第二章(5)
帝都の空を分厚く覆っていた鉛色の冬雲が、夕闇の接近とともにその色をどす黒い紫へと変え、やがて底知れぬ漆黒の闇となって街全体を重苦しく押し潰し始めていた。
浅草六区の猥雑で生命力に溢れた極彩色の喧騒は、清と桜子が閑静な山の手の坂道を登るにつれて、まるで遠い異国の幻聴であったかのように、少しずつ、しかし確実に彼らの背後へと遠ざかっていく。
鋪装された大通りから、古びた石畳の続く入り組んだ高台の路地へと足を踏み入れると、行き交う人々の姿はことごとく途絶えた。等間隔に立てられた瓦斯燈の青白い光だけが、二人の長く伸びた影を凍てついた石畳の上に頼りなく揺らしている。
活動写真館の暗室の中で銀幕を見つめていた時の、桜子のあの熱を帯びた瞳の輝き。洋食屋の食卓で、琥珀色の咖喱飯と湯気を立てる馬鈴薯の揚げ物を前にして見せた、年相応のあどけない笑顔。それらの美しく温かな記憶は、坂道を一歩登り、屋敷へと近づくごとに、目に見えない巨大な手に乱暴に毟り取られていくようであった。
二人の間に会話はない。ただ、着物の裾が擦れる微かな絹鳴りの音と、草履が石畳を叩く乾いた足音だけが、不気味なほど静まり返った夜の冷気の中に吸い込まれていく。
やがて、鬱蒼と茂った古木が天を覆い隠す、見覚えのある長い黒板塀が視界の先に現れた。
身を捨てて純文学の狂気に取り憑かれた初代・清秋の妄念が、そのまま物理的な質量を持って立ち塞がっているかのような、初葉本家の分厚い土塀。その中央にそびえ立つ総檜造りの巨大な薬医門は、一切の光を拒絶するように黒々と淀み、まるで生贄を待ち構える巨大な獣の暗い顎のように、無言で二人の帰還を見下ろしていた。
清は、二重回しの下に抱えた黒革の暗箱を、冷え切った指先で痛いほど強く握りしめた。
この重厚な門をくぐり抜けてしまえば、彼らはもうただの平凡な兄と妹ではいられない。言葉を奪われた無力な木偶と、己の脳が捏造する恐ろしい幻覚を文字にして吐き出し続ける、呪われた次期当主。その残酷な現実の宿業へと、強制的に引き戻されてしまうのだ。逃げ出したいという叶わぬ衝動が、清の足取りを一瞬だけ重くさせた。
しかし、前を歩く桜子の歩みは、決して止まることはなかった。
彼女は迷うことなく薬医門の脇に設けられた小さな潜り戸に手をかけ、冷ややかな真鍮の取っ手を押し下げた。
錆びついた蝶番が軋む陰惨な音が、静まり返った高台の空気を不気味に切り裂く。
戸が開き、敷地内へと足を踏み入れたその瞬間であった。外界の早春の寒さとは全く質の異なる、背筋の凍るような底なしの冷気と、濃密な臭気の奔流が、門の内側から一気に溢れ出し、二人の全身を容赦なく打ち据えた。
それは、廊下に絶え間なく焚き染められている白檀の高貴な香りと、何万冊という古い和装本が放つ、紙と膠が腐朽していくような酸っぱい死臭であった。
浅草の洋食屋で彼らの肺を満たしていた、あの香辛料の鮮烈な香りも、生命力に溢れた油の空気も、この異常なまでに純化された文学の澱の前では、あっという間に駆逐され、掻き消されてしまう。
息を吸い込むたびに、和紙の腐臭と白檀の重苦しい香りが気管にこびりつき、肺の奥底まで重く粘り着くように侵食していく。それは、初葉の血に縛られた人間から、現世の泥臭い感情や自由への渇望といった不純物を暴力的なまでに洗い落とし、純文学の奴隷として魂を骨の髄まで染め上げるための、恐ろしい儀式のような臭気であった。
玄関の薄暗い土間に足を踏み入れた桜子は、そこで静かに足を止めた。
彼女は、ゆっくりとした所作で両手を上げ、頭から深く被っていた濃紺の頭巾を下ろした。
清は、そのすぐ後ろに立ち尽くしたまま、妹の背中で起こっている凄まじい変貌の過程を、息を殺して見つめることしかできなかった。
頭巾が取り払われ、白熱電燈の鈍い光の下に晒された桜子の横顔から、浅草の街で見せていた十八歳の少女としての血の通った温もりは、まるで潮が引くように急速に失われていった。
冷風に吹かれて微かに紅潮していた頬の色は、一瞬にして、血の通っていない白磁の陶器のように病的な青白さへと変貌する。銀幕の女優を見つめて熱を帯び、揚げ物の熱さに無邪気に目を細めていた漆黒の瞳は、すべての感情と光を容赦なく遮断した、底なしの暗い深淵へと沈み込んでいった。
そして、薄い桜色の唇が、一寸の狂いもなく冷ややかに引き結ばれる。
それは、純文学という狂気の祭壇に己の青春と感情のすべてを捧げた、初葉の完璧な次期当主としての、恐ろしいほどに美しく、そして残酷な氷の仮面が完成した瞬間であった。
ほんの数十分前まで、焦点硝子越しに、女優のように蠱惑的で美しい微笑みを自分に向けてくれていた、あの愛おしい妹はもうどこにもいない。
彼女は今、自らの意思で己の心を殺し、過敏な脳が捏造する喪失の幻覚という地獄の苦しみを受け入れるための、強固な防壁を魂に築き上げたのだ。すべては、言葉を持たぬ無力な木偶の兄を、この屋敷の片隅で生かし続けるためだけに。
桜子のその凄絶なる献身と、感情を殺し尽くした姿を目の当たりにして、清の胸の奥底で、凄まじい絶望と自己嫌悪が煮えたぎる鉛のように噴き上がった。
『やめろ。そんな恐ろしい顔をするな。君は、笑っていたいのだろう。本当は、光の当たる場所で、美しい嘘を演じる女優になりたいのだろう』
清は、必死に言葉を紡ごうとして、己の喉に力を込めた。
「さ、さ、さく、ら、こ」
しかし、彼の青白い唇から漏れ出したのは、痛ましいほどに引き攣った、惨めな喘鳴だけであった。
初葉の屋敷の空気に触れた瞬間、清の喉には再び、あの恐ろしい極度の吃音の呪縛が無残に舞い戻っていたのだ。
声帯は鉛のように硬直して震え、気管が目に見えない麻縄で容赦なく締め上げられる。顎の筋肉が痙攣し、言葉を発しようとすればするほど、喉の奥に赤く焼けた火箸を突き立てられたような鋭い激痛が走る。
浅草の猥雑な喧騒の中や、洋食屋の温かな空気の中では、あんなにも滑らかに紡ぐことのできた言葉が、この白檀と和紙の腐臭に満ちた底知れぬ死の静寂の中では、ただの一文字すら音になってくれない。
完璧な活字のみを神と崇めるこの呪われた空間が、清から言葉を徹底的に剥奪し、ただの物言わぬ木偶へと強引に引きずり下ろしたのである。
桜子は、喉を押さえて苦しげに顔を歪める兄を振り返ると、一切の感情を読み取らせない静謐な瞳で彼を真っ直ぐに見つめた。
そして、両手を着物の前で上品に重ね合わせ、床に擦れるほど深く、優雅な所作で頭を下げた。
「私はこれから、お父様の書斎へ参ります」
銀の鈴を転がすような、しかし一切の温度を持たない平坦な声。それは、愛する兄に向けた言葉ではなく、ただの同居人に向けた、事務的で冷徹な響きであった。
「お兄様も、お部屋でお休みくださいませ」
桜子はそれだけを告げると、再び頭を上げ、音もなく身を翻した。
正絹の着物の裾が擦れ合う、無機質な衣擦れの音だけを残して、彼女は陽の当たらない長い回廊の奥、父・清太郎が待ち構えるあの死臭の漂う書斎へと向かって、一人で歩き去っていく。
これから彼女は、新聞の紙面を埋め尽くすために、己の脳髄が捏造する生々しい喪失の幻覚の濁流へと身を投じ、原稿用紙の上で血を吐くような苦痛を味わうのだ。
清は、遠ざかっていく妹の華奢な後ろ姿を、ただ無言のまま、痙攣する喉を押さえて立ち尽くして見送ることしかできなかった。
己の喉の呪いが、己の無力さが、あの美しく聡明な妹を、狂気の淵へと突き落としている。自分がこの家に存在しているという事実そのものが、彼女から自由を、夢を、そして人間としての温かな感情を奪い去っているのだ。
圧倒的な罪悪感と、己という存在の無価値さが、目に見えない巨大な岩となって清の全身を容赦なく押し潰そうとしていた。
清は、崩れ落ちそうになる膝を必死に堪えながら、二重回しの内側に隠した黒革の暗箱を、まるで己の心臓そのものであるかのように強く、狂おしいほどに抱きしめた。
真鍮の角が、あばら骨に食い込んで鈍い痛みを放つ。
しかし、その冷え切った機械の内部の暗闇に隠された硝子の乾板の上には、浅草の路地裏で彼女が一瞬だけ見せた、あの美しく蠱惑的な女優の微笑みが、確かな光の記憶として永遠に定着されているはずだった。
言葉を奪われ、文字を紡ぐこともできない木偶の自分が、たった一つだけ世界に抗うことのできる手段。それは、初葉の血がどれほど彼女を純文学の奴隷として縛り付けようとも、彼女の本当の美しさと女優という叶わぬ夢を、この無言の光の箱の中に守り抜くことだけであった。
白檀の重苦しい香りが淀む底冷えのする土間に、独り取り残された清。
彼は、すっかり消え去った妹の足音の余韻を絶望的な思いで噛み締めながら、一日のうちで一度も光の差し込むことのない、あの北向きの凍てつく離れの部屋へと向かって、重い足取りで歩みを進め始めた。




