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『幻燈花』  作者: 長月有希


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第七章(2)

 大正という時代の文学的権威を一身に背負い、冷酷なまでに他者の人生を傍観し続けてきた初葉家の崩壊は、帝都の泥濘(ぬかるみ)に沈む一つの悲惨な死の確認によって決定づけられた。


 震災から数日が経過し、ようやく軍と警察による遺体収容作業が始まった大通りの一角。赤黒く変色した血糊(ちのり)と土汚れにまみれ、無数の黒焦げの死体が無造作に並べられた荒むしろの端で、初葉(いちは)清太郎(せいたろう)の肉体は発見されたのである。

 その死に様は、生前の彼が常に纏っていた『純文学の権化』という高踏的(こうとうてき)な虚飾とは対極にある、あまりにも生々しく泥臭いものであった。


 威圧的な銀行建築の壁面から引きちぎられた鋭利で太い鉄骨が、彼の背中に深々と突き刺さっている。その凶悪な鋼鉄の切っ先は肺葉(はいよう)を無慈悲に串刺しにし、胸骨(きょうこつ)の裏側にまで達して夥しい内出血を引き起こしていた。

 しかし、その遺体は倒壊する大質量の瓦礫(がれき)から逃げ惑い、苦痛に身悶えして息絶えたようには見えなかった。彼はまるで、胸の下に抱え込んだ自らの愛する者を外界の暴力からことごとく覆い隠すように屈み込んだ、その姿勢のまま硬直していたのである。


 安心させるために『何ともない』と嘘を吐き、最期まで己の致命傷を悟らせまいと吐き気を催すほどの激痛を押し殺した男。泥と血に塗れたその顔面には、死の苦痛や己の不運を呪うような無念の影は一切存在しなかった。

 そこにあったのは、大切な者を確実に逃がし終え、この狂乱の地獄にあってひとつの命を守り抜いたという深い安堵と、一人の家族としての透明な誇りに満ちた、微かで美しい微笑みであった。


 他人の絶望や悲劇を美しい活字に変換し、それを大衆に消費させることで莫大な富と揺るぎない権力を築き上げてきた男は、最後の最後、己の命が尽きるその刹那に至って文学という安全圏の虚構を跡形もなく捨て去った。そして、己の血肉を文字通りの盾として愛する子を守り抜くという、ひとりの愚直で純粋な父親として死んだのだ。

 その偉大なる死顔を前にして、何世代にもわたり帝都の文学界に君臨し、世間の羨望と畏怖を集め続けた名家・初葉の権威は、瓦礫の塵となって跡形もなくこの世から消滅した。


 そして、かつては豊潤な美貌と冷たい威圧感をもって初葉家の内側を支配し、世間体という冷酷な檻で家族を縛り続けてきた母・文子(あやこ)もまた、別人のような哀れな姿を野戦病院の片隅に晒していた。


 上野恩賜公園に急造された避難所の天幕。重症者たちの呻き声と血の匂いが充満するその空間で、崩落した重厚な紫檀(したん)の書棚の下敷きとなり数本の肋骨を砕かれた彼女の肉体は、満足な治療も受けられぬまま泥に汚れた不衛生な軍毛布に包まれて横たわっている。

 だが、大地震の暴力によって致命的に破壊されていたのは彼女の肉体ではなく、その精神そのものであった。


 親族の白い目を恐れ、長男の発声を禁じ、娘を純文学の器に仕立て上げることでしか初葉の妻としての自己を保てなかった、あの張り詰めた氷のような面影はもはや微塵も残っていない。煤(すす)に汚れ、白髪が乱れ交じった髪の奥にある、かつては愛らしかった大きな瞳は、焦点の定まらない虚ろな濁水のようにすっかり濁りきっていた。


「さくらこ。さくら、こ」


 ひび割れた唇から壊れた蓄音機のごとく延々と繰り返されるのは、自らを救うために猛火の中へと消えていった愛娘の名前だけであった。

 時には虚空に向かって震える手を伸ばし、「原稿の締め切りが近いですよ」と、とうに失われた日常の言葉をうわ言のように呟く。


 娘の命と引き換えに生き延びたという事実が、彼女の脳髄を完膚なきまでに破壊したのである。権威も格式もすべて剥がれ落ち、己の命よりも執着した半身を永遠に喪失した絶望の底で、ただ無意識に娘の幻影を追い求める老婆。

 それは世間体という病理に蝕まれた狂気的な母性の成れの果てであり、一族の重圧に押し潰されて心を殺し続けた一人の女の、あまりにも残酷で哀れな終着点であった。


 父は死に、母は狂気に沈んだ。その取り返しのつかない崩壊の渦中で、鋭利な刃物を思わせる骨格を持った長男の清(きよし)はただ一人、余すところなく焼け落ちた本家の跡地へと舞い戻っていた。


 痩躯(そうく)の彼を支配していたのは悲嘆でも絶望でもなく、深く落ち窪んだ眼窩(がんか)の奥で極限まで研ぎ澄まされた狂気的な執念であった。火災旋風によって舐め尽くされた広大な屋敷は、もはや柱の一本すら残っておらず、敷地のすべてが膝の高さまで積もった黒い灰と炭化した瓦礫の海と化している。

 清は、あの日、妹が自らと母を外へ突き飛ばし、紅蓮の炎の向こう側へと消えていった奥の書斎のあった方角へ向けて、無言のまま瓦礫を掘り起こし続けていた。


 重厚な書棚を持ち上げた代償として彼の両腕は重度の火傷を負い、皮膚は黒く炭化して赤黒い筋肉の繊維が剥き出しになっている。

 わずかに動かすだけで脳髄を焼き切るような激痛が走るはずのその腕を、清は一切の躊躇なくいまだ熱を帯びた瓦礫の奥底へと突き入れ、重い土壁や焼け焦げた木材の残骸を素手で力任せに掻き分けていく。


 熱で焼け爛れた指先から爪が剥がれ落ち、生爪を剥がされた肉から鮮血が噴き出す。鋭い陶器の破片や錆びた釘が容赦なく手のひらを切り裂くが、清は自らの血が黒い灰を赤く染めることなど知覚すらしていないかのように、獣のような濁った呼気を漏らしながら、ただひたすらに瓦礫を掘り続けた。


『出てこい。頼むから出てきてくれ』


 声にならぬ絶叫を胸の裡で繰り返し続ける。だが、妹の姿はおろか、その着物の切れ端一つ、髪に挿していた簪(かんざし)の一つすら見つからない。


 どれだけ己の肉を引き裂き、掘り返そうとも、血まみれの指先が捉えるのは無機質な炭の塊と微細な灰の粉だけであった。太陽が昇り、やがて厚い煤煙の向こうへ沈んでいく。昼夜の区別すらつかなくなった灰の海の中で、言葉を持たない男の悲惨な捜索だけが時計の針のように延々と繰り返されていた。


 幾日目かの昼下がり、焦土の巡回に訪れた軍の将校が、血まみれになって灰を掘り続ける清を見下ろして無情に告げた。


「無駄だ。そこは火災旋風の中心地だった場所だ。人体を形も留めぬほどに溶かし尽くす圧倒的な熱気だったのだ。あの中に最後までいたのなら、骨すら残らず燃え尽きている。諦めろ」


 その言葉は、軍人としての冷徹な事実の伝達に過ぎなかったが、言葉を持たない清の精神を最も深く致命的に抉り取る死刑宣告であった。

 遺体が見つかっていれば、たとえそれが黒焦げの無残な肉塊に成り果てていたとしても、それが確かに妹であるという確証さえあれば、彼はその冷たい骸(むくろ)を抱きしめて声の限りに絶叫し、喪に服してひとつの明確な区切りをつけることができたかもしれない。死を事実として受け入れることは、残された者が生きていくための最低限の儀式である。


 しかし、『骨すら残らず灰になった』という現実は、彼女の死を物理的に証明するものがこの世に何一つ存在しないということを意味していた。


 本当に燃え尽きて消滅したのか、それともあの炎の壁が崩れ落ちる寸前、奇跡的にどこかの隙間から抜け出し、記憶を失って帝都のどこかを彷徨っているのではないか。あの時、自分がもっと早く書棚を持ち上げていれば彼女は死なずに済んだのではないか、自分が不甲斐ない吃音(きつおん)者でなければもっと違った結末があったのではないか。

 永遠に答えの出ない問いが、清の脳内を無限の螺旋(らせん)となって巡り続ける。


 死の確証がないという『白黒つかない灰色の絶望』。

 それは、希望という名の毒と絶望の狭間で永遠に魂をすり潰し続ける、最も残酷な精神的拷問であった。


 清の喉の奥から、言葉とも獣の呻きともつかない痛ましい濁音が漏れ出た。炎の中で妹を想ってただ一度だけ奇跡のように完璧に発したあの声は、再び吃音と絶望の底に固く閉ざされ、二度と明瞭な言葉を紡ぐことはできなかった。


 彼は血に染まった両手で顔を覆い、灰の海の中へ崩れ落ちた。分厚い雲に覆われた灰色の空から、降ってくる細かい煤が、声もなくむせび泣く彼の背中に降り積もっていく。

 遺体なき喪失という出口のない迷宮の中で、言葉を奪われた男の魂は、静かに、しかし確実に発狂の深淵へと転がり落ちていこうとしていた。

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