第三章(2)
初葉桜子の名を冠した連載小説『幻燈花』の第三回が、帝都最大の部数を誇る『東京大衆日報』の紙面を飾った日の午後。
巨大な輪転機が吐き出した、油臭い洋墨の匂いをまとったその新聞は、瞬く間に帝都全土へと散らばり、読者たちの間に異様な熱狂と戦慄を巻き起こしていた。
第三回の紙面で克明に描かれていたのは、貧しい書生の男が立身出世の夢をことごとく捨て去り、長く連れ添った病弱な女と共に、隙間風の吹き込む長屋で貧しくも温かい生活を選ぶという、凄絶なる自己犠牲と純愛の美しき結末であった。
しかし、その物語を読み進める読者の胸を支配したのは、決して生温かい感動などではない。その美しく幸福な結末の裏側に、真っ赤な血糊のようにべっとりと張り付いている、臓腑を引き絞られるような圧倒的な喪失感と後悔であった。
それはまるで、この幸福な世界を外側から眺めている亡霊が、二度と手に入らないその温もりに対して血を吐きながら泣き叫んでいるかのような、異常なまでの絶望の気配を帯びていた。純文学の冷徹な筆致によって言語化されたその情景は、あまりにも残酷なまでに生々しく、読者の肺から酸素を奪い取るほどの無慈悲な力を持っていた。
帝都中がその美しすぎる絶望の描写に魂を揺さぶられ、戸惑いの声を上げているまさにその時。
外界の猥雑な空気を分厚い土塀で一切遮断し、何十年もの間、和紙の腐敗臭と白檀の高貴な香りのみを沈殿させてきた初葉本家の敷地内に、突如として、獣が血を吐くような、空気を物理的に引き裂く濁った怒声が響き渡った。
「出てこい、初葉桜子。俺の頭の中を、俺の人生を勝手に覗き見して原稿用紙に売り飛ばした活字の悪魔はどこにいる」
総檜造りの重厚な薬医門が、外側から凄まじい力で打ち付けられる。門扉を留める鉄の金具が悲鳴のような金属の軋轢音を立てた。何事かと駆けつけた使用人たちがいち早く潜り戸の閂を外した瞬間、その細い隙間から、初葉の静謐な空間には絶対に存在してはならない、強烈な異物が強引に身をねじ込んできた。
酒の酸っぱい腐敗臭と、路地裏の泥の臭気、そして何日も垢を落としていない人間の放つ、むせ返るような悪臭が、冷え切った屋敷の空気を一瞬にして汚染していく。
かつては帝都の大学で文学を志し、知的な自負を持っていたのであろうその見知らぬ男の容貌は、今や見る影もなく荒れ果てていた。両頬は病的に削げ落ち、落ち窪んだ眼窩の奥には、安酒の熱に浮かされた赤黒い狂気の光が宿っている。
「離せ。なぜ、俺が選ばなかったあの未来を書き立てた。なぜ、俺が毎晩未練がましく夢に見ているあの女との幸福な生活を、あんなにも生々しく書き立てたのだ」
男は、己の人生の最も隠しておきたい汚点を世間に暴かれた羞恥と、己の未練を完璧な文字の連なりによって突きつけられた圧倒的な絶望によって、知的な自尊心を微塵も粉砕されていた。純文学という無音の檻に閉じ込められてきた屋敷の庭で、見苦しくも無様な揉み合いが繰り広げられる。使用人の屈強な腕が男の胸倉を掴み、純白の砂利が波打つ枯山水の上に、男の痩せこけた肉体が何度も無慈悲に叩きつけられた。
前庭で繰り広げられるその陰惨な狂騒は、冷たい空気を伝って屋敷の奥の回廊にまで容赦なく轟いていた。
冷え切った板張りの廊下の片隅で、桜子は顔面を蒼白に硬直させ、自らの身体に微かな痙攣を起こしていた。彼女の双眸は見開かれ、壁の向こうから聞こえてくる男の絶叫の一言一句に、信じがたいものを聞くように縫い付けられていた。彼女の足元には、兄である清が、妹をかばうようにして膝をつき、必死に外の怒声から桜子の耳を塞ごうと手を伸ばしている。
その時、薄暗い廊下の奥から、上質な正絹の着物が擦れ合う冷たい衣擦れの音が急速に近づいてきた。実の母である文子であった。
普段は屋敷の片隅で幽鬼のように息を潜めている彼女の顔には、今、血走った異常な執着の色が浮かんでいた。
「桜子」
文子は、廊下を滑るように走り寄ると、震える桜子の華奢な肩を両腕で強く、痛いほどに抱き寄せた。そして、外界の狂気から愛する娘をすっかり遮断するように、桜子の身体を己の背後へと力強く庇い立てた。
「いけません、見聞きしてはいけません。お前は、初葉の次期当主となる神聖な器。あのような、外で喚き散らす下賤な者に、お前のその美しい目を向けてはならないのです」
文子の声は、娘を守ろうとする絶対的な母親の愛情に満ちていた。彼女の冷たく細い指先が、桜子の乱れた漆黒の髪を、ひどく愛おしむように何度も撫でつける。
しかし、その美しくも胸を打たれる愛情の情景のすぐ足元で、信じがたいほどに残酷で、背筋の凍るような現実が静かに進行していた。
桜子を背後へと隠すために大きく踏み出された文子の右足の白足袋が、廊下にうずくまっている清の着物の裾を、己の全体重を乗せて容赦なく踏み躙っていたのだ。
清は、極度の吃音の呪縛によって抗議の声を上げることもできず、気管を締め付けられる苦痛に顔を歪めながら、ただ己の母親の足元で虫けらのように息を殺している。
しかし、文子は己の足の裏に伝わる実の息子の肉体の感触に、少しも気づいていなかった。文子の視界には、神聖なる才能を持った愛娘・桜子しか映っていない。言葉を持たず、純文学の血脈において何の役にも立たない無力な長男は、彼女の瞳の網膜において、完全なる透明な虚無として、初めからこの世に存在しないものとして抹消されていたのである。
神聖な娘に対する狂気的なまでの無償の愛と、言葉を持たない長男に対する絶対的な無関心。視界から存在を跡形もなく消去し、その肉体を踏み躙っているという物理的感触すらも脳髄に届かない、背筋の凍るような精神の欠落であった。
しかし、母の腕の中に抱きしめられていた桜子の全身は、突如として氷水を浴びせられたかのように激しく粟立っていた。
『なぜ、俺が選ばなかったあの未来を書き立てた』
壁の向こうから響いてくる、見知らぬ男の絶叫。
昨夜、自室で悪寒に震えながら原稿用紙に書き殴った、あの美しくも幸福な長屋の生活。己の過敏な脳が捏造する単なる架空の幻覚だと思い込んでいたあの美しい悪夢は、今まさに門の外で吼えているこの見知らぬ男の、現実の過去の分岐点。彼が選び損ねた『あり得たかもしれない幸福』そのものだというのか。
『――私の見る夢は、架空の幻覚などではない。現実に生きている人間の、選ばれなかった人生の姿なのだ』
その恐ろしい真実に気がついた瞬間、桜子の心臓は絶対零度の冷気を浴びたように激しく収縮した。他人の本物の人生を、本物の圧倒的な未練の質量を、自分はこの細い身体一つで夜な夜な背負い込み、活字にして世間に晒し出してしまったのだ。
「桜子、いけません。あのような狂人の声を聞いてはなりません」
恐怖に震えながら抱きしめてくる文子の腕を、桜子は静かに、しかし断固たる拒絶の力を持って振り払った。
「お母様、お下がりください」
振り返った娘の、感情を一切凍結させた氷柱のように冷ややかな顔に、文子は息を呑んで後ずさった。
桜子は、踏みつけられていた清の着物の裾から母の足を退けさせると、一寸の乱れもない完璧な所作で廊下を進み、男を取り押さえている使用人たちに向かって、氷のように平坦な声で命じた。
「その者を、離れの客間へ通しなさい。私が話をします」
純文学の聖域に、泥にまみれた者を上げるわけにはいかない。しかし、自分の書いた物語によって人生の汚点を抉り出されたこの男と、彼女は初葉の次期当主として、いや、他人の魂の深淵を活字で切り刻んだ業の深い書き手として、絶対に対峙しなければならなかった。




