第四章(2)
定規の縁に沿って烏口を滑らせる鉄朗の指先が、微かな震えを帯びて止まった。
極度に張り詰めた神経が、冷たい金属の感触を脳髄へと伝達するその刹那、事務所に澱む洋墨と阿摩尼亜の刺激臭が、不意に別の匂いへとすり替わったのだ。それは、刃物によって切り出されたばかりの、若く青臭い杉の香気と、長年埃を吸い込み続けて黒ずんだ土間の匂い。そして、人間の体毛の奥から発散される、安価な醸造酒の饐えた腐臭であった。
記憶の底の底、決して開けてはならない暗闇の蓋が、極限の肉体疲労によって緩み、強制的にこじ開けられる。
鉄朗の網膜の裏側に、今はもう存在しないはずの古びた大工の工房が、圧倒的な鮮明さをもって立ち上がってきた。
幼い頃の鉄朗にとって、世界は常に二つの極端な狂気によって支配されていた。
一つは、夜の帳とともに酒瓶を抱え込んで泥酔し、家族に向けて無軌道な暴言と鉄拳を振り回す、醜悪な父親の姿である。酒精の毒素によって脳髄を侵され、赤黒く腫れ上がった顔で喚き散らす男の吐息は、腐敗した果実のような耐え難い悪臭を放ち、幼い鉄朗の肺を幾度も冷たい恐怖で凍らせた。
しかし、もう一つの極端が、鉄朗から父親を憎む権利をことごとく奪い取っていた。
夜が明け、工房に差し込む斜光の中に立つ父親の背中は、夜の泥酔者とは別人のそれであった。
分厚い一枚板に向かい、長年使い込まれた鉋の両端を握りしめる瞬間、工房の空気が刃の切っ先のように鋭く張り詰める。無駄な肉の一切ない、岩盤のような背中の筋肉が隆起し、木材の表面を鉋が一気に滑る。削り出された極薄の木屑が、朝の光を透過して黄金色に輝きながら宙を舞う光景は、幼い鉄朗の目に、一種の宗教的な儀式のように神々しく映った。木という無言の生命と対話し、その内側に潜む最も美しい木目を引き摺り出す父の指先は、間違いなく天賦の才に愛された本物の職人のものであった。
神の如き技術を持つ職人の背中と、泥水のように這いつくばる酒乱の父親。
その決定的な乖離が、鉄朗の胸の奥底に、底なしの憧憬と吐き気を催すほどの憎悪とを同時に植え付け、彼の柔らかな精神を長年にわたって引き裂き続けてきたのである。
その引き裂かれた精神が、ついに極限の臨界点を突破したのは、鉄朗が青年の肉体を手に入れ、父の現場で下働きをするようになったあの夏の日であった。
連日の酷暑と、夜通し続いた父の酒乱による理不尽な暴虐。鉄朗の口腔内には、殴られて切れた唇から絶えず鉄錆のような血の味が広がり、胃の腑には鉛のような疲労と憎悪が煮えたぎっていた。
作業の昼休憩、誰もいなくなった建築途中の家屋の足場に立った時、鉄朗の手は、まるで何者かの意思に操られるかのように、無意識の暗闇の中で動いた。
彼の分厚い指先が、父が午後の作業で必ず踏み入るであろう、最も高い位置にある足場の結び目に触れる。
麻縄の硬い繊維が、指の腹の皮膚を鋭く摩擦する感触。鉄朗の血管の中を流れる血液が、この瞬間、異常なまでに氷点下まで凍りついたかのような悪寒に包まれた。呼吸は浅く痙攣し、心臓が肋骨を内側から叩き割らんばかりに激しく脈打つ。
結び目を固定している縄を、ほんのわずかに、しかし確実に荷重に耐えきれなくなる限界点まで緩める。木材と木材の接合部を支える重要な楔を、指先で押し戻す。
その作業を行っている間、鉄朗の脳内からは一切の思考が消え失せていた。ただ、指先に伝わる木のささくれだった皮膚の感触と、麻縄の油臭い匂いだけが、彼の感覚器官をすっかり支配していた。
そして、午後の作業が再開された直後。
その決定的な瞬間は、鉄朗の記憶の中で、粘り気のある水の中を漂うような、永遠にも似た残酷な遅さをもって再生される。
父親の分厚い足袋が、鉄朗が細工を施したその足場の板へと踏み出す。
一瞬の静寂。重力という絶対的な法則が、その空間から跡形もなく消失したかのような、異様な浮遊感。
次の瞬間、緩められた麻縄が耐えきれずに断ち切れる、乾いた破断音が空気を切り裂いた。支えを失った重い杉板が跳ね上がり、父親の巨体が空中で不自然に反り返る。
光を背にして落下していく父の姿。風を切る布の音。
そして、質量の大きな肉体が、眼下の硬い地表へと激突した。
それは、人間の肉体から発せられたとは到底思えない、途方もなく重く、そして鈍い破壊音であった。
内臓の水分が極度に圧迫される生々しい衝突音と同時に、硬質な骨が皮膚と筋肉の壁を内側から突き破り、粉々に砕け散る音が、鉄朗の鼓膜の奥深くまで突き刺さった。
舞い上がった夏の土埃の中に、一瞬遅れて、むせ返るような生温かい血の臭気と、腑の内容物が撒き散らされた汚物の匂いが混じり合って立ち昇る。
足場の上からその光景を見下ろしていた鉄朗は、声帯が凍りつき、ただただ己の両足の筋肉が制御不能な痙攣を起こすのを感じていた。肺の奥底に絶対零度の冷気が流れ込み、呼吸の仕方を忘れたように口を半開きにしたまま、彼は自分がこの世界で最も恐ろしい禁忌の境界線を越えてしまったことを、物理的な確信をもって理解したのである。
一命こそ取り留めたものの、幾度にも及ぶ大手術の末、大工としての生命線である両足の機能を完膚なきまでに破壊された父親は、それから幾ばくも経たないうちに、衰弱の果てに病床で息を引き取った。
鉄朗の魂を真の地獄へと突き落としたのは、父の転落という直接的な惨劇ではなく、死の床にあった父が最期に見せた、その信じがたいまでの態度のなかにあった。
父は、あの足場の縄の緩みが自然な事故などではなく、何者かによる意図的な細工であったことに、長年現場で生きてきた職人の勘で気づいていたはずだった。そして、その現場のあの時間に、その足場に近寄れた人間が自らの息子しかいなかったことも。
しかし、死の淵を彷徨う父親の濁った瞳が、看病する鉄朗を睨みつけることは、ただの一度としてなかった。
痩せこけ、かつての岩盤のような筋肉をすっかり失った父は、濁った呼吸を繰り返しながら、鉄朗の震える手をその節くれ立った大きな手で包み込んだ。そして、酒精の腐臭を消し去った、ただの年老いた男の顔で、ひどく穏やかな、すべてを許容するような微笑みを浮かべたのである。
「これも、罰が当たったのだ。俺が今まで、お前たちにしてきたことの、罰が」
恨み言でも、呪詛でもない。自らの過去の凶行を悔い、己の身に降りかかった非惨な結末を、当然の報いとして静かに受け入れる言葉。
その瞬間、鉄朗の喉の奥から、胃袋を丸ごと裏返したかのような激しい嗚咽が漏れ出した。
父親に胸倉を掴まれ、人殺しだと罵られ、刃物で切りつけられていた方が、どれほど救われたことか。
裁かれるべき罪が、被害者自身の許容によって宙に浮き、断罪されなかったというその事実こそが、最も残酷な拷問となって鉄朗の皮膚の裏側に永遠に剥がすことのできない猛毒として縫い付けられたのである。
『俺は、この手で親父を壊した。親父の人生を、親父の大工としての命を、この汚れた手で殺したのだ』
死人に許されてしまった罪悪感は、鉄朗の精神を内部から腐敗させ、彼を狂気的な贖罪へと駆り立てていった。
絶対に壊れないものを作らなければならない。少しでも構造に脆さがあれば、あの日のように人が落ちて死ぬ。自分の引く線が、自分の計算が、わずかでも揺らげば、再び自分の手は他人の命を破壊する凶器へと変貌してしまう。
その恐怖と強迫観念が、鉄朗の設計図から一切の遊びと温もりを奪い去り、過剰なまでに強固で無機質な直線を引かせる心理的因果のすべてであった。
不意に、烏口の先から洋墨が一滴、白紙の製図用紙の上に落ちて染みを広げた。
鉄朗は弾かれたように記憶の泥沼から意識を引き剥がし、己の手を見下ろした。
烏口を握る職人の手は、限界を超えた緊張と過去の幻影の重みによって、制御不能な激しい震えを起こしていた。頸椎には見えない太い麻縄が食い込み、呼吸をするたびに肺の奥で乾いた音が鳴る。
彼は、己の不器用な手が引いた、人を拒絶する要塞のような冷たい図面を凝視しながら、奥歯が割れるほどの力で噛み締めた顎の隙間から、絶望的なまでに重く、濁った息を吐き出した。深夜の設計事務所の澱んだ空気の中で、彼の手首に絡みついた過去の因果は、彼が生きている限り決して解かれることのない冷たい鉄の鎖となって、彼の命の芯を確実に削り取り続けていたのである。




