第四章(3)
設計事務所の重苦しい鉄扉を押し開け、深夜の街路へと踏み出した滝沢鉄朗の肉体を、初夏の長雨がもたらした季節外れのひどい冷気が容赦なく包み込んだ。
日中の耐え難いほどの蒸し暑さを見事に裏切り、東京湾の方角から這い上がってくる重く湿った季節風は、夜の底に冷たい重水を満たしたかのような錯覚を肌の表面に刻みつける。分厚い羅紗の外套を羽織ってなお、空気中の過剰に飽和した湿気が布地の繊維を容易に通り抜け、直接骨髄の温度を奪っていくような悪寒があった。街路を厚く覆う濃霧は、等間隔に立つ瓦斯燈の光を不気味な橙色に乱反射させ、視界の先にある近代建築の輪郭を曖昧に溶かしている。鉄朗の口から漏れる浅く短い呼吸は、その冷気に触れて白く濁った塊となり、夜霧の立ち込める空間の中へ力なく沈んでいった。
数日間に及ぶ徹夜の製図作業によって、彼の両足には数十斤もの鉛の錘を埋め込まれたかのような極限の疲労が蓄積していた。関節を潤す水気はすっかり干上がり、一歩を踏み出すたびに膝の軟骨が直接削り合って悲鳴を上げる。しかし、彼はあてもなく、ただからくり人形のように石畳の鋪装路を歩き続けた。己が帰るべき薄暗い下宿の一室に戻ったところで、横たわるための寝台の上に安息などどこにも存在しないことを、彼の身体はとうの昔に理解しきっていたのである。
どれほど歩いたかも定かではない時間の後。街角の暗がりに身を縮めるようにして立っていた夜鳴きの新聞売りから、鉄朗は夜露にひどく湿った『東京大衆日報』を受け取った。
外套の懐から取り出した硬貨と引き換えに手渡された粗悪な紙の束からは、冷え切った油臭い洋墨の鋭い金属臭が鼻腔の奥深くを突き刺した。活字の並ぶ紙面には、帝都の猥雑な欲望や、無機質な政治の動向、市井の事件の残骸がひしめき合っているはずであった。しかし、鉄朗の血走った眼球は、それらの情報を一切認識することなく、無意識のうちに、ある一つの連載小説の題字へと吸い寄せられていた。
『幻燈花』。
初葉桜子が紡ぐその物語は、今の鉄朗にとって、絶対に触れてはならない致死量の猛毒であると同時に、決して目を逸らすことの許されない抗いようのない引力を持っていた。
瓦斯燈の朧げな光だまりの下に立ち止まり、鉄朗は凍える分厚い指先で、湿気を含んで重くなった新聞の折り目をゆっくりと開いた。
紙面に刻まれた漆黒の活字群が、網膜を通過して直接脳髄へと暴力的に流れ込んでくる。そこに緻密な筆致で描かれていたのは、どこにでもあるような、しかし滝沢鉄朗の人生からは永遠に失われた、全くの別世界の風景であった。
――不器用ながらも真摯に木材と向き合う若い息子と、その隣で無言のままに手本を示す、熟練の腕を持つ大工の父親。二人が共に一つの小さな家屋を建てるための、素朴で静かな日々の記録である。
初葉桜子が紡ぎ出した活字を追うごとに、鉄朗の頭蓋の内側に、自らが決して体験したことのないはずの『記憶』が、現実の物理法則を凌駕する圧倒的な質量を伴って構築されていく。
鼻腔を満たしているはずの冷たい霧の匂いと洋墨の臭気が突如として掻き消え、代わりに、切り出されたばかりの真新しい檜の芳香が、むせ返るほどの濃度で立ち込める。頭上には梅雨寒の夜空ではなく、青葉の間から降り注ぐ初夏の眩しい木漏れ日が揺れている。鋭く研ぎ澄まされた鉋の刃が、抵抗なく木肌を滑る淀みない滑走音が鼓膜を直接叩き、削り出された薄い木屑が、太陽の光を透過して黄金色の羽衣のように宙を舞う。
その光景の中心に立つ父親の身体からは、鉄朗が忌み嫌っていた安酒の饐えた腐臭ではなく、額に滲む健康的な汗の塩気と、太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ厚手の綿の法被の匂いが漂ってくる。
小説の中に活字として存在するその父親は、夜の暗闇で理不尽な暴力を振るう醜悪な獣などではなかった。息子の不格好な鑿の扱いを少し離れた場所から無言で見守り、角度が間違っていれば短く言葉をかけ、その大きな手で直接正しい刃の当て方を修正してやる。決して息子に鉄拳を振るうことのない、厳格でありながらも底知れぬ温情を湛えた、本物の職人の姿であった。息子の流す不器用な汗を、誰よりも誇らしく、そして愛おしむように見つめる、不器用な父親の横顔。
そこには、鉄朗が長年憧れ続け、そして自らの手で粉砕し、決して手に入れることのできなかった、完璧なまでの親子の、そして師弟の絆が存在していた。
『もしもあの夏の日、自分が底知れぬ憎悪に駆られて、仕事場の足場にあの細工を施すことさえしなければ。
己の卑小な感情を殺し、ただひたすらに、血を吐くような思いで父の背中を追い続けてさえいれば』
この新聞の紙面に描かれているような、父と共に汗を流し、木材の命を削り出して人間の住処を築き上げるという、息を呑むほどに美しく、完璧な未来が、彼自身の現実の人生として約束されていたはずなのだ。
鉄朗は、自分が自らの手で無残に握り潰した『選ばれなかった人生』のあまりにも眩い光を前にして、呼吸の仕方を忘れたように瓦斯燈の下で立ち尽くした。
その時である。
無慈悲な活字の海の中から、分厚く節くれ立った、見覚えのある巨大な手がゆっくりと実体を持って現れ、鉄朗の右肩へと伸びてくる幻覚が、彼の視界と触覚をことごとく支配した。
それは、現実の父親が最期の病床で見せた、骨と皮だけになった痩せ細った手ではない。現役の棟梁として無数の家屋を建て、木と対話し続けた、あの力強く温かな職人の手であった。その幻の掌が、鉄朗の分厚い外套越しに、彼を深く労うように、そして彼が背負い続けてきた罪のすべてを許容するように、静かな重みを持って肩を叩く。
『――よくやったな。よくここまで、ひとりで頑張ってきたな』
声なき声が、幻の体温とともに鼓膜の奥で反響する。その幻覚の持つ圧倒的な熱量は、この冷たい帝都の夜気の中にあって、狂おしいほどに現実味を帯びていた。
しかし、その幻の父親の手が温かく、美しければ美しいほど、それは鉄朗の魂を根底から解体する最も残酷な責め具へと変貌した。
自らの手でその未来を永遠に破壊しておきながら、今さらその温もりに縋ろうとする己の浅ましさ。永遠に手に入らないと知っている幻影の優しさは、いかなる肉体的な暴力よりも深く、鉄朗の精神の最も柔らかく無防備な部分を、鋭利な刃物で細切れに切り刻んだ。
己が殺した未来の光が強烈すぎるがゆえに、己が現在立っている現実の暗闇の深さが、計り知れないほどに浮き彫りになる。限界まで張り詰めていた鉄朗の精神の均衡を保つ見えない鋼線が、ついに音を立てて断裂した。
設計事務所で、いかなる極限状態においても烏口を握り続け、狂気的なまでに正確な直線を引いていた彼の分厚い指先が、突如として制御をすっかり喪失した。
脳髄からの神経の伝達経路が無残に焼き切れ、両手の筋肉が意志とは無関係に激しい痙攣を起こす。指の関節が異常な方向に強張り、新聞紙を握っていた握力が唐突に消失する。
手放された『幻燈花』の紙面は、夜風に翻弄されながら力なく宙を舞い、石畳の窪みに溜まっていた真っ黒な泥水の上へと落下した。初葉桜子の紡いだ純文学の活字が、帝都の汚泥に塗れ、黒い染みとなって水面で無惨に溶けていく。
しかし、鉄朗には泥水からその新聞を拾い上げる肉体的な余裕など、微塵も残されていなかった。
彼は自らの首を両手で掻き毟るようにしながら、よろめく足取りで瓦斯燈の光の届かない路地裏へと身を滑り込ませた。這うようにして冷たい煉瓦の壁に背中を打ち付け、そのまま全身の骨格が溶け落ちたかのように膝から崩れ落ちる。
胃の腑の底から、決して消化することのできない巨大な鉛の塊が、食道を逆流してせり上がってくる感覚。
鉄朗は四つん這いになって、湿った悪臭の漂う土の上に顔を近づけ、内臓を裏返さんばかりの激しい嘔吐を繰り返した。胃液の強い酸の臭気と、食道が裂けて混じった血の匂いが、暗闇の地面にぶちまけられる。吐き出すものが何もなくなっても、胃袋は自らを食い破るかのように容赦なく痙攣を続け、彼の肉体からあらゆる生命活動の余力を根こそぎ奪い取っていく。
それは、己の罪の底知れぬ深さを、圧倒的な美しさという暴力によって直視させられた人間の、魂が容赦なく分離し、崩壊していく過程の、最も惨めな物理的現象であった。
冷たい雨だれが外套を貫き、泥に塗れた鉄朗の丸まった背中を容赦なく打つ。先ほどまで肩を叩いていた幻の父の手の温もりはすでに跡形もなく消え去り、路地裏の暗がりには、己の取り返しのつかない罪の重さに耐えきれず、地の底を這いつくばって胃液を吐き散らす、一人の哀れな罪人の激しい喘鳴だけが、夜霧の沈殿する空間に重く、そして空しく響き渡っていた。




