第六章(4)
父・清太郎の壮絶な自己犠牲と、彼が最後に残した完璧な嘘を背に受け、初葉桜子は、瓦礫の山と化した帝都の暗闇をただひたすらに走り続けていた。
呼吸をするたびに、肺腑に熱を帯びた粉塵と硝煙の匂いが突き刺さる。上等な着物の裾は引き裂かれ、素足に履いた草履の鼻緒はとうの昔にちぎれ飛んでいた。鋭い石の破片や割れた硝子が容赦なく足の裏を切り裂き、一歩を踏み出すごとに鮮血が泥濘に赤い斑点を残していく。しかし、桜子の脳髄は痛覚という機能をすでにことごとく遮断していた。
背中を貫いた巨大な鉄骨。父の口から溢れ出ていた赤黒い血。そして、死の淵にあってなお、娘を安心させるために微笑んでみせたあの身を切るような愛。その記憶が、桜子の細い両足を強制的に前へと突き動かしている。彼女の双眸は、炎と黒煙に包まれた帝都の地獄絵図の中にありながら、ただ一点、初葉の本家が存在する方角だけを真っ直ぐに、そして狂気的なほどの透明な熱量をもって見据えていた。
やがて、桜子の視界の先に、帝都の中心部からわずかに外れた高台の閑静な区画が現れた。
数世代にわたり、揺るぎない権威と純文学の血脈を保守し続けてきた、初葉家の広大な敷地である。
しかし、そこに辿り着いた桜子の目に飛び込んできたのは、かつての水を打ったような静寂に包まれた冷厳な屋敷の姿ではなかった。外界の猥雑な喧騒を跡形もなく拒絶し、一切の侵入を許さなかった重厚な黒張りの板塀は、すでに大地の激しい痙攣によって無残に薙ぎ倒されている。
そして何より、初葉家の権力と歴史の重みを象徴していた、あの分厚く堅牢な瓦屋根が、天を衝くような紅蓮の猛火にすっかり舐め尽くされ、今まさに音を立てて崩落しようとしていたのである。
それは、単なる木造建築の火災という次元を超えた、一つの呪われた聖域の終焉であった。
敷地の奥深くに建造されていた土蔵の漆喰の壁が崩れ落ち、そこに何十年にもわたって秘匿され、蓄積されてきた膨大な純文学の蔵書が、炎の海へと無防備に引き摺り出されていた。
初葉の血を継ぐ歴代の当主たちが、他者の人生を傍観し、人間の醜さや絶望を冷酷に書き連ねてきた、何万冊という希少な初版本。そして、高価な和紙に純墨で綴られた無数の直筆原稿。それら初葉家の魂とも呼べる数多の書物たちが、火災旋風のすさまじい熱気によって次々と空中に巻き上げられ、虚空で発火し、赤い火の鳥となって狂乱の渦の中を舞い踊っていた。
屋敷の隅々にまで染み付いていた高く澄んだ白檀の香気と、上質な和紙が放つ静謐な匂いは、いまや木材が焼け焦げる酸鼻を極める悪臭と、分厚い黒煙の暴力的な臭気に余すところなく蹂躙されている。純文学という名の下に、他者の血の滲むような現実をただの美しい文字の羅列へと変換し続けてきた傲慢な歴史が、大自然の圧倒的な熱量による抗いようのない熱力学的分解を受け、ただの黒い灰と炭素の塊へと還元されていく。それは、初葉という忌まわしい血脈の終わりを告げる、あまりにも荘厳で無残な火葬の儀式であった。
桜子が崩れ落ちた正門の跡を越え、熱波の渦巻く前庭へと足を踏み入れたその時である。
屋敷の玄関から、衣服に火の粉を浴び、半狂乱になって咳き込みながら数人の使用人たちが転がり出てきた。彼らは皆、何世代にもわたって初葉家に仕え、本家の威光を自らの誇りとしてきた者たちであったが、今やその顔に忠誠心の欠片はなく、ただ己の命惜しさに蜘蛛の子を散らすように安全な外界へと逃げ出そうとしていた。
その中の一人、古株の初老の男が、炎の壁へ向かって真っ直ぐに歩みを進める桜子の姿に気づき、土汚れに塗れた顔を激しく引き攣らせて彼女の前に立ち塞がった。
「お逃げください。本棟の梁はもう持ちません。入れば、生きては出られません」
男は桜子の袖を力強く掴み、引き返させようとした。しかし、桜子の漆黒の瞳は、目の前の男の存在など透き通るように透過し、燃え盛る屋敷の最奥だけを見据えていた。
「お母様と、お兄様は」
桜子の口から落ちた声は、轟音の響き渡る火災の現場にあって、不気味なほどに静かで、氷のような冷たさを帯びていた。その声の底知れぬ凄みに、男は思わず袖を握る手を緩め、顔面を恐怖に歪ませながら喉の奥から声を絞り出した。
「お、奥様は、まだ一番奥の書斎に。それに……」
男は激しく言い淀んだ。初葉家において、言葉を持たぬ長男の存在は「いないもの」として扱うのが絶対の掟であったからだ。しかし、桜子の見開かれた漆黒の瞳に射すくめられ、男は長年押し隠してきた罪悪感を懺悔するように吐き出した。
「我々が逃げ出すのと入れ違いに、清様が、奥様をお助けしようと炎の中に飛び込んで行かれたのです。お止めしたのですが……。あの部屋は、もう火の海で……」
言葉の途中で、桜子は男の手を無造作に振り払った。
責める言葉も、怒りの表情もない。己の命惜しさに逃げ出した者たちと、言葉を持たぬまま炎に飛び込んだ兄の姿が、鮮烈な対比となって彼女の胸に刻み込まれただけである。己のすべきことが決定したという透明な事実だけを抱き、彼女は一切の躊躇なく、崩落の始まりつつある玄関の三和土へと足を一歩踏み入れた。
『――炎上する屋敷の内部への突入』
それは、人間の肉体にとって、完全なる死の領域への侵犯であった。
玄関の式台を越え、燃え盛る長い廊下へと足を踏み入れた瞬間、桜子の全身を、物理的な質量を伴った熱波が容赦なく打ち据えた。
空気が燃焼しているのではない。空間そのものが数百度という致死的な温度にまで熱せられ、目に見えない巨大な高熱の壁となって彼女の皮膚の表面から一切の水分を瞬時に奪い去ったのだ。長く美しい漆黒の髪の毛先が音を立てて縮れ、白磁のような肌を火膨れさせるほどの輻射熱が、着物の繊維を容易く通り抜けて内臓の奥底までを直接焦がしにくる。
何よりも桜子の肉体を極限まで苛んだのは、呼吸という人間にとって最も基本的な生命維持活動の徹底した否定であった。
屋敷の建材や古い和紙、塗料が不完全燃焼を起こすことによって発生した、猛毒の一酸化炭素と黒煙の塊。それは酸素を含まない死の気体となって廊下を這い回り、桜子の鼻腔から肺腑へと暴力的に侵入してきた。
息を吸い込むたびに、熱した縫い針を気管支に突き立てられるかのような激痛が走る。喉の粘膜は一瞬にして焼け焦げ、気道が激しい炎症を起こして極端に狭窄していく。酸素を求めて肺が痙攣を起こし、激しい咳の連鎖が腹筋を破壊せんばかりに打ち据えるが、吐き出した直後に吸い込めるのもまた、高温の黒煙だけであった。
桜子は、膝を床の板目に擦りつけるようにして姿勢を極限まで低く落とした。
わずかに床面付近に残された酸素の薄い層だけを頼りに、四つん這いになって燃え盛る廊下を奥へ、奥へと這い進んでいく。頭上では、火に包まれた分厚い梁や鴨居が、重々しい破砕音を立てて次々と崩れ落ち、火の粉の飛沫を彼女の背中へと浴びせかける。
皮膚が焼け爛れる痛覚。鼓膜を灼く炎の轟音。視界を奪う暗黒の煙。
だが、桜子の精神は、その極限の身体的苦痛にことごとく支配されながらも、決して折れることはなかった。父が己の命と引き換えにしてこの命を繋いでくれたのだ。あの瓦礫の下で微笑んだ父の顔を思い出すたび、彼女の心臓は新たな血液を沸騰させ、焼け焦げた手足に無理矢理に力を宿らせた。
地獄のような炎の回廊をどれだけ這い進んだか。
やがて、桜子の視界の先に、屋敷の最深部、母・文子が自らの権威の象徴として孤高の支配を敷いていた、重厚な奥の書斎の空間が、業火の向こう側に揺らめいて現れた。
襖はすでに焼け落ち、広大な畳の部屋の大部分が炎に呑み込まれている。
その崩れかけた奥の部屋の光景を視覚に捉えた瞬間、桜子の呼吸が、熱さとは別の次元の衝撃によって凍りついた。
部屋の中央。天井まで届くほどに巨大であった、重厚な紫檀の書棚が、大地震の激しい揺れによって無残に前方へと倒れ伏していた。
その巨大な家具の下敷きになっていたのは、初葉家の女帝として君臨し、家族のすべてを冷酷に支配し続けてきた母、文子であった。
彼女の上質な絹の着物は引き裂かれ、乱れた髪は煤と灰に塗れている。重厚な書棚の角が胸部から腹部を深く圧迫し、口からは赤黒い血液が幾筋も畳の上へと滴り落ちていた。かつて桜子を冷徹な視線で射すくめ、一切の感情を許さなかったあの恐ろしい母の威厳は、大自然の暴力の前にすっかり砕け散り、ただ死の恐怖に怯えて弱々しい呻き声を漏らすだけの、哀れな一人の人間に過ぎなくなっていた。
だが、桜子の双眸を限界まで見開かせ、その魂を激しく揺さぶったのは、倒れた母の姿そのものではなかった。
その文子の傍らで。
炎が燃え移り、今まさに黒焦げの炭と化しつつある巨大な紫檀の書棚を、下から必死に持ち上げようと全身全霊を叩きつけている青年の姿があったのである。
初葉家の長男であり、極度の吃音という言葉の不全を抱えたがゆえに、純文学を至高とする母から存在を徹底して否定され、虐げられ続けてきた透明な息子、清であった。
清の肉体は、すでに正視に耐えないほどの凄まじい状態にあった。
彼が持ち上げようとしている書棚の表面は、すでに激しい炎に包まれており、数百度の高温を発している。その火のついた木材の下に直接差し込まれている両腕の皮膚は、熱によって焼け焦げ、赤黒い筋肉の繊維が剥き出しになっていた。
皮膚の焼けるおぞましい悪臭と、脂肪が燃える白煙が彼の腕から立ち昇っているにもかかわらず、清は決してその腕を離そうとはしなかった。
あまりの重量と激痛に顔面の血管は破裂せんばかりに怒張し、双眸は極限まで血走り、眼球からは血の涙がとめどなく流れ落ちている。
言葉を持たない彼は、どれほどの激痛に見舞われようとも、助けを求めることも、己の苦痛を訴える悲鳴を上げることもできなかった。ただ、喉の奥から声帯を削り取るような呼気を漏らしながら、ひたすらに己の命の炎を燃やし尽くして、母を押し潰す重量に抗い続けていたのである。
なぜ。
焼け焦げる喉の奥で、桜子は無音の絶叫を上げた。
清にとって、母・文子は自分を愛するどころか、その人間としての尊厳を幾度となく踏み躙ってきた張本人である。この混乱に乗じてそのまま背を向ければ、彼は己を縛り付けていた最大の呪縛から永遠に解放されたはずなのだ。母を見殺しにすることなど、彼がこれまで受けてきた仕打ちを思えば、誰一人として責めることのできない選択であった。
だが、清は逃げなかった。
彼は、自らを『いないもの』として扱ってきた母を救うためだけに、一切の躊躇なく、自らの皮膚が焼け落ちる地獄の苦痛の中に飛び込んだのである。
『打算でも、道徳でもない。初葉の血脈の中でただ一人、言葉という虚構を持たず、純文学の呪いに染まることのなかった彼だからこそ到達し得た、無慈悲なまでの『無償の愛』の可視化であった』
どれほど虐げられようとも、彼にとって文子は世界でただ一人の母親であったのだ。言葉で愛を伝えることができない透明な息子は、己の命と肉体を燃やし尽くすという究極の物理的行動によってのみ、その血を吐くような愛を証明しようとしていたのである。
清の喉の奥から、破裂した血管から逆流した血液と共に、獣のような切迫した濁音が漏れた。
焼け爛れた腕の筋肉が限界を超えた異常な膨張を起こし、数千貫の重量を持つ紫檀の書棚が、分厘の単位で、しかし確実に下から持ち上げられていく。肉体を構成する細胞を破壊し尽くすことで生み出された、狂気的なまでの火事場の力であった。
桜子の目から、熱波によって乾ききっていたはずの涙が、堰を切ったようにとめどなく溢れ出した。
これこそが、人間の真実の姿なのだ。純文学という言葉の遊戯がどれほど人間の美しさを語ろうとも、言葉を持たない一人の青年が、皮膚を焦がしながら見せるこの息の詰まるような無償の愛の重さの前には、一切の活字など無に等しい。
桜子は、這いつくばっていた床から、両足に力の限りの力を込めて立ち上がった。
燃え盛る着物の袖も、喉を焼く黒煙も、もはや彼女の歩みを止める障害にはなり得なかった。彼女は、血を吐きながら己の命を燃やし尽くしている兄の傍らへと、一切の躊躇なく、その身を真っ直ぐに躍り込ませたのである。




