第二章(4)
洋食屋の温かな喧騒と、心を溶かすような琥珀色の咖喱飯の余韻は、店を一歩外に出た瞬間に吹き付けた早春の突風によって、あっけなく彼方の空へと奪い去られてしまった。
鉛色の分厚い雲が、帝都の空をさらに低く、重苦しく圧迫し始めている。傾きかけた太陽の光はことごとく遮断され、浅草六区の表通りを埋め尽くしていた極彩色の熱気も、夕暮れの接近とともに、どこか焦燥を帯びた冷たい影へとその姿を変質させつつあった。
帰らなければならない。
活字という名の亡者が巣食い、和紙の腐臭が立ち込める、あの墓場のような初葉の屋敷へ。
清と桜子は、言葉を交わすこともなく、ただ無言のまま並んで歩幅を合わせ、浅草の歓楽街から少しずつ遠ざかる路地へと足を踏み入れた。華やかな活動写真館の絵看板も、東西屋のけたたましい鉦の音も、背後で次第にくぐもった遠鳴りへと変わっていく。
代わりに二人の鼓膜を打つようになったのは、路地の隙間を縫って吹き込んでくる、大川から流れてきた潮の匂いと泥の匂いを孕んだ、底冷えのする早春の寒風の音だけであった。
桜子は、再び濃紺の頭巾を深く被り、その美しい顔の半分を布の影へと隠していた。
彼女の歩く姿勢は、洋食屋で見せていた十八歳の少女の無防備なそれから、初葉の次期当主としての、一切の隙もない冷酷な歩みへと、すでに切り替わり始めている。
あと数町も歩いて屋敷の分厚い土塀が見えれば、彼女は再び氷の仮面を被り、己の脳が捏造する恐ろしい悪夢の幻覚を原稿用紙に吐き出し続ける、文字の奴隷へと戻ってしまうだろう。
だめだ。
清は、己の胸の奥で、気管を締め付けるような強い衝動がうねりを上げるのを感じた。
活動写真館の暗がりの中で、銀幕の女優を見つめていた時の、桜子のあの熱を帯びた狂おしい瞳。女優になりたいという、決して叶うことのない、彼女の本当の切実な夢。
彼女の心の中にあるその美しくも哀しい炎が、初葉の凍てついた屋敷の空気によって跡形もなく消し去られ、暗い土の中に埋葬されてしまう前に、なんとしてもこの手で掬い上げなければならない。言葉を発することのできない木偶の自分にできることは、ただ一つ、その真実の姿を永遠の光として切り取ることだけであった。
赤煉瓦の外壁が続く、人通りの途絶えた静かな裏路地の真ん中で、清は不意に立ち止まった。
前を歩いていた桜子が、足音の消えたことに気づき、不思議そうに振り返る。
清は、己の喉の奥で暴れる吃音の痙攣を無理やり飲み込み、声を発する代わりに、分厚い二重回しの内側に抱え込んでいた堅牢な牛革の箱に、震える両手を伸ばした。
革の留め金を外し、中から取り出したのは、清が己の魂の臓器のように大切に扱っている、独逸製の最高級舶来暗箱であった。
ずしりとした、金属の恐ろしいほどの質量が、清の掌に沈み込む。
黒の縮緬革が張られた強固な外殻。そして、それを取り囲むように精巧に削り出された、真鍮製の鈍く光る目盛り盤と歯車の数々。
清の骨張った長い指先が、氷のように冷え切った真鍮の金属面に触れる。その指先から伝わってくるのは、一切の感情を持たない、機械としての揺るぎない客観性と冷徹さであった。初葉の屋敷に満ちる、血や妄執にまみれた人間の泥臭い言葉など、この無機質な金属の塊の前では何の意味も持たない。
清は、親指の腹で金属の釦を押し込み、折り畳まれていた漆黒の蛇腹を、音もなく前方へと引き出した。
現れたのは、屈折率を計算し尽くされた幾枚もの特殊な硝子を寸分の狂いもなく重ね合わせて作られた、巨大な一つ目のごとき鋭い鏡玉である。清は、細く長い指先をその周囲の金属輪へと這わせた。
光を絞るための旋子を回すたびに、精緻を極めた部品同士が噛み合い、耳の奥が痺れるような心地よい金属の摩擦音を立てる。夕暮れの乏しい光の量を計算し、鏡玉を通って乾板へと至る光の束を、極限まで絞り込んでいく。
遮光機の発条を指先で巻き上げると、発条の軋むような硬質な反発力が指の腹に伝わり、機械が光を捉えるための極限の緊張状態へと突入したことがわかった。
清は、ゆっくりと暗箱を顔の高さまで持ち上げ、冷ややかな真鍮の縁を己のこめかみに押し当てて、そっと覗き窓の小さな四角い硝子へと右目を落とした。
その瞬間、世界からすべての音が消え去った。
風の音も、遠くの喧騒も、己の肺が酸素を求める浅い呼吸の音すらも、硝子窓の枠の外へとことごとく排除される。そこにあるのは、光と影だけで構成された、一切の嘘や不純物の入り込む余地のない完全なる静寂の宇宙であった。
枠の向こう側に、数歩先で立ち止まった桜子の姿が、逆光の影法師となって浮かび上がっていた。
彼女は初め、兄がなぜ突然路地裏で暗箱を構えたのか理解できず、微かに戸惑ったように目を瞬かせていた。
しかし、巨大な硝子玉を通して、己のすべてを記録しようとする兄の狂気じみた、しかし底なしに優しい執念の視線に気がついた時。彼女を縛り付けようとしていた次期当主としての重い鎖が、一瞬だけ、本当に奇跡のような一瞬だけ、音を立てて外れ落ちた。
早春の突風が吹き抜け、桜子の頭を覆っていた濃紺の頭巾が重力から解放されたように後ろへと煽られ、肩へと滑り落ちた。
乱れた漆黒の髪が、彼女の白磁のような頬を掠めて空中に舞う。
桜子は、逃げようとはしなかった。ただ静かに、射抜くような漆黒の瞳で、覗き窓越しの清を真っ直ぐに見つめ返した。
そして彼女は、薄い桜色の唇の端を、ゆっくりと、ほんのわずかに持ち上げたのだ。
それは、初葉の屋敷で見せる無表情でもなく、洋食屋で見せた妹としての純真な笑顔でもなかった。
どこか悲壮なまでの諦観を底に秘めながらも、見る者の魂を根こそぎ奪い去ってしまうような、息を呑むほど蠱惑的で、残酷なほどに美しい微笑み。
まるで、今まさに銀幕の悲劇の中で、愛する男のために自らの命を絶とうとする主演女優が、最後に撮影機に向けて見せた、完璧な『美しい嘘』の表情そのものであった。
彼女は今、自分という特権的な観客のただ一人に向けて、決して叶うことのない女優という夢を、この路地裏で命を燃やすようにして演じ切ろうとしているのだ。
清の喉の奥で、言葉にならない嘆息が痙攣となって弾けた。
『美しい。そして、あまりにも哀しすぎる』
己の異常な脳髄が捏造する妄想の痛みに自我を食い殺される恐怖に耐えながら、狂気と泥水にまみれた純文学の原稿用紙に向かわなければならないこの少女が、己の運命を呪いながらも、最後に放った虚構の輝き。
もしもこの微笑みを、文字という不完全で暴力的な道具で書き表そうとすれば、それはたちまちのうちに醜悪な洋墨の染みへと堕落し、彼女の真実の美しさは永遠に損なわれてしまうだろう。
『これを定着させることができるのは、うまく言葉を発せられない僕の、この冷徹な機械の瞳だけだ』
初葉の血が純文学の活字で彼女を縛り付け、腐らせようとするのなら。僕はこの硝子と光の魔法で、彼女の最も美しい嘘を永遠に保護し、あの呪われた屋敷の泥水から救い出してみせる。
清は、震える右手の指先に、己の魂のすべてを注ぎ込むようにして力を込めた。
冷え切った真鍮の露光の釦が、彼の指の圧力に負けて、静かに、そして重々しく沈み込んでいく。
鋭く、そして決定的な金属の切断音が、夕暮れの路地裏に静かに響き渡った。
百分の一秒という、人間の意識すら及ばない極限の瞬き。
暗箱の内部で金属の幕が開き、そして閉じるそのわずかな時間の間に、桜子が一瞬だけ見せた蠱惑的な女優の微笑みは、透鏡を通り抜け、暗闇の奥に潜む硝子の乾板の上へと、逃れようのない永遠の光と影の記憶として、色褪せることなく定着された。
露光を終えた清は、暗箱を顔から下ろすこともできず、ただ荒い呼吸を繰り返しながら、覗き窓越しに妹の姿を見つめ続けていた。
硝子窓の向こう側の桜子は、すでに蠱惑的な微笑みをすっかり消し去り、再び濃紺の頭巾を頭から深く被り直していた。
そこにはもう、美しい虚構を纏った女優の姿はない。あるのはただ、これから父の待つ屋敷へと帰り、自らを苛む悪夢の幻覚を文字にするための残酷な儀式へと身を投じる、哀れで孤独な『初葉の三代目当主』の、うつむいた静かな姿だけであった。
清は、指先に残る釦の確かな手触りと、機械の奥に封じ込めた妹の美しい嘘の重みを確かめるように、黒革の暗箱を己の胸に強く、痛いほどに抱きしめた。
底冷えのする寒風が、二人の間を容赦なくすり抜けていく。
言葉を奪われた兄が、過酷な宿命を背負わされた妹に捧げた、音のない無二の愛の証明。
その重苦しくも静謐な決意を乗せたまま、二人は再び、帝都の夕闇の中へと無言の歩みを進めていった。




