第七章(1)
九月朔日の正午を境にして、大正の帝都から一切の色彩と虚飾がことごとく剥がれ落ちた。
未曾有の大震災と、それに続いた猛烈な火災旋風が舐め尽くした後の街は、見渡す限りの黄褐色の荒野へと変え果てていた。太陽は、天空を厚く覆い尽くす粉塵と煤煙の向こう側で、まるで錆びついた鈍色の古銭のように不気味に澱み、熱を帯びた風が、焦げた木材のむせ返るような匂いと、鼻腔の奥底にこびりついて離れない甘ったるい屍臭を絶え間なく運んでくる。
かつてこの帝都を彩っていた大正浪漫の威容――天に向かってそびえ立っていた煉瓦造りの西洋建築も、夜の闇を華やかに照らし出していた瓦斯灯の並木も、人々の欲望を飲み込んでいた酒場や洋館の喧騒も、大地の怒り狂う痙攣と業火の前では、ただの脆い砂の城に過ぎなかった。文化も、権力も、貧富の差すらも、一切の慈悲を持たない抗いようのない自然の暴力によってすっかり粉砕され、今はただ平等な黒焦げの瓦礫の海として、果てしなく横たわっているだけであった。
しかし、その絶望的な死の荒野にあって。
すべてを喪失したはずの灰燼の底から、確かに立ち上がり、己の二本の足で泥濘を踏み締めて歩み出そうとしている者たちがいた。
上野恩賜公園の広場に急造された野戦病院の天幕の下。
悪臭と呻き声が充満する薄暗い空間で、血と膿にまみれた荒むしろの上に横たわっている男がいた。かつて学問に身をやつし、とうに若さを失った痩躯の男、能村現である。
彼の肉体は、燃え盛る商家から見ず知らずの母子を救い出した代償として、正視に耐えないほどの悲惨な状態にあった。全身の皮膚は高熱によって焼け爛れてどす黒く変色し、水疱が破れては絶え間なく体液を滲ませている。包帯を巻く衛生兵の物資すらとうに底を突き、ただ泥に汚れた布切れを巻かれているだけの彼の肉体は、呼吸をするたびに焼け焦げた肺腑から血の泡を吐き出し、発狂しそうなほどの激痛が脳髄を乱打し続けていた。
だが、痩せこけた頬骨の上に落ち窪んだ眼窩の奥にある、鋭くも深い愁いを帯びた双眸には、かつて己の卑小な保身から愛する女性の手を振り払って逃げ出した時の、あの惨めな虚無と絶望の影は微塵も存在していなかった。
能村は、火傷で指の形すら判然としない自らの右手を微かに動かした。この手は、業火の中で見知らぬ母親の細い手を、そして小さな命の震える温もりを、骨が軋むほどに強く握りしめ、決して離しはしなかったのだ。肉体の激痛とは裏腹に、能村の魂は、いまだかつてないほどの静謐と透明な誇りに満たされていた。己はついに逃げ出さなかった。初葉桜子の紡いだ活字によって己の犯した罪の醜さを知らされ、そして同時に示された「愛する者の手を離さない」という本来あるべき人間の尊厳を、自らの命を燃やし尽くすことで、ついにこの現実に証明してみせたのである。痛みに歪む無精髭の口元に、彼は誰に見せるためでもない、静かで穏やかな微笑みを確かに刻み込んでいた。
一方、まだ至る所で燻る余燼が白い煙を上げている大通りを、裸足で力強く歩みを進めている少女の姿があった。
宮崎糸である。
丸みを帯びた可憐な輪郭に、澄み切った大きな双眸を持つ彼女の、上等な着物はとうに引き裂かれ、煤と土汚れに塗れて本来の色すらわからない。瓦礫の破片を踏み抜いた足の裏からは赤黒い血が流れ、痛々しい軌跡を地面に残していた。しかし彼女は、泣きじゃくる二人の弟の手を自らの両手で固く握りしめ、その後ろを歩く両親を時に力強く励ましながら、決してその歩みを止めることはなかった。
かつて彼女の自由を奪い、尊厳を犯し続けた揺るぎない権力者・鷺宮は、地震の直下型の揺れによって何千貫という豪邸の瓦礫の下へと容赦なく圧殺され、歴史から消滅した。莫大な借金の証書も、彼女を意思を持たぬ人形として縛り付けていた強固な鳥籠も、すべてが物理的に大地の底へと埋葬されたのだ。
帝都が崩壊し、明日食べる一粒の麦すら保証されていない極限の飢餓の中にある。だが、糸の澄んだ瞳と強い眼差しの奥には、一切の翳りも恐怖も存在しない。彼女の胸の奥底には、あの『幻燈花』に描かれていた、理不尽な暴力に屈することなく、愛する家族と共に泥水を啜ってでも生き抜くという『選ばれなかったはずの人生』が、確かな熱量を持った真実の血肉として激しく脈打っていたのである。
誰の所有物でもない。私は、私の足で、愛する者たちと共にこの大地を歩いていく。糸の足取りは、絶望の荒野にあって、美しく力強い生命の凱歌そのものであった。
そして、灰色の地獄絵図のあちこちを、ひび割れた声で人々の名を呼びながら歩き回る若き青年の姿があった。
大日本帝国郵便の配達夫、外村洋一である。
誇りであった相棒の重厚な郵便用双輪車はすでに瓦礫の下敷きとなってひしゃげ、自ら引き千切った小倉織の制服は血と泥に汚れ切って原形を留めていない。だが、洋一はその焼け爛れた足を引き摺りながら、生き残った人々が集まる避難所や広場を、休むことなく巡り続けていた。
かつて己の保身から血の滲む救難の書状を見殺しにした罪を背負う彼は、あの猛火の渦巻く帝都の中で、崩れゆく建物の下敷きになりながら死にゆく人々から託された無数の言伝を、自らの脳髄へと焼き付けていた。物理的な通信網が徹底して死滅したこの焦土において、彼は自らの肉体そのものを『生きた伝言板』へと昇華させたのだ。
「あなたの旦那さんは、最後まで立派でした。お前たちを愛していると、どうか生き延びてくれと、そう仰っていました」
涙に暮れる遺族の前に泥だらけの姿で跪き、洋一は腹の底から絞り出すような透明な声で、一つ一つの言葉を狂いなく届けていく。紙も鉛筆も持たない彼の紡ぐ声が、絶望に沈む遺族たちの心に確かな温もりを与え、生きるための細い糸を繋ぎ止めていく。かつて見捨てた命の重さを背負い、純文学によって人間の尊厳を取り戻した若き配達夫は、己の命を削ってでも死者の声を届け続けるという、究極の贖罪と誇りの中を歩み続けていた。
さらに、帝都の幹線道路の真ん中で、周囲の黒焦げの景色とは異質な、奇妙に静謐な空間が広がっている場所があった。
激しい余震によって崩落した、圧倒的な銀行建築の重厚な石柱。その何千貫という途方もない重量の下には、逃げ惑う群衆を背後の死角へと突き飛ばし、自らが大黒柱の直撃を受けて微塵に砕け散った若き設計士、滝沢鉄朗の肉体がすっかり圧壊されたまま眠っていた。
誠実さを絵に描いたような端正な顔立ちと、不器用なほどに真っ直ぐな性根を持っていた青年。かつて父親に対する幼い復讐心から足場に細工を行い、父の足を奪った罪に囚われていた男。彼は最後の瞬間、自らの命を使い切って他者を守るための柱となることで、ついに己の魂の救済を成し遂げたのである。
その巨大な石柱の周囲には、鉄朗の決死の行動によって命を救われた数十人の人々が集まっていた。彼らは皆、着の身着のままで土汚れに塗れていたが、誰からともなく瓦礫の隙間に生えていた名もなき野花や、焼け焦げた草の葉を摘み取り、鉄朗の墓標となったその石柱の根元へと静かに手向けていた。血と泥にまみれた荒野の中心で、人々が静かに手を合わせ、顔も名前も知らない一人の誠実な青年のために祈りを捧げている。それは、人間の自己犠牲という究極の利他行動が、大自然の暴力すらも越えて人々の魂に美しく連鎖していくという、厳粛な鎮魂の儀式であった。
彼らは互いに顔を知ることもなく、ましてや、自分たちの魂を根底から揺さぶり、再び立ち上がらせたあの『幻燈花』という物語が、初葉桜子という一人の孤独な少女によって紡がれていた事実を知る由もなかった。
桜子の華奢な肉体は、初葉の本家を包み込んだ紅蓮の業火の奥底で、もはや骨の欠片すら残さずに跡形もなく消え去ってしまった。しかし、彼女が暗闇の部屋で血を吐くようにして書き綴った活字たちは、決して無意味な灰燼に帰したわけではなかった。
現実の絶望や己の弱さに屈し、惨めな生を余儀なくされていた者たち。彼らが本来歩むべきであった勇気と尊厳に満ちた『選ばれなかった人生』。桜子が特異な感受の業をもって活字に定着させたその『幻の生』は、活字という媒体を超え、未曾有の大災厄という極限状態において、間違いなく彼らの魂に火を点す決定的な点火剤となったのである。
もはや、それは虚構の物語ではない。
彼らの血肉の中に深く溶け込み、焼け野原となった大正の世を力強く生き抜くための、揺るぎない真実の命そのものであった。
一人の少女が己のすべてを捧げて紡ぎ出した純文学が、歴史的な大崩壊の絶望の底において、数多の人間の尊厳を蘇生させ、確かな光の網となって帝都の荒野を照らし出している。
それこそが、呪われた血脈の生贄となった桜子が、自らの命を燃やし尽くしてこの残酷な世界へと残した、あまりにも美しく、そして途轍もなく強靭な『光の遺産』であった。




