終章
窓を開け放った書斎には、心地よい昼下がりの風が流れ込んでいる。
時は流れ、激動の昭和も晩年を迎え、あの紅蓮の業火に焼かれた大正の焦土が、はるか遠い歴史の彼方へと霞んでしまった時代。壁一面を古書が埋め尽くすその静謐な部屋の奥で、年老いた男が一人、重厚な楢材の机の前に深く腰を掛けていた。
彼の皺の刻まれた両手には、広範囲にわたって赤黒くひきつれたような古傷の痕が残っている。それはかつて、大地の底から湧き上がった大震災の猛火の中で、己の肉体を焼いてでも愛する者を守り抜こうとした確かな愛の証明であり、彼の魂に刻まれた消えることのない真実の烙印であった。
机の中央には、長い歳月の果てに編纂され、ついに世に放たれた単行本が一冊、置かれている。
表紙に印字されたタイトルは、『幻燈花』。
かつて帝都の瓦礫の海で、言葉を持たぬ青年が泥に汚れた紙切れに血を吐くようにして書き記した、不格好な一行目。それが数十年の途轍もない執念を経て、一人の少女が生きた証と、あの時代に数多の人間を救い出した希望の記録としてついに結実したものであった。
その書物の傍らには、今の時代には不釣り合いな、古びた大正の暗箱――折り畳み式の蛇腹を備えた機械が、手入れの行き届いた黒革の鈍い光沢を放って鎮座している。
そして暗箱の隣に飾られた銀の額装の中には、一枚の古い白黒写真が収められていた。写っているのは、豊かな黒髪を持った一人の若い女性。彼女は、見る者の魂を永遠に狂わせるほどに蠱惑的でありながら、この上なく神聖な透明感を孕んだ、女優のような美しい微笑みを浮かべている。男は、皺深い双眸を細め、その写真の中の少女に語りかけるように、限りなく穏やかで深い慈愛に満ちた眼差しを向けていた。
ふと、窓掛けの薄絹を揺らした風の音に混じって、書斎の重い木扉を控えめに叩く音が二度響いた。それは、長く停滞していた時間を動かすような、ひどく遠慮がちで、しかし確かな意思を持った合図であった。「どうぞ」と男が促す声に応え、扉がゆっくりと内側へ開かれる。
廊下から差し込む柔らかい陽光を背に受けて、逆光に縁取られた一人の小さな影が、部屋の入り口に佇んでいた。白髪を上品に結い上げた、年老いた女性であった。光を背負っているためその顔の造作は影となって判然としないが、彼女の両腕には、あの『幻燈花』の単行本が、まるで自分自身の魂の半身であるかのように、大切に、大切に抱えられていた。
女性は少しだけ戸惑うような素振りをみせた。
「あの、突然申し訳ありません。この本を読んで、どうしてもお会いしたくて」
澄んだ声だった。
その声は、長い年月の果てにひび割れ、年老いた音色を帯びてはいた。だが、男の鼓膜の奥底で、かつて炎の壁の向こう側から己の魂を呼び戻してくれた、あの懐かしく愛おしい声色と、間違いなく同じ色彩を持って共鳴したのである。
時が、止まった。いや、あの猛火の帝都で永遠の灰色の迷宮に囚われていた時計の針が、数十年の歳月を超えて、ついに正しい音を立てて動き出したのだ。
年老いた清は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、光を背負う女性へと真っ直ぐに顔を向けた。その顔に浮かんでいたのは、これまでの数奇な運命と苦難のすべてが余すところなく報われたような、深い優しさと無上の幸福感に満ちた微笑みであった。
「よ、よく……来て、くださいましたね。さあ、中、へ……お入り、なさい」
清の口から歓迎の言葉が紡がれる。
窓から吹き込んだ心地よい風が、柔らかく二人の間を通り抜けていく。男の声の裡には、かつて生涯にわたり彼を苦しめ続けてきた吃音の残滓が、僅かに、しかし確かに残っていた。決して淀みなく流れるような、流暢な美声などではない。言葉の間に不器用な空白が落ちる、昔から変わらぬ、彼だけの不格好なリズムであった。
しかし、逆光の中に佇む女性は、彼がその言葉を紡ぎ終えるのを、急かすことも、言葉を被せることもなく、ひとかたならぬ穏やかな沈黙でただ待ち続けていた。そして男の声の裡にも、己の醜い発声を晒すことに萎縮するような、あの惨めな恐怖の色はただの一片も存在していなかった。
それは、言葉を奪われていた男が、己の不格好な声を晒すことを一切恐れずにいられる、この広い世界でただ一人の相手に対する、揺るぎない信頼の証であった。
床に落ちた光の加減が揺らぎ、女性の足元に、一筋の輝く雫が音もなく零れ落ちた。逆光に包まれたその表情がどのようなものであったか、もはや言葉で語る必要はないだろう。再び吹き込んだ柔らかな風が、互いを隔てていた数十年の空白を埋めるように、穏やかな書斎の空気を優しく撫でていく。
その風が通り抜けた重厚な机の上では、長い歳月を経て結実した『幻燈花』の単行本と、過酷な時代を共に生き抜いた大正の暗箱が、二人の再会を祝福するように寄り添って置かれている。
そして、銀の額装の中で永遠の時を生きる少女の、すべてを許し、すべてを愛した蠱惑的な微笑み。
窓の外から聞こえる柔らかな喧騒の中、美しくも哀しき純文学の血脈の物語は、完璧な円環の成就と共に、その長く静かな幕を永遠に下ろしたのである。




