第七章(4)
時間は、土蔵の暗闇の中で極限までその歩みを遅くしていた。
外界を覆い尽くす灰色の荒野も、鼻腔を突く死臭も、すべては分厚い土壁の向こう側へとことごとく遮断されている。息の詰まるような静寂が支配する空間の中で、ただ清の荒い呼吸音と、琺瑯の浅鉢を静かに揺らす微かな水音だけが、等間隔の律動をもって冷たい空気を震わせていた。
赤い色硝子で覆われた手提げ燭台の放つ、血のように薄暗い安全灯の光。その僅かな波長だけが届く現像液の底に沈められた硝子乾板を、鋭利な輪郭を持つ清の深く落ち窪んだ眼窩と血走った双眸は、瞬きすら忘れて凝視していた。
写真の現像という作業は、過去という名の不可逆の時間を、化学の力によって現在の空間へと強引に引き摺り出す、一種の降霊術に似ている。
乳剤に塗布された|ハロゲン化銀が、現像液の成分と緩やかな化学反応を起こす。最初はただの透明な硝子の板にしか見えなかったその表面に、やがて、ごく微細な黒い銀の粒子が、深い泥の底から湧き上がるようにして寄り集まり始めた。
光の強く当たった部分ほど黒く沈着し、陰の部分は硝子の透明さを保ち続ける。明暗がすっかり反転した陰画としての結像。しかし、長年にわたり暗箱の被り布の中で世界を反転して見つめ続けてきた清の網膜には、黒化する銀粒子が織り成すその染みのような模様が、確かな実体と温度を持った美しい妹の姿として、寸分の狂いもなく鮮烈に変換されていた。
漆黒の闇の中から、まず豊かな黒髪の輪郭が浮かび上がった。続いて、華奢な肩の稜線。そして最後に、液面の下から透かし出されるようにして、一枚の顔が余すところなくその姿を現したのである。
それは、あの大震災が帝都を焼き尽くすより前。薄暗い現像室でも、初葉の息苦しい屋敷の中でもない。二人が浅草の活動写真館を訪れた帰途、大通りの猥雑な喧騒から逃れ、夕暮れの狭い路地裏へと足を踏み入れた時の出来事であった。
純文学という呪われた血脈の重圧に縛られ、常に孤独な暗闇の部屋で他者の絶望を活字へと写し取っていた妹。しかしあの時、人目を忍ぶ路地裏で、彼女はふと初葉の令嬢としての冷たい仮面を外し、密かに胸の奥底で憧れを抱いていた『女優』の真似事をして見せたのだ。
兄が構える暗箱の焦点硝子の奥にだけ向けて放たれた、その表情。
それは、ただの可憐な少女の微笑みなどではなかった。見る者の魂を永遠に狂わせ、底無しの深淵へと引きずり込むほどに蠱惑的でありながら、同時に、人間が本来持ち得ないような神聖な透明感を孕んだ、おぞましいまでに完璧な微笑みであった。
赤い液面の下で見事に定着したその女優の微笑みを見た瞬間、清の脳髄の奥底で、圧倒的な衝撃と共に一つの決定的な記憶が鮮烈に蘇った。
あの紅蓮の炎が燃え盛る、本家の奥の書斎。
崩落してくる何千貫という大屋根の梁の下敷きになる直前、桜子が自らの生命力のすべてを両腕に乗せ、母と自分を安全な縁側の外へと力の限りに突き飛ばした、あの刹那。
炎の壁にすっかり退路を断たれ、死の密室の底に取り残された桜子は、絶望の淵に立ち尽くしながら、炎の向こう側にいる清に向かって静かに顔を上げていた。死の恐怖に泣き叫ぶことも、己の不運を呪うこともなく、彼女の顔に浮かんでいたのは、今、この現像の浅鉢の底に浮かび上がったのと同じ表情だったのだ。
浅草の路地裏で見せた蠱惑的な微笑みと、業火の中で見せた神聖な微笑み。
硝子乾板の上の残像と、清の網膜に焼き付いていた最後の記憶が、暗闇の中で音もなく結びつき、寸分の狂いもなく同期した。
その瞬間、清の魂をがんじがらめに縛り付け、彼を発狂の淵へと追い詰めていた『白黒つかない灰色の絶望』が、静かに、しかし決定的に粉砕された。妹は、決して理不尽な自然の暴力に怯え、絶望の底で泣き叫びながら無意味な灰に成り果てたわけではなかったのだ。
彼女は、他者の選ばれなかった人生を視てしまうという数奇で残酷な感受の業を背負いながらも、その呪われた筆を以て、現実の絶望に喘ぐ数多の人々を救い出すための『希望』を書き上げ続けた。そして最後の瞬間、彼女は自らの肉体をも燃やし尽くし、愛する母と兄の命を救うという、究極の悲劇の生贄としての役割を見事に演じ切ったのである。
彼女は、己の運命のすべてを受け入れ、自らの意志でこの上なく美しい名演技を全うし、至上の満足と幸福感に包まれたまま、最高の女優としてこの世を去っていったのだ。
遺体など、初めから見つかるはずがなかった。
初葉桜子という稀代の天才の魂は、炭化した無残な骸としてこの残酷な現実に留まることなど決してなく、あの炎の轟音の底で、圧倒的な魂の救済と共に永遠の伝説へと昇華してしまっていたのである。
そして彼女は、愛する兄に永遠の灰色の拷問を与えないために、己が最も美しく生きた証を、己が最も美しい結末を迎えたという確固たる真実を、震災の直前にこの一枚の硝子乾板の奥底へと、密かに、そして永遠に定着させていたのだ。
暗室の静寂の中、清の喉の奥で、微かな痙攣が起きた。
だが、彼は決して声を上げて泣き喚くような真似はしなかった。妹が命を懸けて演じ切った至高の終幕を前にして、不格好な鳴き声でその静謐を汚すことなど、彼には到底許されなかった。
清は、赤黒い筋肉が剥き出しになった火傷の掌で、琺瑯の浅鉢の縁を、自らの骨が軋むほどの力で強く、強く握りしめた。激痛が全身の神経を貫くが、彼の双眸はただ真っ直ぐに、液面の下の妹の瞳を見つめ返していた。
やがて、極限の緊張と悲哀に張り詰めていた清の顔の筋肉が、ゆっくりと、ひどく不器用に緩んでいく。
言葉を持たず、生涯を孤独な透明人間として生きてきた男が、赤い安全灯の薄明かりの下で写真の中の妹に向かって差し出したのは、言葉の代わりに、この世のどんな詩よりも深く優しい無音の微笑みであった。
『よくやった。お前は本当に、最高に美しかった』
声にならないその絶賛の言葉を胸の奥底で紡いだ瞬間、清が静かに一度だけ瞬きをしたその眼角から、数日間にわたり発狂の限界まで堪え続けていた一滴の澄んだ水滴が、静かに零れ落ちた。
それは、大自然の暴力にも、人間の醜い業にも決して汚されることのない、透明な魂の結晶であった。
一滴の涙は、暗闇の空間を音もなく落下し、現像液の液面を打った。かすかな水音が暗室の土壁に吸い込まれるように反響し、液面に同心円状の小さな波紋が広がる。波紋は、液面の下で永遠の微笑みを浮かべる妹の姿をほんの一瞬だけ優しく歪ませ、そして再び、揺るぎない静寂と透明な永遠の中へと溶けて消えていった。
大正の帝都が燃え尽きた焦土の底で、言葉を声に出すことを禁じられた兄と、炎に消えた妹の魂が、完全なる理解と救済をもって交わった、この上なく哀しく、そして美しい静寂の瞬間であった。




