第七章(3)
狂乱の底で灰を掘り続ける清の肉体は、すでに生命活動の限界をとうに超え、死の淵を彷徨う亡者そのものであった。
両腕を覆う重度の火傷は化膿し、破れた水疱から滲み出る体液と凝固した血糊が、細かい灰と混ざり合って無残な泥の鎧を形成している。喉は渇ききってひび割れ、鋭利な顔立ちの深く落ち窪んだ眼窩の奥で、濁った眼球だけが憑かれたように瓦礫の山を睨み据えていた。
妹の姿はない。着物の切れ端すらない。あるのは、高熱によって芯まで炭化し、形状すら保てなくなった黒い残骸の海だけである。
発狂寸前の精神が、絶望の重圧に耐えかねて今にも崩壊しようとした、まさにその時であった。
血まみれの指先が、柔らかな灰の中にある硬質な異物に触れた。
それは、崩落した極太の松の梁と、焼け落ちた厚い漆喰の壁が交差して偶然に作り出した、奇跡のような小さな空洞の底であった。周囲の瓦礫が恐るべき火災旋風に舐め尽くされる中、そのわずかな空間だけが分厚い土と瓦の層に守られたかのように猛火の舌先を逃れ、当時のままの温度を保っていたのである。
清は獣のような荒い息を吐きながら、火傷でひきつる両腕を土の中に深く差し込み、その硬質な塊を灰の中から慎重に引きずり出した。
煤を払い落とした清の双眸が、驚愕に見開かれた。
泥と灰に塗れながらも、その分厚い黒革の装丁は確かに原形を留めていた。震災の直前、あの夕暮れの浅草からの帰途、狭い路地裏で彼が妹の桜子へと向けて構えた、愛用の暗箱――折り畳み式の蛇腹を備えた舶来の機械であった。
真鍮の金具は熱で鈍く変色していたが、内部の構造を守る堅牢な木枠は致命的な損傷を免れている。
そして何より清の胸を激しく打ち据えたのは、その暗箱の背面に、あの路地裏でたった一度だけ切り取った一瞬の光を封じ込めた『未現像の硝子乾板』が、間違いなく装填されたまま残されているという揺るぎない事実であった。
さらに、暗箱を引き上げたその下の灰の中から、鈍い黄金色の光を放つ細長い一本の筒が現れた。
桜子が日常の傍らに常に置き、あの暗闇の部屋で己の血を吐くようにして純文学『幻燈花』を書き綴ってきた、金張りの万年筆である。
人々の選ばれなかった人生という名の希望を定着させ続けたその冷たい金属の軸を、清は震える掌に包み込んだ。
妹が確かにこの狂乱の世界に生きて、己の命を燃やし尽くして絶望の暗号を紡ぎ続けたという、あまりにも重く、そして美しい真実の証。
万年筆の冷たい感触と、未現像の硝子乾板が内包された暗箱の重み。その二つの奇跡の遺品を胸に抱きしめた瞬間、清の脳髄を荒れ狂っていた発狂寸前の狂乱は、まるで嘘のように、恐ろしいほどの静寂へと急速に沈み込んでいった。
死の確証がないという灰色の絶望は、今、彼の手の中にある暗箱によって跡形もなく打ち砕かれるかもしれない。
あの炎の向こう側へと消えていった妹が、最期にどのような顔をしてこの世界に別れを告げたのか。その答えのすべてが、自分が切り取った最後の一枚という光の記憶に繋がっているのだ。
現像しなければならない。何としてでも、この硝子乾板に焼き付けられた光を、現実の像としてこの世に定着させなければならない。
その透明で確固たる目的意識が、死にかけていた清の肉体に、冷たく研ぎ澄まされた刃のような狂気的な理性を呼び覚ましたのである。
清は瓦礫の山からゆっくりと立ち上がり、敷地の北東の隅へと視線を向けた。
そこには、母屋の猛火から辛うじて延焼を免れ、外壁の漆喰が半分以上剥がれ落ちながらも、どうにか倒壊せずに持ち堪えている古い土蔵が立っていた。
分厚い土壁には大地震の爪痕である巨大な亀裂が縦横無尽に走り、いつ崩落してもおかしくない危険な状態であったが、清にとって今のそれは、外界の死臭と喧騒から己を徹底して隔離するための、唯一無二の聖域に他ならなかった。
清は暗箱と万年筆を懐に固く抱きかかえ、足を引き摺りながら土蔵へと向かった。
重い鉄扉をこじ開けて内部へと足を踏み入れると、ひんやりとした古い土の匂いが鼻腔を打つ。かつて初葉家の膨大な蔵書の一部が収められていたその空間は、地震によって木箱や書棚が倒れ、足の踏み場もない惨状を呈していた。清はその瓦礫を無言で脇へ退け、部屋の中央にわずかな平らな空間を確保した。
現像という繊細な化学反応の工程において、外部からの光の侵入はいささかも許されない。硝子乾板の感光乳剤は、ごく微量な太陽光であっても瞬時に像を焼き尽くし、すべてを真黒な虚無へと還元してしまうからだ。
清は土蔵の外へ戻り、瓦礫の中から焼け焦げた黒い着物の切れ端や、土汚れにまみれた厚手の布を拾い集めた。そして再び土蔵の内部に戻ると、壁の亀裂から差し込む細い光の筋を、執念深いほどに徹底的に塞ぎ始めた。
泥と灰を水でこねて漆喰のひび割れに塗り込み、その上から黒い布を何重にも当てて隙間を密閉していく。火傷で爛れた指先が泥の不純物に擦れて激痛を放ち、鮮血が壁を濡らすが、彼の表情には一切の歪みも生じなかった。
ただひたすらに、外界の熱気、死臭、そして大正の帝都が燃え尽きたという絶望の風景を、この空間からことごとく排除していく。
やがて、重い鉄扉の隙間にも黒布が詰め込まれ、土蔵の内部は文字通りの漆黒の暗黒へと沈み込んだ。
目を開けていても自分の手の輪郭すら認識できない、深い胎内のような暗闇。外界の阿鼻叫喚は分厚い土壁に遮断され、ただ自らの荒い呼吸音と、鼓膜の奥で脈打つ血流の音だけが、不気味なほどに静かに響き渡っている。
激しい絶望の中で瓦礫を掘り起こしていた先程までの動の狂気はすっかり消失し、底知れぬ静の空間がそこには構築されていた。
清は暗闇の中で手探りをしながら、土蔵の隅に残されていた古い手提げ燭台を見つけ出した。その周囲を、持参した赤い色硝子の破片で慎重に覆い、一本の蝋燭に火を点す。
微かな燃焼音とともに、暗黒の空間に血のような赤い光がぼんやりと広がった。
現像用の安全灯である。この波長の長い赤い光だけが、感光乳剤に影響を与えることなく、暗闇の中で辛うじて視覚を保つことを許してくれる唯一の道標であった。
赤い光に照らし出された清の顔は、死人のように蒼白でありながらも、神聖な儀式に臨む僧侶のような研ぎ澄まされた透明感を帯びていた。
彼は土蔵の床に置かれた水瓶から、桶に汲み置きの水を注いだ。そして、埃を被っていた琺瑯の浅い平鉢を二つ並べ、手持ちの小瓶から粉末の現像薬と定着薬をそれぞれ水に溶かし込んでいく。
静かな水音とともに、薬品が溶解する微かな摩擦音が響く。やがて、土蔵の内部を満たしていた古い土の匂いと、外から僅かに染み込んでいた屍臭を上書きするように、現像液特有の、鼻を突くような冷たく静謐な化学薬品の匂いが立ち込めた。
それは清にとって、かつて現像室という暗闇の中でだけ許されていた、己の精神を最も安らかに調律するための匂いであった。
準備は整った。
清は床に跪き、自らの両手を見つめた。火傷によって筋肉が剥き出しになり、泥と血糊に塗れた指先は、極度の緊張と激痛によって小刻みに震え続けている。
この震える手で、硝子乾板の繊細な乳剤面を傷つけるようなことがあれば、すべてが水泡に帰す。妹の最後に残した光の記憶を、自らの醜い手で破壊してしまうことだけは、万に一つも許されなかった。
清は奥歯を強く噛み締めると、その焼け爛れた両手を、容赦なく冷水の入った桶の底へと深々と突き入れた。
氷のように冷たい水が、火傷の患部を直接抉る。凄まじい激痛に清の全身が跳ね上がるように痙攣し、喉の奥から声にならない絶叫が漏れた。しかし彼は、決してその腕を引き抜こうとはしなかった。
痛覚の神経そのものを冷水で麻痺させ、泥と血を残らず洗い落とすまで、己の肉体を責め抜くような拷問に耐え続けたのである。
やがて、限界まで冷やされ、白くふやけた指先から、一切の震えが嘘のように消え失せた。
それは、人間の肉体を超越した、祈りにも似た悲愴な意志の勝利であった。
清は濡れた手を清潔な布で丁寧に拭い、傍らに置かれた黒革の暗箱へと静かに手を伸ばした。
真鍮の留め金を外す硬質な金属音が、静寂の暗室に響き渡る。
赤い光の下、暗箱の背面の蓋がゆっくりと開かれ、そこから現れた黒い遮光枠の中から、一枚の冷たい硝子乾板が静かに取り出された。
透明な硝子の表面に塗布された銀の粒子。そこには、あの日の浅草の路地裏の夕暮れと、妹が焦点硝子の奥の兄に向けてだけ放った蠱惑的な微笑みの光が、潜像という目に見えない形で確実に封じ込められている。
清は呼吸をピタリと止め、硝子乾板の両端を火傷した指先で極めて慎重に挟み込んだ。
そして、現像液が波立たぬように、琺瑯の浅鉢へと静かに、祈るような手つきでそれを浸した。
赤い暗闇の中で、微かな、しかし確かな水音が一つだけ鳴った。
液面の下に沈んだ硝子乾板を、清は瞬きすら忘れたように見つめ続けた。
ただ、液の循環を促すために、浅鉢の縁を一定の律動で静かに揺らし続ける。規則正しく現像液が硝子の表面を滑る音だけが、土蔵の底に冷たく反響する。
それは、発狂寸前の狂乱から暗室の極限の静けさへと降り立った男が、自らの魂のすべてを懸けて、炎の中に消えた妹の真実の姿をこの現世へと呼び戻すための、あまりにも孤独で、神聖な儀式の始まりであった。




