第四章(1)
大正十二年、初夏。
長雨の気配を濃厚に孕んだ帝都の夜空は、無数の工場群が吐き出し続けた煤煙と、東京湾から這い上がってくる重く湿った季節風とが混ざり合い、星の光はおろか月の輪郭すらも跡形もなく呑み込む、底なしの暗黒に沈んでいた。
貸事務所の入る洋館の三階の窓から見下ろす街の情景は、時代の過渡期がもたらした異形にして凄惨な歪みを、剥き出しの暴力のように呈している。鋪装された大通りの両脇には、冷たい西洋の論理によって計算し尽くされた煉瓦造りの威圧的な洋館と、冷徹な灰色の肌を晒す鉄骨鉄筋の近代建築が、夜の闇に同化する途方もない墓標のようにそびえ立っていた。それらの建造物は、ただそこにあるだけで空間そのものを圧迫し、人間の背丈をはるかに凌駕する威圧感をもって帝都の地表に根を張っている。
そして、その近代建築群が落とす漆黒の影の谷間に、息を潜めるようにして身を寄せ合っているのが、江戸の昔から続く低く連なる木造家屋の群れであった。土と紙と木だけで構築されたその旧時代的な構造物は、鉄と骨材の抗いようのない質量の前に押し潰されまいと、必死に瓦屋根を連ねて抵抗しているように見える。しかし、その姿はどこか滑稽であり、凶暴な肉食獣の足元に群れる小動物のような、救いがたい脆弱さを孕んでいた。重厚な近代化の波が、古い時代の木組みを容赦なく軋ませ、伝統という名の柔らかな皮膚を引き裂いて、新しい帝都の骨格を強引に形成しようとしている。その新旧の摩擦と軋轢が、音のない悲鳴となって、初夏特有の粘度の高い夜の空気に満ちていた。
その異形なる帝都の夜景から分厚い硝子窓一枚で隔てられた室内には、外界の湿気とは対極にある、むせ返るような澱んだ空気が滞留していた。
換気されることのない狭い設計事務所の空間には、安価な両切煙草の紫煙が幾重にも層を成して沈殿しており、白熱電球の病的な黄色い光を乱反射させている。呼吸をするたびに、肺の奥底に微細な灰の粒子がこびりつくような、粘り気のある空気。それに加えて、製図用の青焼きの紙が放つ阿摩尼亜の刺激臭と、墨汁の鋭い金属臭、そして長年蓄積された古い専門書の黴た匂い、さらには初夏特有の蒸し暑さによる人間の汗の匂いが複雑に絡み合い、空間全体に一種の麻酔のような重苦しい密度を与えていた。
その粘度の高い静寂を不規則に切り裂いているのは、硬質の木製定規が、分厚い製図用紙の表面を擦る乾いた音だけである。それはまるで、肉を削ぎ落とされた骨と骨とが擦れ合うような、生命感のない、神経を逆撫でする響きを持っていた。
室内のただ一つの光源である卓上電球の下、滝沢鉄朗は、巨大な製図板に覆い被さるようにして、背骨を深く折り曲げていた。
本来であれば、うら若い青年らしい精悍な生命力に満ちているはずの彼の肉体は、今や極限の疲労によってことごとく生気を抜き取られ、見えない糸で吊るされたからくり人形のような不自然な硬直状態にあった。何日もまともな睡眠をとっていない彼の両眼の奥には、融解した鉛を直接流し込まれたかのような、熱を帯びた激痛と実体のある重圧が居座っている。瞬きをするたびに、乾ききった眼球の裏側で砂粒が擦れるような不快な感触が走り、視界の周縁部は常に薄暗い靄に侵食されていた。
太い首の筋肉は、錆びついた鋼線のように強張って悲鳴を上げ、浅く短い呼吸を繰り返すたびに、酷使された内臓からせり上がってくる胃液の酸っぱい味と、微かな血の匂いが口腔内に広がる。しかし、鉄朗はその肉体的な限界を示すあらゆる苦痛の信号を、強靭な意志の力によって徹底して黙殺していた。いや、むしろその苦痛こそが、彼が己の輪郭をこの世界に繋ぎ止めるための、唯一の重りであるかのようにすら見えた。
電球の光に照らされた彼の手元。そこには、彼の抱える絶望的なまでの不均衡が最も残酷な形で表出していた。
製図用紙の上を滑る鉄朗の手は、緻密な設計図を引くような繊細な頭脳労働者のそれとは、明らかに異質であった。骨太で節くれ立ち、手の甲には幾つもの古い傷跡が白く浮かび上がっている。掌の皮膚は分厚く角質化し、指の腹は鑢のように硬く荒れている。それは間違いなく、長年にわたって荒削りの木材に触れ、重い鉋を引き、玄能を振り下ろしてきた『職人の手』であった。木という生き物の呼吸を読み取り、その温もりと対話するために鍛え上げられた、泥臭くも力強い大工の手。
しかし今、その無骨で分厚い指先は、不器用なほどに強張った力加減で、銀色に光る細く繊細な烏口を握りしめている。
本来ならば家を建てるための重い工具を握るべきその職人の手が、極細の直線を引くためだけの冷たい金属器具を、親指と人差し指の間に窮屈に挟み込んでいる姿は、見る者に異様なまでの違和感と、ある種の痛々しさを突きつける。太い指の関節は白く鬱血し、前腕の筋肉は、烏口の先から洋墨が一滴たりとも漏れ出さないようにと、極限の緊張状態を強いられていた。
その不釣り合いな手によって、定規の縁に沿って引かれていく黒い線。
それは、寸分の狂いもない、完璧な水平と垂直の交わりであった。しかし、その製図用紙の上に構築されていく建物の骨格には、人間がそこで息をし、生活を営むための血の通った温もりが一切欠落していた。
彼が図面の上に描くのは、家族の会話が響く居間でもなければ、柔らかな陽光を取り込むための窓でもない。ただひたすらに、外部からの衝撃に耐えうるだけの、過剰なまでに盤石な柱と、常軌を逸した密度で配置された筋交い、そして何重にも鉄の金具で補強された冷酷な接合部だけであった。
家屋というものは、本来、そこに住まう人間の柔らかな肉体を包み込むための器である。しかし、鉄朗が引く線によって立ち上がる構造物は、生活の器などではなく、絶対に破壊されることのない堅牢な墓標、あるいは外部の力を絶対的に弾き返すための拒絶の要塞であった。
そこには、建築の美学も、居住者への思いやりも存在しない。
ただあるのは、絶対に崩れてはならないという、呪いにも似た強迫観念だけであった。
彼の引く直線は、木材の持つ自然なしなりや、遊びの空間を一切許容しない。計算され尽くした応力と荷重の数値だけがすべてであり、少しでも構造に脆さを生む可能性のある要素は、徹底的に排除されていた。その結果として出来上がる図面は、見る者に息苦しさを与えるほどの重圧感を放ち、人間の生命力すらも圧殺してしまうような、異様な冷たさを帯びていた。
鉄朗は、己の分厚い手が烏口の先をわずかに震わせるたびに、奥歯が砕けそうなほどの力で顎を噛み締めた。
その職人の手には、かつて己自身が犯した取り返しのつかない罪の感触が、今もなお、死肉に群がる蠅のように執拗にこびりついている。大工であった父への反発から、木組みの足場に、ほんのわずかな、しかし致命的な細工を施した時の、あの木肌の荒い感触。
その罪の記憶が蘇るたびに、鉄朗の頸椎には見えない巨大な質量の岩石がのしかかり、彼の顔を製図板の上へと強制的に押し付けた。彼は、己の脳髄を焦がすようなその絶望的なまでの罪の意識から逃れるため、あるいは、その罪の重さによって己自身を完膚なきまでに押し潰してしまうために、一本、また一本と、決して崩れることのない揺るぎない直線を、白紙の上に狂気的な執念をもって引き続けているのである。
紫煙と熱気の沈殿する深夜の事務所で、己の肉体を削りながら血の通わぬ直線を引く滝沢鉄朗の姿は、時代の波に飲まれて歪んでいく帝都の暗闇の中で、誰にも顧みられることのない、孤独な贖罪の儀式そのものであった。彼の浅い呼吸の音と、定規が紙を擦る無機質な擦過音だけが、時が止まったような粘り気のある空間に、無限の反復を伴って空しく響き続けていた。




