえんの場所にいた男である。


 この無骨ぶこつ不格好ぶかっこうな手は、重い木材を削るかんなを力一杯に握り締めるためのものであったか。それとも、雨の日も風の日も、誰かの想いが詰まった革鞄かわかばんげて、帝都の泥濘ぬかるみの坂道を駆け上がるためのものであったか。あるいは、泥のような安酒が注がれた欠けた湯呑ゆのみを、己れの卑小ひしょうな自尊心を守るために、震えながら握りしめるだけのみじめなものであったか。

 いずれにせよ、万年筆という繊細な道具は、老いたる男の太い指にはひどく不釣ふついであった。


 幾度も墨液で指先を黒く汚し、書きそんじの紙を床に散らしながら、それでもただひたすらに過去の記憶を掘り起こし、文字を書き連ねた。

 なぜ、己の命を削ってまで、このような不慣れな筆をらねばならなかったのか。

 それは、男の命の灯火ともしびが完全に燃え尽きてしまう前に、どうしてもこの世に書き残しておかなければならない真実があったからだ。


 ここにしるされたのは、大衆を喜ばせるための安っぽい通俗劇つうぞくげきでもなければ、都合のよい絵空事えそらごとでもない。

 大正という、狂騒きょうそうと活気に満ちた激動の時代を駆け抜け、ただその圧倒的な慈愛と覚悟をもって、我々のじ曲がった運命を根底から変えてしまった一人の女性の、嘘偽うそいつわりのない『史実』である。


 男は、分厚い紙の束を両手で深く包み込むようにして、静かにまぶたを閉じた。

 窓の外から吹き込む微温い風が、書き終えたばかりの男の額に浮かぶ冷たい汗を、優しくぬぐっていく。


 瞼を閉じれば、今でも鮮明によみがえる。

 あの日の、猛火と黒煙に包まれた帝都の空。逃げ惑う群衆の悲鳴と、崩れ落ちる煉瓦れんが轟音ごうおん

 その地獄のような情景の中で、彼女は確かに、燃え盛る炎を背にして微笑んでいたのだ。

 その蠱惑的こわくてきで、あまりにも美しい微笑みを、私だけが、生涯忘れることができなかった。


 遠くで、夕暮れを告げる寺鐘じしょうの音が響いた。

 男は深い皺の刻まれた顔をゆっくりと上げ、今はもうこの世にいない誰かの姿を探すように、茜色あかねいろに染まる窓の外の空を静かに見つめ続けた。


 閉ざされた瞼の裏で、数十年という歳月が静かにさかのぼっていく。

 すべては大正十二年の初め、空が鉛色なまりいろに沈む、冷え切った冬の朝から始まったのだ。

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