第六章(5)
桜子は、猛毒の黒煙と火の粉が荒れ狂う書斎の床を蹴り、焼け焦げた紫檀の巨大な書棚の下敷きとなっている母・文子と、その重量を両腕の皮膚を焼きながら必死に支え続けている兄・清の傍らへと、一切の躊躇なくその身を投じた。
極限の熱波によって上等な着物の袖はすでに黒く焦げ、白磁のような肌は痛覚を通り越して無感覚の領域へと達している。だが、桜子の双眸には、恐怖も迷いも微塵も存在しなかった。
彼女は、燃え盛る紫檀の重厚な木材の下へと、自らの細い両腕を差し込んだ。そこは、清が己の腕の肉を焼かれている、文字通りの焦熱の地獄である。桜子の純白の皮膚が、火のついた木材と、清の剥き出しになった赤黒い筋肉の繊維に直接触れる。途方もない熱と、人間の脂肪が燃える異臭が鼻腔を犯すが、桜子は奥歯が砕けんばかりに顎を噛み締め、兄と同じ姿勢で、己の肩と背骨のすべてをその抗いようのない死の重量に対する支柱として構築した。
清の血走った眼球が驚愕に見開かれ、隣に並び立った妹の顔を凝視した。
『お前は逃げろ。死んでしまうぞ』
血を吐くような清の無音の絶叫が、痛ましい喘鳴となって桜子の鼓膜を叩く。しかし桜子は、その血の涙を流す兄に向かって、煤に汚れた顔のまま、力強く、そして確かな信頼を込めて深く頷いてみせた。
「上げます」
短い宣告。その静かで透明な声が発せられた瞬間であった。
桜子と清、純文学の重圧という檻の中で虐げられてきた二人の兄妹の呼吸が、見事に一つへと同期した。
二人の肉体の内側から、人間が本来持ち得る限界を遥かに凌駕した、狂気的なまでの筋力が爆発的に生み出される。焼け焦げる皮膚の激痛も、骨が軋む悲鳴もすべてを置き去りにして、数千貫という紫檀の書棚が、炎の燃焼音すらも圧するような耳を裂くような摩擦音を立てて下から強引に持ち上げられていく。
書棚の重圧から解放された文子の身体が、床の畳の上で微かに動いた。
桜子は、持ち上げた書棚の重量のすべてを己の左半身と清の腕に預けたまま、空いた右手で文子の絹の着物の襟を力強く掴み、自らの背後、縁側へと通じる空間に向けて一気に引き摺り出した。
文子の肉体が書棚の下からすっかり抜け出た直後。桜子と清は同時に腕の力を抜き、後方へと激しく跳躍して身をかわした。巨大な紫檀の書棚は、圧倒的な轟音を立てて焼け焦げた畳を突き破り、燃え盛る火の粉を部屋中に暴力的に撒き散らした。
息も絶え絶えになりながら、桜子は文子の上半身を抱き抱え、清と共に、屋敷の外部である庭へと続く縁側を目指して這いずるように進み始めた。
文子は肋骨を何本も折られ、口から血を流して意識が朦朧としている。清の腕は重度の火傷によって炭化し、もはや指を動かすことすら不可能な状態であった。まともに動けるのは、皮膚を焦がしながらも奇跡的に致命傷を免れている桜子ただ一人である。
だが、彼らが縁側の板目に手を掛け、外界の澱んだ空気を肺に吸い込もうとした、まさにその時であった。
頭上の虚空から、巨大な大砲を至近距離で撃ち放ったかのような、破滅的な破砕音が響き渡ったのである。
何世代にもわたって初葉家の重厚な瓦屋根を支え続けてきた、樹齢数百年の太い松の梁が、火災旋風の圧倒的な熱量によって炭化し、ついにその構造的な限界を迎えたのだ。
天井板が弾け飛び、莫大な重量を持つ火のついた瓦と木材の群れが、桜子たちの頭上へと、完全なる死の瀑布となって降り注いできた。
時間が、極限の遅さをもって引き延ばされていく。
桜子の異常なまでに研ぎ澄まされた空間把握能力は、落下してくる瓦礫の軌道と自分たちの現在位置から導き出される生存確率を、瞬きする間にことごとく計算し尽くしていた。
このまま三人で縁側へ逃げ込もうとしても、絶対に間に合わない。間違いなく全員が巨大な梁の下敷きとなり、この炎の地獄で骨も残らず焼き尽くされる。
生き残る道はただ一つ。誰か一人がその場に残り、残り二人の肉体を、落下点の外側である庭の土の上へと、力の限りに弾き飛ばすことだけであった。
その残酷な真理を前にして、桜子の心には微塵の躊躇も、死に対する恐怖も存在しなかった。
彼女は自らの抱えていた文子の身体を清の胸元へと乱暴に押し付けると、己の両足を縁側の板目に深く突き立て、全身の弾条を極限まで圧縮した。そして、落下してくる死の重量が彼らの頭蓋を粉砕するほんの一瞬の隙を突き、両腕に自らの生命力のすべてを乗せて、愛する母と兄の背中を安全な庭の空間へと全力で突き飛ばしたのである。
痛ましい衝突音が響き、清と文子の肉体が、火の粉の舞う空を切って庭の白砂利の上へと激しく転がり落ちていく。
二人の身体が縁側の外へと弾き出された、その直後であった。
恐ろしい質量を持った燃え盛る巨大な梁が、桜子の眼前の床板を無慈悲に叩き割り、庭と屋敷とを分かつ境界線へと深々と突き刺さった。
巻き上がる爆発的な火柱。火の粉が視界を白く染め上げ、周囲の酸素が一瞬にして余すところなく燃え尽きる。折れた梁と天井の残骸は瞬く間に天まで届くような紅蓮の炎の壁を形成し、庭へ逃れた二人と、屋敷の奥に残された桜子とを、揺るぎない物理の壁をもって完全に遮断してしまったのである。
炎の壁の向こう側、庭の砂利の上に転がり落ちた清は、激痛に苛まれる己の腕の存在すらもすっかり忘れ去り、弾かれたように上半身を起こした。
彼の双眸に映ったのは、もはや入り込む隙間すら存在しない、圧倒的な死の炎の連なりであった。縁側も、奥の書斎も、彼らを逃がしてくれた妹の姿も、すべてが紅蓮の業火の向こう側へと姿を消してしまっていた。
「…さ……くら…こ」
傍らで血の海に倒れ伏す文子の口唇が、痙攣するように動いた。
漏れ出たのは、名家の妻として取り繕ってきた冷徹な響きではない。親族の白い目や世間体という残酷な檻の中で己を殺し、長男の発声を禁じて一族の『瑕疵』として隠蔽し、娘を純文学の器に仕立て上げることでしか生きられなかった、一人の脆く哀れな女のひび割れた呼気であった。胸郭を潰された肺から泥を吐くように絞り出されたその名には、生涯被り続けてきた格式の仮面を剥がし落とし、己の命よりも執着した半身を永遠に失う絶望に壊れたようにむせび泣く、狂気的な母性だけが張り付いていた。
自分を忌み嫌い、存在を否定し続けた母。しかし、妹を誰よりも深く愛し、冷酷に縛り付けてきた母。
その母が今、娘の死を前にして一人の女としてむせび泣いている。その掠れた声を傍らで聞いた瞬間、清の魂そのものが、激しい痙攣を起こし始めた。
清は極度の吃音ゆえに、一族の掟によって言葉を紡ぐことそのものを厳重に禁じられて生きてきた。彼が唯一、己の醜い発声を晒すことができたのは、どんなに言葉が詰まっても決して顔を背けず、静かな微笑みで待ち続けてくれた、愛する妹である桜子の前だけだったのである。
桜子こそが、彼が人間としてこの世界と繋がるための唯一の光であり、言葉という不完全な道具を超越した、揺るぎない理解者であった。
その妹が今、己の目の前で、自分たちを助けるために命を投げ出し、炎の奥底へと消え去ろうとしている。
清の脳髄の奥底で、生涯にわたって彼を縛り付けてきた『家と世間』という分厚い呪縛が、音を立てて跡形もなく崩壊した。
一族の瑕疵となる恐怖も、己の欠落に対する絶望も、もはやどうでもよかった。ただ、あの炎の向こう側で消えゆく妹の魂を、この世のこちら側へと何としてでも引き留めなければならない。そのためには、声を出さなければならない。人間としての魂の輪郭を、声という最大の物理現象をもって、この絶望の世界へと叩きつけなければならないのだ。
清は、火傷でただれた両腕を燃え盛る炎の壁へと真っ直ぐに伸ばし、己の肺の底から、残されたすべての生命力を振り絞った。
喉仏の周辺の血管が、異常なほどの内圧によって激しく膨張する。初葉の同調圧力によって萎縮し続けてきた声帯が、人間の限界を超えた呼気によって暴力的に震え上がった。だが、生来の吃音という業は、死の淵にあっても奇跡のように彼を離してはくれなかった。
「さ……っ、さく、ら……こ」
激しく痙攣する喉から、血の泡と共に絞り出されたのは、無残にひび割れ、不格好に吃った妹の名であった。
最初の音は極度の緊張で声帯が硬直してどうしても出ず、続く音は喉の粘膜を削り取るような無慈悲な摩擦を伴っていた。しかし、それでよかった。澱みなく流暢な言葉など、初葉が弄んできた虚飾に過ぎない。
家の掟に縛られ、己の醜い声を晒すことを極端に恐れてきた男が。己に口を噤むことを強いてきた母の眼前にて、己の全存在を懸け、血反吐を吐き、無様に喉を詰まらせながらも放ったその泥臭い絶叫こそが、妹の命をこの世に引き留めるために発した、何よりも純粋で完璧な『魂の咆哮』であった。
炎の轟音すらも圧し潰し、空気を鋭く震わせたその血塗れの絶叫は、分厚い炎の壁を突き抜け、屋敷の奥深くに残された桜子の鼓膜へと、確かな質量を持って突き刺さった。
圧倒的な炎の壁のこちら側、退路を断たれ、死の炎に囲まれた密室の底で。
桜子は、膝をついたまま、背後から響いてきたその不格好で狂気的な愛に満ちた絶叫を、全身で受け止めていた。
周囲の温度はすでに人間の肉体が耐え得る限界を遥かに超え、桜子の着物の裾から赤い火の手が上がり始めている。黒煙が視界を奪い、呼吸をするたびに肺が焼け焦げていく。
本来であれば、己の肉体が灰と化していく極限の苦痛に身悶え、恐慌を来して泣き叫ぶべき地獄の底である。
しかし、桜子の心には、死の熱さに泣き叫ぶことも、一片の恐怖すら存在していなかった。
彼女の魂は、いまだかつてないほどの限りない静寂と、この上ない幸福感の底に、静かに、そして深く満たされていたのである。
『聞こえた。兄の声だ。生涯、初葉の家に声を奪われ、私の前でしか言葉を紡げなかった彼が。極限の苦痛と恐怖の中で、無様に喉を詰まらせ、血を吐きながらも、私をこの世界へ引き留めるために、その不完全で、ゆえにこの世のどんな詩よりも美しい真実の響きを、母の傍らで発してくれたのだ』
桜子は、炎の壁の方角へとゆっくりと振り返った。
彼女の脳裏に、これまでの数奇な運命が走馬灯のように駆け巡っていく。
初葉という権威の底で、たった一人で暗闇の部屋に籠り、『幻燈花』を書き綴ってきた孤独な日々。
己が夢に見る悲劇が、現実に生きる見知らぬ誰かの『選ばれなかった人生』であるなどとは知る由もなく、ただ克明に活字へと写し取っていた。まるで当人の魂が憑依したかのように生々しい感情と情景を描き出す、その残酷なまでの特異な感受性は、図らずも他者の不幸を極上の物語として大衆に消費させていた。
だが、その自らの業に絶望した夜を越え、彼女の紡いだ活字は決して無意味な見世物では終わらなかった。彼女の物語は、権力の鳥籠から弱者を解き放ち、罪人たちに贖罪を果たさせ、大震災という圧倒的な暴力が吹き荒れる帝都の中で、何万という生きた人間たちの命を繋ぐ強靭な『光の網』へと見事に昇華したのだ。
父は、娘を守り抜くという一人の父親としての誇りを取り戻して死んだ。
母は家という呪縛から解き放たれ、私の命を想って狂おしい涙を流してくれた。
そして、ずっと言葉を奪われ、一族の瑕疵として虐げられてきた愛する兄は、ついに自らの意志で、家の禁忌を破り声を届けてくれた。
桜子は、己に与えられたこの残酷な筆の役割を、これ以上ないほどに完璧に果たし切ったのだ。
迫り来る紅蓮の炎が、彼女の華奢な肉体を容赦なく舐め上げ始める。
しかし桜子は、その絶望の淵に立ち尽くしながら、炎の壁の向こう側にいる愛する兄に向かって、静かに顔を上げた。
彼女の顔に浮かんでいたのは、死を受け入れた者のような澄み切った諦念などではなかった。
それはかつて、浅草からの帰途、夕暮れの路地裏で清が向ける暗箱越しに、たった一度だけ見せてくれたのと同じ表情。密かに女優への憧れを抱いていた彼女が、焦点硝子の奥の兄に向けてだけ晒した、見る者の魂を永遠に狂わせるほどに蠱惑的で、圧倒的なまでの美しさを放つ神聖な微笑みであった。
他者の絶望を視てしまうという数奇な感受の業を背負い、自らの命を燃やして無数の人々を救い出すという究極の悲劇を演じ切った、最高にして最期の『名演技』。
その蠱惑的な微笑みは、燃え盛る炎の暴力的な赤さの中で、決して失われることのない強烈な光を放つ一枚の幻燈の硝子乾板となって、清の網膜の奥底へと完璧に、そして永遠に焼き付いた。
やがて、凄まじい火災旋風が巻き上げる濃密な黒煙と、吹き上がる紅蓮の炎の帳が、舞台の幕がゆっくりと下りるようにして、桜子の姿をすっかり包み込んでいく。彼女の華奢な肉体は、炎に焼かれる悲鳴を一切上げることもなく、ただその神聖な微笑みだけをこの世に置き去りにしたまま、燃え盛る屋敷の奥深くへと、まるで美しい幻のように溶けて消え去った。
初葉の呪われた歴史と、彼女の紡いだ美しい物語のすべてが、炎の轟音の底で、圧倒的な解放と共に永遠の終幕へと昇華していったのである。




