第三章(5)
能村現という男が離れの客間を去った後、初葉の敷地には再び、耳鳴りがするほどの重苦しい死の静寂が舞い戻っていた。
男が残していった酒の饐えた腐敗臭と、路地裏の泥の匂いは、屋敷の床下に何十年もかけて沈殿してきた和紙の淀んだ死臭と白檀の濃密な香りによって、ゆっくりと、しかし確実に駆逐され、呑み込まれていく。畳の目に染み込んだ男の濁った涙の痕跡だけが、先ほどまでそこに一つの生々しい絶望が這いつくばっていたことの、唯一の証明として残されていた。
桜子は、男が去っていった薄暗い襖の向こう側を見つめたまま、白磁の彫刻のように微動だにせず端座し続けていた。彼女の膝の上で固く組み合わされた両手は、血の気を失って透き通るほどに青白く、その細い肩は、目に見えない巨大な墓石を背負わされたかのように、ひどく重く沈み込んでいる。
音もなく客間の襖が開き、清が静かに足を踏み入れた。
彼は先ほど、母である文子の足元で己の存在を一切の価値なきものとして踏み躙られながら、妹がたった一人で狂乱する男と対峙し、その魂を解体し救済する凄絶な過程を、ただ壁の向こう側から息を殺して見守ることしかできなかった。言葉を持たない無力な兄は、妹を外界の暴力から守ってやることも、彼女の背負う重圧を代わってやることもできない。その己の無力さが、清の喉の奥を焼け焦げるような痛みで苛んでいた。
清は、畳の底冷えを確かめるようにゆっくりと歩みを進め、桜子の斜め後ろに腰を下ろした。そして、何も言わずに、ただ己の体温を伝えるように、妹の冷え切った小さな背中にそっと己の影を重ね合わせた。
「お兄様」
長い沈黙の後、桜子の薄い唇が微かに動いた。
こちらを振り返ることなく紡がれたその声は、ひどく乾き、そして、今にも砕け散ってしまいそうなほどに脆い響きを帯びていた。
「私の頭の中に流れ込んでくるのは、架空の幻覚ではありませんでした。帝都のどこかで現実に生きている人間たちが、かつて己の人生の分岐点で熱望し、自らの弱さゆえに選び取ることのできなかった人生の姿。彼らが一生をかけて後悔し続ける、他人の本物の『喪失』そのものだったのです」
清は、己の膝の上で強く拳を握りしめた。
現実の人間が手に入れられなかった、美しい幻影。それが桜子の異常な感受性を通して、彼女の魂に強制的に流れ込んでいるというのか。
「夢の中の私は、私ではありません。私は名も知らぬ書生となり、見知らぬ大工となり、あるいは誰かの妻となって、その美しい生活を内側から体験するのです。愛する者と食卓を囲み、互いの体温を感じ合い、息を呑むほどの幸福と揺るぎない安堵に包まれる。しかし、その幸福は現実には存在しない、永遠に失われたもの。だからこそ、目が覚めた時の絶望は計り知れないものになります」
桜子の両肩が、微かに、しかし確かに震え始めた。
彼女が語るその代償の恐ろしさは、清の想像をはるかに絶するものであった。以前、離れの部屋で彼女が語った「自我が溶け出す恐怖」の正体は、これほどまでに生々しく、途方もない質量を持った他者の業の流入だったのだ。
「元の持ち主の、血を吐くような未練と虚無感が、凄まじい絶望となって私自身の心臓を直接押し潰しにかかってくる。他人の強烈な歓喜と、それに比例する巨大な絶望。その二つの極端な情動が、初葉の氷の器である私の精神へと暴力的なまでに流れ込み、私自身の初葉桜子という魂の輪郭を根こそぎ塗り潰そうとするのです」
桜子は、ついに清の方へとゆっくりと振り返った。
その漆黒の瞳の奥には、十八歳の少女が到底背負いきれるはずのない、底知れぬ恐怖と深い絶望が渦巻いていた。
「お兄様。私が他人の人生を原稿用紙に書き出し、世間に晒し出さなければならない理由は、父の命令に従うためではありません。その美しくも恐ろしい他人の人生の重圧を、言葉という鎖で縛り付けて自分の外側へ排泄しなければ、私が私でなくなってしまうからです」
桜子はさらに言葉を続ける。
「しかし、私が己の魂を守るために活字を吐き出せば吐き出すほど、それは現実の彼らの人生を鋭利な刃で切り刻み、彼らの最も見られたくない精神の『瑕疵』を世間に抉り出すことになります。私は、自分の命を繋ぎ止めるために、他人の人生を永遠の悲劇として殺し続けているのです。この呪いは、私が初葉桜子として生きる限り、一生終わることはありません」
桜子の凄絶な告白は、初葉という一族が抱える純文学の業の、最も残酷な真実であった。
他人の選ばれなかった人生を消費し、その絶望を美しい文字に変換することでしか生きられない呪われた因果。その業を、この細く脆い妹がたった一人で背負い、毎夜、自我崩壊の恐怖と戦いながら、血を流して言葉を紡いでいるのだ。
清の胸の奥底で、激情が黒い炎となって噴き上がった。
妹を救いたい。この理不尽な地獄から、彼女を今すぐ連れ出したい。しかし、極度の吃音に縛られた清の喉は、鉛を流し込まれたように硬直して微動だにせず、慰めの言葉一つ、励ましの言葉一つすら紡ぎ出すことができない。言葉を持たない彼は、言葉の呪いに縛られた妹を救う術を何も持っていなかった。
清は、激しい自己嫌悪と無力感に苛まれながら、己の唇を強く噛み破った。鉄の匂いのする血の味が、口腔に生々しく広がる。
しかし、その絶望的な無音の漆黒の中で、清の手は、己の二重回しの下に隠し持っていた硬質な金属の塊に触れていた。
黒革に包まれた、分厚い硝子乾板を装填した舶来の高級暗箱。
初葉の屋敷において、活字以外のすべてを否定するこの狂信的な空間において、清に許された唯一の外界との繋がりであり、光を切り取るための無二の機械。
清は、冷ややかな真鍮の角を狂おしいほど強く握りしめた。
『言葉が桜子を呪い、他人の業が彼女の自我を食い殺そうとするのなら』
清の脳裏に、かつて離れの部屋で彼女と交わした密やかな誓いが、より深く、鋭い光を伴って閃いた。
彼には言葉がない。他人の人生を描き出すことも、見事な物語を紡ぐこともできない。しかし、この冷徹な光の箱を使えば、ただ一つの現実を、一寸の狂いもなく硝子板の上に定着させることができる。
桜子が他人の巨大な感情に呑み込まれ、己の自我を見失いそうになった時。自分が誰なのか分からなくなり、暗闇の底へ沈んでいきそうになったその時。
自分がこの焦点硝子越しに彼女を見つめ、彼女の真実の姿を光の束として切り取ってやればいい。
『君は、書生でも、大工でも、名もなき誰かの妻でもない。君は、初葉桜子だ。僕の、たった一人の大切な妹だ』
その事実だけを、言葉ではなく、確固たる光の記録として彼女に突きつけ、この泥水のような現実に彼女の魂を力ずくで繋ぎ止めてやる。彼女がどれほど他人の人生の濁流に押し流されようとも、自分が何度でも彼女の輪郭を写し取り、彼女が彼女自身であることを証明し続ける。
それが、言葉を奪われた無力な兄が、言葉の因果に囚われた妹を救うための、たった一つの、そして永遠の戦い方であった。
清は、血の滲んだ唇の端を微かに歪め、不器用な、しかしこの世の何よりも温かな決意の微笑みを桜子に向けた。
そして、己の喉の苦痛に耐えながら、何も言わずに両手を伸ばし、恐怖に震える妹の細い両肩を、壊れ物を扱うようにそっと、しかし確かな力強さで包み込んだ。
言葉の呪いに縛り付けられた妹と、言葉を奪われた兄。
大正の帝都の片隅で、一日のうちで一度も陽の差すことのない初葉の凍てつく客間の中で、二人の孤独な魂は、他人の絶望という底知れぬ深淵を前にして、互いの存在だけを唯一の命綱として強く結びつき合っていた。
これから先、桜子の前にどれほど多くの選ばれなかった人生が姿を現し、どれほど恐ろしい未練の重圧が彼女の精神を押し潰そうとも、彼らはもう決して目を逸らすことはない。
暗箱の無機質な感触を胸に抱きながら、清は、妹の背負うその残酷な業を、己の命の限り共に背負い抜くことを、誰に聞こえることもない深い死の静寂の中で、己の魂に固く誓っていた。




