第三章(1)
大正十二年、春。
帝都最大の部数を誇る『東京大衆日報』の朝刊一面に、一篇の小説が突如として掲載された。
題名は『幻燈花』。筆者は、初葉桜子。
その日の朝、巨大な輪転機から刷り上がったばかりの、鼻を突くような油臭い洋墨の香気と微かな湿り気を帯びた新聞が帝都中の街角に配達されるや否や、活字を追う人々の間には、これまで経験したことのない奇妙な熱狂と、それに相反するような張り詰めた静寂が瞬く間に広がっていった。
朝霧の立ち込める鋪装路の交差点で、配達夫から束を受け取った労働者たちが、足を止めて紙面に見入る。西洋建築の洋酒場の片隅で、珈琲の湯気が冷めていくのも忘れて活字を貪る書生たち。あるいは、活動写真館の開演を待つ洋装の婦人たちが、肩を寄せ合うようにして一つの紙面を回し読みしている。年齢も階級も、背負っている生活の垢も全く異なるあらゆる人々が、食い入るように新聞の漆黒の活字の群れを見つめ、やがて一様に押し黙り、深く重い息を吐き出した。
帝都の群衆を圧倒したのは、その物語の中に尋常ならざる密度で圧縮されていた、暴力的なまでの『情動』の質量であった。
物語の筋書き自体は、どこにでもある市井の哀話に過ぎない。しがない男が己の貧しい境遇を呪い、かつて深く愛した女の手を離し、別の生き方を選んでしまったという、使い古された陳腐な悲劇である。
しかし、それを描き出す初葉桜子の筆致は、大衆小説の安易な枠組みを遥かに逸脱していた。それは、ただの文字の連なりではない。削り出されたばかりの木材が放つ青臭い芳香、冬の土砂降りの雨が外套を突き破って肺の奥まで凍らせる物理的な冷たさ、そして何より、愛する者を救えなかった男の、自らの腑を素手で掻き毟るような血を吐く後悔と底知れぬ喪失感。
それらの描写は、決して温かな書斎の中で空想によって補えるような、生易しいものではなかった。まるで作者自身がその男の肉体に直接憑依し、実際にその惨めな人生を一度生き抜いてきたかのような、狂気じみたまでの生々しさと血の通った実存性を帯びていたのだ。
「読んだか、今日の朝刊を。あれは、ただの小説じゃない」
帝都の知識層が集う赤煉瓦の洋食屋で、分厚い丸眼鏡をかけた書生が、震える両手で新聞紙を握りしめながら、向かいに座る仲間に掠れ声で囁いた。
「初葉と言えば、純文学の頂点に君臨するあの高慢な一族だろう。武士の身分を捨てて活字の亡者となった初代・清秋の血脈。大衆の安い涙を虫けらのように見下しているあの連中が、なぜこれほどまでに泥に塗れ、猥雑で、そしてこれほどまでに美しい人間の業を書けるんだ」
誰もが、その美しすぎる絶望の描写に魂の根底を揺さぶられ、同時に得体の知れない畏怖を感じていた。
一切の隙もない完璧な純文学の文体で構築されていながら、そこに宿っているのは、初葉の人間が最も嫌悪するはずの、大衆の持つ愚かで醜悪な情動そのものであったからだ。高尚な理念などではなく、ただ日々の泥水を啜って生きる人間の、醜くも圧倒的な生の熱量が、洗練された活字という刃となって読者の胸を容赦なく串刺しにしていたのである。
帝都中が、その名も顔も知らぬ十八歳の少女が書き放った物語に熱狂し、戸惑いと感嘆の声を上げているまさにその時。
狂乱の渦の中心から遠く離れた、初葉の屋敷の奥深く。陽の当たらない豪奢な自室の中で、桜子は激しい悪寒と吐き気に身をよじりながら、黒檀の文机の上に半ば倒れ伏していた。
冷え切った畳の上には、書き損じの原稿用紙が何十枚も無惨に散らばり、部屋を満たす白檀の高貴な香りは、濃密な墨の臭気と、彼女自身から立ち上る病的で冷たい脂汗の空気によって跡形もなく駆逐されていた。
桜子は、己の細い喉を爪が食い込むほど強く押さえつけながら荒い呼吸を繰り返し、着物の袖で額から止めどなく溢れ出す冷や汗を乱暴に拭い取った。白磁のように美しく透き通っていた彼女の顔色は、血の気を失って青黒く変色し、漆黒の瞳は焦点が定まらず、まるで熱病に浮かされた重病人のように視線が虚空を彷徨っている。
「ちがう。私は、初葉桜子。私は、どこにも行かない」
震えの止まらない薄い唇から、うわ言のように己の存在を確かめる言葉が漏れ出す。
しかし、彼女の脳髄を今この瞬間も容赦なく支配し、内側から頭蓋骨を激しく殴りつけているのは、決して彼女自身の感情ではなかった。
それは、昨夜彼女が眠りの中で見た『悪夢』の記憶である。
桜子の過敏な神経は、昨夜もまた、全く見ず知らずの男の汗と泥にまみれた生々しい人生の幻覚を、彼女の魂に強制的に再生させていた。
隙間風の吹き込む粗末な長屋で、愛する女と寄り添い、貧しくとも温かな家庭を築く男の幻影。夕餉に炊かれた安価な麦飯の香り、繕い物の針を動かす女の柔らかな微笑み、そして、互いの冷えた手を握り合いながら眠りにつく時の、心臓が溶けるような揺るぎない安堵感。
それは、初葉という一族の冷酷な掟に縛られ、感情を殺して生きることを強要されてきた桜子自身が、どれほど望んでも決して手に入れることのできない、息を呑むほどに美しく、幸福に満ちた架空の日常であった。
しかし、その美しい捏造の幻覚こそが、桜子にとってこの世の何よりも恐ろしい『悪夢』の正体であった。
なぜなら、そのあまりにも幸福な光景の裏側には、真っ赤な血糊のように重く、そして冷たく張り付いている、説明のつかない強烈な『未練と絶望』が潜んでいるからだ。
己の頭が作り出しただけの架空の幸福であるはずなのに、なぜか夢の終わりに必ず『あの時、彼女の手を離すべきではなかった』『ああしていれば、こんな地獄を生きることはなかったのに』という、辻褄の合わない狂気じみた後悔と虚無感が、途方もない質量の絶望となって桜子の心臓を押し潰しにかかってくるのだ。
己の脳が捏造した架空の男の強烈な歓喜と、それに相反する巨大な絶望。
その二つの極端な情動が、初葉の冷たい器である桜子の精神へと、大河の濁流のように暴力的に流れ込み、彼女自身の『初葉桜子』という魂の輪郭を根こそぎ塗り潰そうとしていく。
顔も知らない架空の人物の生の熱量が、彼女の細胞一つ一つを内側から侵略し、書き換えていく。自分が誰であるかさえわからなくなり、架空の怨念と悲しみに意識がすっかり溶けて消滅してしまうという、究極の自我喪失の恐怖。
桜子は、得体の知れない幻覚に乗っ取られそうになる恐怖に耐えきれず、自らの頭蓋が割れるほどの力で、洋墨の染みで真っ黒に汚れた両手で己の頭を深く抱え込んだ。
自分が自分でなくなるという、地獄のような狂気から辛うじて逃れる方法は、ただ一つしか存在しない。
己の腑を喰い破ろうとするその美しくも残酷な幻影を、金張りの万年筆を使って、原稿用紙という物理的な牢獄へと一つ残らず書き出して定着させること。自らの血の代わりに洋墨を流し、言葉という鎖でその妄想の痛みを縛り付けて体外へ排泄すること。
それ以外に、彼女が正気を保ち、初葉桜子としてこの世に踏みとどまる術はなかった。
桜子は、硬直して激しく震える右手に万年筆を無理やり握り直し、骨が鳴るほど奥歯を噛み締めながら、再び赤い升目の引かれた白紙の原稿用紙へと向かった。
彼女が血の涙を流しながら書き連ねているのは、大衆を喜ばせるための娯楽小説などではない。
己の脳が捏造した、美しくも残酷な架空の喪失感であり、彼女自身の魂を守り抜くための、血塗られた防衛の儀式の記録であった。
帝都の街角で、大衆が彼女の紡いだ美しすぎる悲劇に酔いしれ、活字の持つ圧倒的な力に熱狂しているその裏側で。
天才ともてはやされた十八歳の少女は、己の脳が作り出した巨大な未練という名の悪夢に精神を蹂躙されながら、一切の光の差さない孤独な自室で、己の命を削って文字を吐き出し続けていた。




