第四章(4)
帝都の近代化を担う建設現場の粉塵と、冷たい骨材の匂いだけを肺に吸い込んで生きてきた滝沢鉄朗の肉体にとって、初葉本家の敷地内に足を踏み入れた瞬間に全身を包み込んだ空気は、明確な拒絶の意思を持った異界の粘膜そのものであった。
外界の猥雑な喧騒をことごとく遮断する重厚な総檜の門を潜ると、そこには帝都の狂騒から絶対的に切り離された、揺るぎない静謐が横たわっている。足裏に伝わる打ち水された石畳の冷気。手入れの行き届いた庭木が発する濃密な緑の湿気。そして何より、屋敷の奥深くから絶え間なく滲み出してくる、何世代にもわたって蓄積された和紙の澱んだ腐臭と、それを覆い隠すように焚き染められた白檀の高貴で重苦しい香りが、鉄朗の鼻腔を容赦なく侵略した。
通された離れの客間は、極限まで無駄を削ぎ落とした純和風の空間であった。一切の狂いなく敷き詰められた青畳、寸分の歪みもない障子の桟、床の間に掛けられた水墨画の余白。その完璧なまでに調和の取れた静寂の空間において、鉄朗という人間の肉体は、あまりにも巨大で、泥臭く、どうしようもないほどの異物であった。
広い肩幅と分厚い胸板、建設現場の重労働と製図室の極度の緊張によって鍛え上げられた骨太な四肢。彼の肉体は、この繊細な木と紙で構成された客間のなかにあって、ほんの少し身じろぎをするだけで周囲の空気を暴力的に掻き乱し、建具の立て付けを歪めてしまいそうなほどの過剰な質量を放っていた。仕立ての良い背広を着込んではいるものの、繊維の奥深くにまで染み込んだ汗と泥の匂い、そして昨夜の路地裏で吐き散らした胃液の微かな酸の臭気が、白檀の香気を汚染していくのがわかる。鉄朗は、己という存在がこの清浄な空間を物理的に穢しているという事実に身を縮めながら、畳の縁を避けて不器用に正座し、太い首を垂れてひたすらに沈黙の重圧に耐えていた。
どれほどの時間が経過したのか。空間の温度がわずかに下がった錯覚を覚えた瞬間、音もなく客間の襖が開き、二つの影が滑り込んできた。
前を歩くのは、透き通るような白磁の肌に漆黒の髪を結い上げた、上質な正絹の着物を纏う小柄な少女。彼女こそが、帝都を熱狂と絶望の渦に巻き込んでいる『幻燈花』の作者であり、初葉の次期当主である桜子であった。そして彼女の斜め後ろには、黒い二重回しを羽織り、分厚い硝子乾板の入った舶来の暗箱を首から下げた痩せ身の青年が、一切の足音を立てずに影のように付き従っている。極度の吃音によって言葉を奪われながらも、ただその鋭い眼光だけで外界のすべてを記録し、妹を現実に繋ぎ止めようとする兄、清である。
鉄朗は、目の前に静かに端座した桜子の姿を見て、呼吸が一時的に停止するほどの戸惑いを覚えた。
あの残酷なまでに美しく、そして鉄朗の魂の最も奥深い瑕疵を完璧に抉り出した血の通った物語を紡いだのが、このような年端もゆかぬ、人形のように無機質で可憐な少女であるという事実。設計士として日頃から多くの資産家や権力者と渡り合ってきた鉄朗の中に、大正の世を生きる男性特有の、微かな疑念と見下すような感情がほんのわずかに鎌首をもたげた。
「滝沢と申します。失礼ですが、本当にあなたが、あの新聞の物語をお書きになった初葉先生でいらっしゃいますか」
鉄朗の口をついて出た言葉は、客商売で培われた丁寧な敬語の形をとってはいたものの、その声音の端々には隠しきれない不信感が滲み出ていた。
「このような深窓のお嬢様に、我々のような職人の泥臭い生活や、木屑の匂い、そしてあのような陰惨な人間の感情の機微が理解できるとは、到底思えないのですが」
それは、己の急所を的確に突き刺してきた刃の持ち主が、あまりにも脆弱な少女であったことに対する、彼なりの精一杯の防衛本能であった。
しかし、鉄朗のその不躾な問いかけに対しても、桜子の白磁のような顔には、怒りや戸惑いの色は一切浮かばなかった。彼女の長く伏せられた睫毛の奥にある深い漆黒の瞳は、鉄朗の浅ましい防衛本能など容易に透過し、彼の内面に渦巻く致命的な流血だけを真っ直ぐに見据えていたのである。その底知れぬ静謐と底知れぬ威厳の前に、鉄朗は己の放った言葉の軽薄さを自覚し、頸椎を見えない巨大な岩石で押し潰されたかのように口を噤んだ。
彼は無意識のうちに、己の傍らに置いていた分厚い紙の束を、微かに震える両手で掴み取っていた。それは、彼が何日も徹夜をして引き直した、狂気的なまでに強固で無機質な建物の設計図であった。
彼はその丸まった図面を、畳の上に押し広げた。純白の製図用紙の上に、烏口で引かれた黒い直線が幾重にも交差している。外部のいかなる衝撃にも耐えうるように、異常なまでの密度で配置された筋交いと接合部の金具。それは、人間が暮らすための家屋ではなく、外部の力をすっかり弾き返すためだけに構築された、拒絶の要塞の骨格であった。
「これをご覧いただけますか。これが、私の引く線です」
鉄朗の喉の奥から絞り出された声は、肺の奥底から擦り切れたような、ひどく乾いて濁った音であった。彼の広い肩が、発作のように小刻みに震え始める。
「遊びも、しなりも、温もりも一切ありません。ただ絶対に崩れないことだけを計算した、息が詰まるような冷酷な線です。先生が新聞に書かれたあの親子の姿のように、木の声を聞き、笑い合いながら家を建てるような真似は、私には一生できないのです」
鉄朗の太い指先が、図面の上に引かれた黒い直線を、自らの皮膚を掻き毟るような力強さでなぞる。その指の関節は白く鬱血し、手の甲には太い静脈が青々と浮き上がっていた。
「私のせいで、父は大工の命を失いました」
その決定的な一言を口にした瞬間、鉄朗の全身の筋肉が硬直し、額から一気に冷たい脂汗が噴き出した。己の罪を言葉という実体に変換し、他者の前に引きずり出す行為は、自らの腑を素手で引き抜くほどの凄絶なる苦痛を伴う。礼儀正しい敬語で覆い隠そうとしても、その言葉の芯には、血を吐くような悲惨な響きが宿っていた。
「夜になれば酒を飲んで暴れる父が、私は心底憎かった。しかし、昼間に工房で木を削る父の背中は、職人としてあまりにも完璧で、私にはそれがどうしようもなく恐ろしかったのです。あの夏の日、私は父が乗る足場の麻縄を、意図的に緩めました。他でもない、私のこの手が、父の足元を崩したのです」
鉄朗は、図面の上に己の分厚く無骨な両手をそっと置いた。その動作はひどく静かであったが、彼の手の震えが製図用紙を微かに軋ませ、静謐な客間の空気を暴力的に震わせた。
「私のこの手は、木を組み立てるための手ではありません。物を壊し、父の人生を叩き潰した、呪われた手なのです。この手が引く図面に、人間の生活を温める資格など、最初から一分も残されてはいないのです」
何年間も腹の底に溜め込んでいた泥水のような自嘲と、絶望の吐露。
鉄朗の落ち窪んだ両眼からは、己の矜持をすべて投げ捨てた濁った涙がとめどなく溢れ出し、畳の上に広げられた無機質な設計図の表面を黒く染めていく。彼は仕立ての良い背広に包まれた大柄な背中を丸め、分厚い両手で己の顔を覆い隠し、ただ激しく喘鳴を繰り返した。
その圧倒的な痛みの奔流を前にして。
桜子は、いかなる非難の言葉も、見下されたことへの怒りも示すことはなかった。ただ深く、ひどく柔らかな眼差しで、這いつくばる大男の姿を見つめ返していた。
かつて能村現がこの客間で狂乱した時、桜子は静かで冷徹な事実の提示をもって彼の自己欺瞞を切り裂いた。しかし、目の前で自らを罰し続けて泣き崩れるこの滝沢鉄朗という青年に対して、彼女の白磁のような顔に浮かんでいたのは、母性にも似た静かで深い受容の光であった。
彼女は、鉄朗が丁寧な言葉の裏側から吐き出す泥水のような自嘲と、血を吐くような罪の告白を、己の薄い皮膚の奥底へと静かに吸い込んでいく。彼が絞り出した言葉の血流を、ただの一滴もこぼすことなく、自らの魂の深淵へと導き入れていく。
その時、桜子の胸の奥底で、一つの確信が静かに、しかし絶対的な重さを持って結像した。
能村現の時と、まったく同じなのだと。
桜子が夜ごと悪寒に震えながら幻視し、原稿用紙の上に書き殴ったあの美しい情景。木漏れ日の下で、父と子が不器用ながらも共に汗を流し、木材と対話しながら小さな家を建てていくという、息を呑むほどに温かく、愛情に満ちたあの生活の記録。
それは、彼女の脳髄が捏造した架空の妄想などではなかった。目の前で泥まみれになって泣いているこの滝沢鉄朗という男が、かつて己の罪によって永遠に破壊し、そして毎夜毎夜、心の底から血を流すほどに渇望し続けてきた『選ばれなかった人生』の姿そのものであったのだ。
他人の魂が手に入れることの出来なかった圧倒的な希望の残骸と、それに反比例して増殖する凄まじい絶望の質量。その巨大な喪失感が、桜子の異常な感受性という器に流れ込み、彼女の自我を侵食していたのである。
すべてを理解した桜子は、膝の上で白く細い両手を静かに重ね合わせた。
目の前で己の罪に押し潰され、すべての防御を捨ててむき出しの痛みを晒しているこの不器用な男の魂を、ただ優しく、どこまでも深く受け止める。彼がどれほど汚れた感情を吐き出そうと、どれほど惨めな後悔に苛まれようと、彼女という器は決して溢れることなく、そのすべてを無音のままに抱擁し続ける。
和紙の腐敗臭と白檀の香りが満ちる初葉の客間において。
大柄な職人の背中が発するむき出しの慟哭の波紋は、桜子の放つ圧倒的な静寂と優しい引力によって包み隠さず包み込まれ、他者の人生を丸ごと呑み込む純文学の器としての彼女の底知れぬ存在感が、その空間を抗いようのない重さで支配していた。




