第三章(3)
数人の屈強な使用人たちによって腕をねじ上げられ、乱暴に引きずられてきた男の身体が、離れにある薄暗い客間の畳の上へと投げ出された。
分厚い襖が、背後で重々しい摺動音を立てて閉ざされる。
男の肺腑を満たしていた浅草の泥臭い風と安酒の匂いは、初葉の敷地に沈殿する和紙の酸っぱい腐敗臭と、濃密に焚き染められた白檀の高貴な香りによってことごとく圧倒され、息が詰まるほどの静寂が部屋全体を支配した。
男は、荒い呼吸を繰り返しながらゆっくりと顔を上げた。
薄暗い白熱電燈の鈍い光に照らされた部屋の中央に、一人の少女が静かに端座していた。
上質な正絹の着物を身に纏い、一切の乱れなく結い上げられた漆黒の髪。血の通った人間というよりは、精巧に焼かれた白磁の陶器のように透き通る青白い肌。そして、長く伏せられた睫毛の奥で、底知れぬ静謐を湛えている漆黒の瞳。
初葉の三代目当主にして、『幻燈花』の作者、初葉桜子であった。
「お前が、初葉桜子か」
男の口から、憎悪と警戒の入り混じった濁った声が漏れた。
帝都中を熱狂させているあの凄惨で美しい絶望の物語を、このような世間知らずの、人形のように無機質な十八歳の少女が書いたという事実が、男の卑小な自尊心を激しく逆撫でしていた。
彼は、畳に泥を擦りつけながら立ち上がると、痩せこけた両肩を怒りで震わせ、襤褸のような自尊心を振り翳すような大仰な手振りで桜子を指差した。
「俺は能村現だ。答えろ。なぜ、見ず知らずのお前が、俺の頭の中にある理想の人生を知っている。俺があの女と過ごしたかった長屋の情景を、俺が彼女と共に生きていくというあの美しい結末を、なぜお前が原稿用紙に書き立てたのだ」
能村現。男が自ら喚き散らしたその名と怨嗟の言葉を聞いた瞬間、桜子の胸の内で、これまで彼女を暗闇の底で苛み続けてきた不可解な悪夢の正体が、初めて明確な輪郭を持って結像した。
昨日まで、彼女は自分の過敏な脳が狂気的な幻覚を捏造しているのだと思い込んでいた。自分とは何の関係もない架空の幸福と喪失が、夜な夜な脳髄に流れ込んでくるのだと恐れていた。
しかし、今目の前で狂乱しているこの男の言葉と、自分が夢で見たあの愛おしい長屋の光景が、寸分の狂いもなく符合する。
あの貧しくも温かな長屋での生活。麦飯を分け合い、寒さに震えながら手を繋いだあの記憶は、単なる脳の捏造などではなかった。現実に生きるこの男が心の底で熱望しながらも、自らの手で切り捨て、選び取らなかった、もう一つの人生の分岐点だったのだ。そして、その美しい幻影の裏側にへばりついていた腑を裏返すような絶望感は、現実の世界で己の選択を後悔し続けている、この男自身の生々しい怨念の流入だったのだと。
他人の魂の喪失を、他人の血を吐くような未練を、自分はこの細い身体で代行させられていたのだという圧倒的な事実が、桜子の冷たい理性を激しく揺さぶった。
その桜子の内面で起こっている決定的な気づきを読み取ることなく、能村は己の知的な自尊心を総動員し、言葉という名の鎧で自らの柔弱な精神を必死に武装し始めた。
「文学とは、己の血と肉を削り、底辺を這いずり回る絶望の中からのみ生まれる神聖な芸術だ。お前のように、温かな屋敷の奥で保護されているだけの特権階級の小娘に、泥水をすする苦しみなど理解できるはずがない。お前はただ、俺の胸の内に秘めた至上の愛と身を切るような献身の記憶を、大衆を喜ばせるための見世物として盗み出し、安っぽい活字に変換しただけの卑劣な泥棒だ」
能村は、自らが愛した女を捨てたという残酷な現実を、『自己犠牲』という美しい言葉で必死に正当化しようとしていた。
貧しい文学青年であった自分が、彼女の未来を束縛しないために、あえて涙を飲んで身を引いたのだという、悲劇の主人公としての強固な理論武装。俺は彼女のために己の愛を殺したのだという、自己陶酔に満ちた浅ましい叫びが、唾液とともに客間の空中に撒き散らされる。
「俺は、彼女を愛していた。だからこそ、俺のような貧乏な書生と泥水すする生活をさせるわけにはいかなかったのだ。お前が書いたような、あんな貧乏長屋での生活を彼女に強いるわけにはいかない。俺のあの日の別れの決断は、彼女の幸福を願うがゆえの、血を吐くような愛情の証明だった。それをお前は、無知な小娘の分際で」
能村の息の詰まるような熱弁が、客間の壁に反響して消えていく。
どれほど言葉を尽くして己を正当化しようとも、桜子の白磁のような顔には、軽蔑の色も、怒りの色も浮かばなかった。
彼女は、目の前の男がたった今口にした言い訳の裏側に、自分が今しがた理解したばかりの呪いの正体を静かに重ね合わせていた。
「能村様」
やがて、銀の鈴を転がすような、透き通った冷たい声が静寂を破った。
桜子は、膝の上で白く細い両手を静かに重ね合わせると、一切の淀みない口調で、言葉を紡ぎ始めた。
「私は、あなたのことなど何も知りませんでした。昨日まで、私は自分の頭が狂ってしまったのだと、ただ怯えていたのです。私の脳髄に、突如として見知らぬ誰かの、息を呑むほどに美しく、途方もなく愛に溢れた、完璧な日常の幻覚が流れ込んできたからです」
桜子の言葉に、能村は眉をひそめて黙り込んだ。桜子は、自らの精神を侵食したその夢の光景を、一つ一つ確認するように静かに語る。
「隙間風の吹き込む粗末な長屋で、彼女の作ってくれた安価な麦飯を二人で囲む夕餉。あなたが古本屋で買ってきた書物を読み聞かせる間、彼女が微笑みながらあなたの破れた外套を繕ってくれる時間。そして、冬の凍えるような夜に、互いの冷え切った指先を絡め合い、小さな体温を分け合いながら眠りにつく、あの溶けるような安堵感。それは、私がこの初葉の屋敷でどれほど望んでも絶対に手に入れることのできない、圧倒的な幸福の幻影でした」
桜子の語る言葉が、能村の脳裏に、かつて彼自身が幾度も夢想し、そして自らの手で握り潰したはずの、彼女との温かな生活の記憶を鮮明に蘇らせていく。
「それほどまでに美しい情景であったなら、なぜ、お前の書いた小説からはあのような異常な喪失感と絶望が漂ってくるのだ」
能村は、激しく混乱しながら声を荒げた。
「俺たちの愛がそれほど美しかったと知っているのなら、なぜ、あの物語の裏側に、息が詰まるほどのどす黒い後悔の念を塗りたくった」
桜子は、伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げ、能村の充血した狂気の瞳を、逃げ場のない真実の光で射抜いた。
彼女の眼差しは、彼を裁こうとするものではない。ただ、自らが背負わされた因果の正体と、目の前の男の抱える底知れぬ業の深さを、静かに受け止めようとする痛切な光に満ちていた。
「それが、あなた自身の現実の姿だからです。今、あなたの口からお話を伺って、私にもようやくすべての辻褄が合いました」
桜子の声が、一段と低く、客間の底を這うような重さを帯びた。
「あなたは先ほど、彼女の幸福を願うがゆえに、自己犠牲の精神で身を引いたと仰いました。しかし、それは嘘です。あなたの心の一番深い底に沈んでいたものは、そのような崇高な愛情ではありません」
能村の唇が、恐怖に微かに震え始めた。自らが何重にも着込んでいた理論武装の鎧が、桜子の静かな指摘によって音を立ててひび割れていく。
「あなたは、ただ恐ろしかったのですね」
桜子の言葉が、能村の胸の奥の最も柔らかく、最も醜い部分に、容赦なく刃を突き立てる。
「貧しい彼女とこのまま生活を共にすれば、自分が文学という高尚な世界から徹底して脱落し、日々の生活費を稼ぐためだけの、名もなき泥まみれの労働者に成り下がってしまうのではないか。知識階級としての自分の価値が、彼女の存在によってすっかり失われてしまうのではないか。あなたは、彼女の不幸を恐れたのではなく、自分自身が泥水の中に沈んでいくことを恐れたのです」
客間の空気が、氷のように凍りついた。能村は、息を吸うことすら忘れ、ただ見開かれた眼球で桜子の顔を見つめたまま硬直していた。
「愛する女性の人生を引き受けるという責任から逃げ出し、己の卑小な保身を守るために、あなたは彼女の手を離した。そして、その自己保身の逃亡を、彼女のための身代わりの美談で装飾し、自分自身を必死に誤魔化し続けてきた。違いますか」
桜子の言葉には、一切の感情の昂りもなかった。だからこそ、その静かな事実の提示は、いかなる暴力よりも重く、能村の魂を物理的に叩き潰す力を持っていた。
「私の脳髄に流れ込んできたのは、その恐ろしい自己欺瞞と、彼女を捨てた直後からあなたの全身を苛み続けている、底知れぬ後悔の念でした。彼女のいない空っぽの現実で、己の愚かさと孤独に絶望し、腹の底から血を吐きながら、本当はあの時ああしていればと泣き叫ぶ、あなたの惨めな本音です」
桜子は、膝の上で白く細い指先をさらに固く握りしめた。
「私は、あなたを救うためや、大衆を喜ばせるためにあの物語を書いたのではありません。あなたの抱えるその強烈な未練と絶望の質量に、私自身の魂が食い殺される恐怖から逃れるためでした。私はただ、自分自身が正気を保つために、あなたが捨てた美しい人生の幻影と、その奥底で腐臭を放つあなたの悲惨な本音を、原稿用紙の上に排泄するしかなかったのです」
桜子の残酷なまでの真実の告白が終わると同時に、能村の全身を支えていた見えない骨組みが、跡形もなく砕け散った。
知識人としての虚飾も、自己犠牲という美しい嘘も、すべてが根こそぎ剥がれ落ちた。能村の痩せこけた膝が、畳の上に力なく崩れ落ちる。
男の喉の奥から、獣の咆哮のような濁った嗚咽が漏れ出した。
両手が畳の目を力任せに掻き毟り、頭を深く床に擦り付ける。落ち窪んだ眼窩からは、長年心の奥底に封印し続けてきた濁った涙が、堰を切ったように溢れ出していた。
鼻水と涙で泥まみれの顔をさらに汚し、能村は子供のように肩を震わせながら、地面に這いつくばったまま咽び泣いた。それは、どれほど美しい言葉で取り繕おうとも決して消し去ることのできなかった、彼自身の最も醜く、そして最も純粋な泥臭い後悔の吐露であった。
「怖かった。俺は、ただ怖かったんだ」
能村の口から、血を吐くような惨めな本音が、しゃくり上げる声とともに絞り出される。
「学問を捨てるのが怖かった。底辺の労働者になるのが怖かった。でも、俺は、俺は本当に彼女を愛していたんだ。彼女の作ってくれる冷たい麦飯が、彼女の笑い顔が、俺の人生のすべてだったのに。俺は、俺の弱さが、彼女を」
男の慟哭が、和紙の腐敗臭と白檀の香りが満ちる初葉の客間に、泥水のように生々しく響き渡る。
大正の帝都で、己の保身のために愛する者を切り捨て、その罪悪感に一生を支配されることを決定づけられた一人の哀れな男。
桜子は、床に突っ伏して泣き喚くその無様な背中を、見下すことも、蔑むこともなく、ただ深い悲哀に満ちた静かな瞳で見下ろしていた。
他人の選ばれなかった人生を幻視し、その絶望の重さを活字にするという、自らに科せられた新しい因果の輪郭。桜子は、その男の魂が流刑地に辿り着き、泣き疲れるまでの長い時間を、微動だにせず、ただ静かに見守り続けていた。




