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『幻燈花』  作者: 長月有希


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第七章(5)

 一枚の硝子乾板(がらすかんぱん)に永遠の光を定着させるという、孤独で神聖な儀式を終えた清(きよし)は、分厚い土蔵(どぞう)の重い鉄扉をゆっくりと押し開けた。


 赤い安全灯の微かな光に満たされていた暗室から、再び白日の下へとその身を晒す。網膜(もうまく)を刺す鈍色の空と、視界の果てまで延々と続く灰褐色の荒野。風が舞い上げる細かい煤(すす)が、容赦なく彼の爛(ただ)れた皮膚に張り付き、外界が依然として大地震と火災旋風(かさいせんぷう)の暴力に蹂躙(じゅうりん)された無残な焦土であることを突きつけてくる。

 だが、両腕の皮膚が焼け焦げ、足裏から血を流している満身創痍(まんしんそうい)の肉体でありながらも、灰の海へと踏み出す彼の足取りは奇妙なほどに静かで、確かな重心を持っていた。


 清は、跡形もなく灰燼(かいじん)に帰した初葉(いちは)の本家であった広大な瓦礫(がれき)の海を、静かに見渡した。


 何世代にもわたり、帝都の文学界に揺るぎない権威として君臨してきた名家の歴史は、大自然の暴力の前にあまりにも呆気なく消滅した。安全圏から世間を見下ろしてきた父・清太郎(せいたろう)は、最後の瞬間に文学の虚構(きょこう)を捨て去って一人の父親として死に、世間体という格式の檻で家族を支配してきた母・文子(あやこ)は、狂気の底へと沈んでいった。

 そして、己のすべてを懸けて愛する者たちを救い出した妹は、永遠の光となってあの炎の向こう側へと消え去った。


 純文学という血脈の、その最後尾。

 すべてが崩壊した瓦礫の山にただ一人取り残されたのは、一族の『瑕疵(かし)』として暗室に幽閉され、母から発声すらも禁じられてきた、流暢な言葉を持たない吃音(きつおん)の男であった。

 鋭利な輪郭と痩躯(そうく)を持つ清の裡(うち)には、大衆を感嘆させるような、初葉の人間たちが持っていた特権的な『文才』など欠片ほども存在しない。彼は生まれてこの方、原稿用紙に向かって何かの物語を綴ったことなど一度たりともなかった。文学においては、すっかり虚無に等しい存在であった。


 だが、焼け焦げた帝都の風に吹かれながら、清は極めて冷徹な、そして透明な真理を悟っていた。


 初葉の人間が誇ってきた『上から他者を見下ろし、美辞麗句で飾り立てるような文才』など、もはやこれからの世界には一切必要ないのだと。

 炎の底で完結した妹の息の詰まるような愛と、その無償の祈りの真実をこの世に書き残すことができるのは、言葉を巧みに操る文士(ぶんし)ではない。己の醜い声を晒すことに怯え、言葉を奪われ、文学の才能を持たない虚無である自分しかいないのだ。


 それは、流麗で巧みな比喩(ひゆ)や、計算し尽くされた虚飾の言葉では決して書き残してはならないものであった。少しでも美しく装飾しようとすれば、それは途端に、かつての初葉が弄んできた傲慢(ごうまん)な見世物へと成り下がってしまう。

 澱(よど)みなく流れる美しい言葉を持たない自分だからこそ、決して虚飾を交えない、血と土汚れに塗れた確固たる事実だけを刻み込むことができる。


 清は、足元の瓦礫の中から、一つの粗末な破片を拾い上げた。


 それは、焼け残った土蔵の隅の濁水の中に落ちていた、端が真っ黒に炭化し、ひどく汚れた厚手の紙切れであった。かつて何かの帳簿に使われていた和紙の残骸か、あるいは暗箱(あんばこ)を包んでいた包装紙の切れ端か。もはや元の用途など一切わからない、ただの塵芥(ちりあくた)である。

 しかし、初葉の人間が使ってきた純白の原稿用紙など、今の彼には微塵も必要なかった。文字の大きさを制限し、綺麗に整列させるための『升目(ますめ)』など、不格好な真実を体裁よく飾り立てるための冷酷な檻に過ぎないからだ。


 そして清は、懐(ふところ)に固く抱き抱えていたあの『金張りの万年筆』を、ゆっくりと取り出した。


 かつて妹がその華奢(きゃしゃ)な指で握りしめ、人々が生きるべき尊厳と希望の姿を書き綴ってきた、美しくも重々しい金属の軸。

 清の右手の掌(てのひら)は、紫檀(したん)の書棚を持ち上げた際の重度な火傷により、皮膚が芯まで炭化し、赤黒い筋肉が容赦なく剥き出しになっている。その惨たらしい骨張った手で冷たい万年筆を握り込んだ瞬間、傷口を直接刃物で抉られるような激痛が脳髄を乱打した。だが清は、決してその筆を落としはしなかった。


 痛ければ痛いほど、よかった。この冷たい金属の重みと、肉を焼くような激痛こそが、妹が独りで背負い続けてきた孤独と祈りの重さそのものであったからだ。


 清は、焼け焦げた土台の石段に腰を下ろした。


 膝の上に土汚れにまみれた紙切れを置き、震える両手で慎重に万年筆の鞘(さや)を外す。純金製の美しい切っ先が、灰色の空の下で鈍い光を放った。

 生涯、母の呪縛と己の吃音に苦しみ、他者に向けて言葉を発することすらできなかった男が、今、血と泥に汚れた不格好な指で、升目さえ存在しない煤けた紙切れの余白へとその切っ先を突き立てようとしている。


 一文字目を書き出すことの、途轍もない恐怖と重圧。

 だが清の網膜には、先程の暗室で現像液の底に浮かび上がった、あの妹のすべてを受け入れた蠱惑(こわく)的で透明な微笑みが、永遠の光として鮮明に焼き付いていた。


 清は、奥歯が砕けんばかりに顎を噛み締め、火傷の激痛に耐えながら、鋭い切っ先に自らの魂の全重量を乗せた。


 万年筆の洋墨(ようぼく)が、粗末な紙の荒い繊維に滲み、黒い軌跡を描き出す。

 それは、かつての初葉の当主たちが書き連ねてきたような、流れるように滑らかで、計算し尽くされた達筆の美文では決してなかった。

 子供が初めて文字を覚えた時のような、不恰好で、武骨で、ひどく角張った文字。粗末な紙の裏側まで突き抜けて破れてしまうのではないかと思えるほどの、異常に強烈な筆圧。しかし、その泥臭く歪(いびつ)な線の一本一本には、言葉を持たない男が妹の命の証明をこの世に刻み込もうとする、血を吐くような祈りが宿っていた。


 吃音で喉が詰まり、発することができなかったすべての想いが、今、黒き染みとなって紙切れを埋めていく。


 書く。ひたすらに書く。

 清の指先から流れ出した血糊が、万年筆の黄金の軸を赤く染め、焦げた紙の端をさらに汚していく。だが、彼はその血の汚れを拭おうともせず、ただ獣のような荒い息を吐きながら、確かな筆圧をもって一行目の文字を刻み続けた。


 虚飾の一切を削ぎ落とした、人間の極限の愛と事実の羅列。

 それこそが、言葉を持たぬ男が妹から受け継いだ魂の形であり、傲慢な権威を捨て去り、一人の人間の生きた真実を永遠に定着させるために生まれた、新しく、そして最も根源的な『真実の純文学』の誕生の瞬間であった。


 やがて、分厚い粉塵の雲の隙間から、大正の斜陽(しゃよう)が一条の光となって灰色の荒野に差し込んだ。

 すべてが焼き尽くされた帝都の焦土を、静かな風が吹き抜けていく。


 かつての威容を誇った初葉家の屋敷の跡地で、瓦礫の上に座り込んだ一人の青年が、血まみれの手でひたすらに紙切れへと文字を書き綴っている。その背中を包み込む風景には、大震災の悲劇の爪痕が延々と広がっていたが、同時にそこには、絶望を越えて確かな光を定着させた人間の、犯しがたい神聖な静謐(せいひつ)が存在していた。


 燃え尽きた大正の世を撫でる乾いた風の音だけが、不格好な万年筆の走る摩擦音と共に、灰色の空の向こうへと果てしなく溶けていく。

 かくして、一人の少女が命を燃やして紡いだ希望の物語と、残された者が筆を引き継いだ真実の記録は、圧倒的な悲劇の果てに生まれた深い魂の浄化の余韻(よいん)の中に、静かに、そして永遠の幕を下ろしたのである。

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