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『幻燈花』  作者: 長月有希


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第三章(4)

 畳の目を濡らす涙の冷たさと、男の肺の奥底から搾り出される汚泥のような嗚咽(おえつ)だけが、薄暗い客間の静寂を不規則に震わせている。


 初葉(いちは)の敷地に沈殿する和紙の腐敗臭と白檀(びゃくだん)の高貴な香りが混じり合う中、能村(のむら)(げん)は己の人生の最も見られたくない瑕疵(かし)をことごとく解体され、ただの脆弱な肉の塊となって床に這いつくばっていた。

 己の保身のために愛する女を捨てたという醜悪な真実。それを自己犠牲という美しい言葉で覆い隠し、何年もの間、自分自身すらも騙し続けてきた浅ましい虚飾(きょしょく)。そのすべてが、目の前に端座(たんざ)する十八歳の少女の静かな事実の提示によって、無惨なまでに剥がれ落ちてしまったのだ。

 彼に残されているのは、もはや取り繕うことのできない揺るぎない後悔と、自分が己の弱さゆえに最も大切なものを永遠に喪失してしまったという、取り返しのつかない絶望だけであった。


 桜子(さくらこ)は、畳に突っ伏して肩を震わせるその惨めな背中を、白磁の彫刻のように冷たく、そして完璧な静謐(せいひつ)をもって見つめ続けていた。

 他人の魂に潜む暗部を活字にして引きずり出すという行為は、必然的にその人間の精神を一度完膚なきまでに破壊する。桜子は、自らが正気を保つためだけに原稿用紙の上へ排泄した文字の連なりが、一人の人間の魂をいかに残酷に切り刻む凶器であるかを、今、目の前で血を吐くように泣き崩れる男の姿を通して、絶対的な事実として理解していた。


 自分が昨日まで狂気だと思い込み、自我の崩壊から逃れるためだけに書き殴ったあの喪失の物語は、現実に生きる人間の急所を正確に貫く鋭利な刃であった。

 しかし、桜子の漆黒の瞳には、己の行いに対する後悔も、男の醜態を蔑む色も一切浮かんでいなかった。初葉の次期当主として、そして他人の選ばれなかった人生の(ごう)を背負うと決めた彼女には、ここで目を逸らすことなど許されない。自分の身勝手な排泄行為が結果としてこの男の精神を無残に解体してしまった以上、彼女にはその流血に最後まで立ち会い、己の言葉でこの魂に結末を提示する義務があった。


「能村様」


 やがて、桜子の薄い桜色の唇から、微かな温度を帯びた声が紡ぎ出された。

 それは、先ほどまで男の自己欺瞞を容赦なく切り裂いていた氷柱のような冷徹さとは徹底して異なる、ひどく穏やかで、深い響きを持っていた。


「私が原稿用紙に書き出したあの物語は、決してあなたを断罪するためのものではありません。私が私自身の魂の崩壊から逃れるための、身勝手な防衛の痕跡に過ぎませんでした。しかし、今こうして、あの幻影の持ち主であるあなたが私の目の前で血を流している。ですから、私はあの夢の中で確かに触れた、もう一つの真実について、あなたにお伝えしなければなりません」


 その言葉に、能村の肩の震えが微かに止まった。

 桜子は、膝の上で重ね合わせた己の白く細い指先を見つめながら、夢の中で確かに味わったはずの、あの温かな幻覚の記憶をゆっくりと手繰り寄せ始めた。


「私の脳髄(のうずい)に流れ込んできたあの美しい生活の中で、彼女の手は、若く美しい女性のものとは到底思えないほど、ひどく荒れていました。冬の冷たい水で洗い物をし、あなたの破れた外套(がいとう)を繕うために何度も針を刺したせいで、指先はひび割れ、掌には固い豆がいくつもできていた。それでも、彼女はその荒れた手であなたの冷えた頬を包み込み、まるでこの世の何よりも尊いものに触れるかのように、ただ愛おしそうに微笑んでいました」


 桜子の静かな語り口が、能村の脳裏に、かつて彼自身が幾度も夢想し、そして自らの手で握り潰したはずの、彼女との温かな生活の記憶を鮮明に蘇らせていく。


「あなたは、自分が貧しいがゆえに彼女を不幸にしてしまうと恐れていた。知識階級としての自分の価値が泥水の中に沈んでいく恐怖に耐えきれず、彼女の手を離した。しかし、私がその幻影の中で確かに感じ取った彼女の真意は、あなたのその卑小(ひしょう)な恐怖とは全く次元の違う、はるかに深く、そして途方もなく広いものでした」


 桜子は、伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げ、畳に額を擦り付けている能村の背中へと、力強い視線を注いだ。


「彼女は、あなたの抱えていた卑小な恐怖や、学問を志す者としての浅ましい自尊心を、とうの昔にすべて見抜いていたはずです。あなたが日々の貧しさに怯え、己の才能の限界に絶望し、いつか自分から逃げ出してしまうかもしれないという底知れぬ弱さすらも、彼女は余すところなく理解していた。その上で、あのような底抜けに温かく、すべてを包み込むような微笑みをあなたに向けていたのです。彼女は、あなたの貧しさや肩書ではなく、己の弱さに怯えて震えているあなたのその不完全な魂の形そのものを、深く、ただ深く愛していたのです」


 桜子の言葉は、能村の精神の最も深い部分に、音もなく突き刺さった。

 それは彼を裁くための冷酷な刃ではない。化膿しきった精神の傷口を切り開き、長年溜まり続けていた猛毒の膿をきれいに絞り出すための、無慈悲で、そして限りなく優しい凄絶(せいぜつ)なる解剖であった。


「あなたが背を向けたあの雨の日。彼女が泥の中に崩れ落ちて流した涙は、自分を捨てたあなたを恨むものではなかったはずです。自分という重荷のせいで、あなたが己の恐怖に押し潰され、ついに逃げ出さざるを得なくなってしまったことへの、どうしようもない深い哀しみと、あなたへの同情の涙だったのではないでしょうか」


 その決定的な真実の提示に、能村の喉の奥から、肺を裂くような嗚咽が漏れ出した。

 自分は彼女のために身を引いたのだという自己欺瞞の奥底で、本当は自分が彼女の圧倒的な愛情から逃げ出しただけなのだという事実に、彼は初めから気がついていたのだ。自分が恐れていたのは貧困ではなく、自分の底知れぬ弱さをすべて許容し、愛し尽くそうとする彼女のその巨大な無償の愛の前に立つことで、己の卑小さが白日の下に晒されてしまうことであった。


「あなたは、己の罪を身代わりの美談で誤魔化す必要などなかったのです。ただ、己の弱さを認め、彼女への愛だけを抱えて、泥水の中を泥だらけになって這いつくばって生きていけばよかった。しかし、あなたはそれを選べなかった。だからこそ、その痛切な未練が私の脳髄に流れ込み、あの美しすぎる幻影を見せたのです」


 桜子の言葉には、能村の罪を許す響きが含まれていた。

 十八歳という、本来ならば世の汚れなど何も知らないはずの年端もゆかぬ少女。初葉の次期当主として、冷酷なまでに完璧な美しさと威厳を備えた彼女の姿。しかし、今この客間に端座する彼女の漆黒の瞳の奥底に湛えられているのは、数多の人間が背負う業と絶望をその身に引き受け、すべてを浄化する大河のような、途方もなく深く重い母性の光であった。

 その光は、能村の魂を縛り付けていた怨念の鎖を、静かに、しかし確実に溶かしていった。


「あの物語は、あなたが彼女への愛から逃げ出したという、決定的な敗北の記録です」


 桜子は、己の膝の上で白く細い両手を静かに重ね合わせ、宣告するように言い放った。


「しかし、それは同時に、あなたがかつて、一人の女性からこれ以上ないほど深く、すべてを許されるほどに愛されていたという、絶対的な事実の証明でもあります。私の書いた活字があなたの罪をこの世に定着させたように、彼女の愛もまた、確かな真実としてそこに定着しているのです。あなたは、その泥まみれの後悔と、彼女から与えられていた真実の愛の記憶だけを抱えて、これからの残された人生を、己の足で歩いていかなければならないのです」


 桜子の救済の言葉が終わった後、客間には長い、あまりにも長い沈黙が降りてきた。

 能村の嗚咽は、いつしか泥のような濁った音から、ひどく静かで透明な、浄化の涙へと変わっていた。何年もの間、己の精神を蝕み続けてきた猛毒の膿がすっかり流れ出し、後に残されたのは、心地よいほどの圧倒的な虚脱感と、己の罪を一生背負って生きていくという、冷厳で重い覚悟だけであった。


 彼はゆっくりと、畳の上に押し付けていた顔を上げた。

 涙と鼻水で顔をひどく汚したその表情からは、屋敷に押し入ってきた時のあの妄執と憎悪の影は跡形もなく消え去り、まるで長年の憑き物が落ちたかのような、不思議なまでの安らぎが宿っていた。

 能村は、よろめきながらも己の足で立ち上がり、乱れた着物の襟を不器用な手つきで正した。

 そして、己の人生の最も惨めな瑕疵を暴き、同時に己の魂を地獄の底から掬い上げてくれた目の前の少女に向かって、深々と、床に顔が着くほどに、丁寧な礼をした。


 言葉は、一つもなかった。

 今の彼には、どのような言葉も、この少女の与えてくれた圧倒的な救済の前では無意味で安っぽいものに過ぎないことを、彼は文学を志した者として痛いほど理解していたからだ。


 男が襖を開け、音もなく客間から立ち去った後。

 和紙と白檀の香りが満ちる薄暗い部屋に、桜子はただ一人、孤独に取り残された。

 他人の魂を解体し、己の言葉で再構築して背中を押すという行為は、彼女自身の魂の芯を激しく削り取る、命を燃やすような儀式であった。


 桜子は、重ね合わせた両手をゆっくりと解き、着物の袖でそっと己の額に滲んだ冷や汗を拭った。彼女の青白い顔には、一つの人生の結末を見届けた者の、重い疲労の色が色濃く浮かんでいる。

 自分が背負うべき真の役割の重さを理解した桜子は、己の細い肩にのしかかるその途方もない重圧を確かめるように、静まり返った客間の中で、ただ長く、深い嘆息(たんそく)を一つだけ吐き出した。

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