第六章(3)
大地の痙攣が緩やかに収束へと向かった直後、帝都はかつて人類が経験したことのない、第二の、そして真の地獄へと突き落とされた。
正午という時刻は、帝都に住む何百万という人々が、昼餉の支度のために一斉に竈や七輪に火を熾していた時間帯であった。倒壊した無数の木造家屋の下敷きとなったそれらの火種は、乾燥しきった建材へと瞬く間に燃え移り、無数の赤い舌となって瓦礫の山を舐め回し始めた。
折悪く、東京湾の方角から吹き込んでいた強い南風が、各所で発生した火災を煽り立てる。点在していた火の手は瞬く間に合流し、巨大な炎の壁となって帝都の街区を次々と呑み込んでいった。
やがて、局地的な猛烈な上昇気流が、周囲の空気を暴力的に吸い上げ始める。炎と黒煙が竜巻のように渦を巻きながら天へと昇っていく、致死的な『火災旋風』の発生であった。酸素を根こそぎ奪い尽くすその焦熱の暴風は、逃げ惑う群衆を容赦なく巻き上げ、人間をただの黒焦げの炭の塊へと変え果てさせながら、煉瓦造りの西洋建築群すらも内部から溶解し尽くしていった。
その、視界のすべてが紅蓮の猛火に染め上げられた地獄の帝都において。
己の命を長らえさせるために他者を突き飛ばし、我先にと安全な場所へ逃げ出そうとする生存本能の濁流に逆行し、猛火の中心へと自ら飛び込んでいく狂気的な者たちの姿があった。
大通りに面した、すでに一階部分が余すところなく潰れ、二階の窓から激しい炎と黒煙を噴き出している商家。
その炎上する建物の前に、一人の男が立ち尽くしていた。かつて書生として学問を修めながらも、己の卑小な保身から愛する女性との逃避行を放棄し、彼女の手を汚泥の中に振り解いて逃げ出した過去を持つ男、能村現であった。
彼特有の鋭く落ち窪んだ眼窩の奥には、かつての卑怯な逃亡者の虚無は存在しない。その痩せこけた頬を火の粉が焦がす中、能村の双眸は、崩落寸前の二階の窓格子の奥で煙に巻かれている若い母親と子供の姿を、狂気的なまでの熱を帯びた執念で凝視していた。
周囲の群衆は己の命惜しさにその悲鳴を見捨てて通り過ぎていく。かつての能村であれば、己の無力さを正当化する言い訳を脳内で並べ立てながら、怯えきった顔で背を向けていたはずであった。だが今の彼は、初葉桜子の紡いだ純文学によって、泥に塗れながらも愛する者の手を強く握りしめて生き抜くことの揺るぎない美しさと、己の犯した罪の醜さをことごとく思い知らされていた。
能村は一切の躊躇を捨て、燃え盛る商家の残骸へとその身を躍り込ませた。
吸い込んだ熱気が肺の粘膜を焼き焦がし、身を切るような痛覚が脳髄を貫く。だが、炎に包まれた階段を這い上がる彼の筋張った細い腕には、人間としての限界を超えた恐ろしいほどの力感が宿っていた。崩れ落ちた梁を素手で強引に押し退け、皮膚が焼け爛れるのも構わずに二階へと到達する。
黒煙の中でむせび泣く母親の前に辿り着いた能村は、一切の言葉を発することなく、彼女の煤だらけの細い手を、自らの火傷に覆われた手で骨が軋むほど激しく握りしめた。
それは、見ず知らずの他人の手ではない。かつて己が卑怯にも手放してしまった、愛する者の手の温もりそのものであった。
能村は半狂乱になって怯える母親と子供を己の胸に抱きかかえると、崩落して炎の海と化した一階の瓦礫の斜面を、自らの肉体を盾にするようにして一気に滑り降りた。
彼らが建物の外へと転がり出た直後、商家は圧倒的な轟音と共に跡形もなく崩れ落ちた。全身に重度の火傷を負い、灰と土汚れに塗れながらも、能村の腕の中には、確かに救い出された二つの命が激しい鼓動を打っている。火傷でただれた顔を歪め、声にならぬ息の詰まるような感涙を漏らす能村の表情には、深い後悔の念をようやく乗り越え、人間としての誇りを取り戻した男の、不器用で悲惨な、しかしこの世の何よりも美しい笑みが刻まれていた。
一方、火災旋風が迫る大広場へ通じる幹線道路では、逃げ惑う数千人の群衆が恐慌を来し、出口のない狭い路地へと殺到して自ら死地へと向かおうとする致命的な混乱が生じていた。
その狂乱の渦の中心で、血を流しながら群衆の指揮を執っている若き男がいた。設計士、滝沢鉄朗である。
かつて父親に対する幼い復讐心から足場に細工を行い、父の足を奪いながらも「罰が当たった」と許されたことで、永遠の悔恨に囚われていた男。
血と泥に汚れながらも、滝沢の精悍な顔立ちには一切の翳りも迷いもなかった。その真っ直ぐで嘘のない双眸は、燃え盛る周囲の建築物の延焼経路や構造的限界を、職人の眼力で見事に見切っていた。
彼は自らの喉の毛細血管が引き裂かれるほどの声量で、盲目的に逃げ惑う人々の波を強引に押し留め、倒壊の危険がない的確な避難路へと誘導し続けていた。
滝沢の決死の誘導によって、多くの命が炎の迷路から逃れようとしていたその時であった。
激しい余震が大路を揺らし、滝沢のすぐ傍で半壊状態となっていた巨大な石造りの銀行建築が、ついに構造的限界を超えた。耳を裂くような破砕音と共に、数千貫という重量を持つ正面玄関の石柱と壁面が崩壊し、逃げ遅れてその下を走っていた数十人の群衆の頭上へと、圧倒的な質量をもって崩れ落ちてきたのである。
かつて己の手で構造を崩し、父を転落させた若き設計士は、この瞬間、一切の思考を挟むことなく、自らの肉体をその崩落の軌道へと投げ出していた。
彼は逃げ遅れた群衆の背中を両手で力任せに突き飛ばし、彼らを強固な石積みの死角となる安全地帯へと叩き込んだ。そして、突き飛ばした反動によって彼自身の巨体が崩落の中心へと残り、頭上から落下してくる無慈悲な大質量の直撃をその身に受けたのである。
人間の骨格が耐え得る限界を遥かに超えた重圧が、滝沢の肉体を容赦なく押し潰す。
無惨な音を立てて肋骨や脊髄が微塵に砕け、口から大量の鮮血が噴き出す。父の命を奪いかけたあの日の罪の重さに比べれば、この程度の石の重さなど、何ほどのことがあろうか。
己を許して死んでいった父が残してくれたこの命は、今日、この瞬間に他者を守るための柱となるために存在していたのだ。
滝沢の限界を超えていた肉体は瓦礫の下へとすっかり呑み込まれたが、重い石塊の隙間から覗く若き設計士の顔面には、苦痛も後悔も存在しなかった。己の命を使い切り、ついに父の許しに応えることができたという、まるで使命をやり遂げた少年のような無垢な微笑みだけが、そこに美しく定着していたのである。
そして、炎に包まれた帝都の地獄絵図のあちこちを、泥に塗れた自らの二本足だけで、疾風のように駆け抜けていく小柄な若者の姿があった。
大日本帝国郵便の配達夫、外村洋一であった。
彼の相棒であった重厚な郵便自転車はすでに瓦礫の下敷きとなってひしゃげ、自ら引き千切った小倉織の夏制服は、泥と血に塗れて原形を留めていない。だが、土汚れにまみれた顔の奥で、まだあどけなさの残る実直な瞳だけが、絶望の淵にあっても決して濁ることのない強い光を放っていた。
かつて己の卑怯な保身から、血の滲む絶望の叫びを見殺しにした罪を背負う彼にとって、通信網や交通網の崩壊など、歩みを止める理由にはならなかった。
炎に焼かれ、瓦礫の下敷きになりながら死にゆく人々が、最後に振り絞るようにして託す、家族への悲痛な言伝。
洋一は、その泥に汚れた顔を彼らに向け、若く透明な声で短く応えた。紙も鉛筆も持たない彼らの口から紡ぎ出されるその『生きた手紙』の数々を、血の滲むような集中力で一つ残らず己の脳髄の奥底へと刻み込んでいく。
洋一は、肺の中が焦げるほどの熱気を吸い込み、足の裏が焼け爛れて血まみれになりながらも、その小柄で頑強な両足を決して止めることはなかった。物理的な郵便網が徹底して死滅した帝都において、彼は自らの命を燃やすことで、人々の魂の叫びを繋ぐ『生きた伝言板』そのものへと昇華していた。炎の壁を潜り抜け、崩落する橋を跳び越え、若き配達夫は預かった無数の命の声を、愛する家族の元へと次々に届けていく。己の過去の罪を雪ぎ、純文学によって真の誇りを取り戻した男の、それは孤高の境地であった。
そして、炎に焼かれる帝都において、己の命を投げ打って他者を救い出そうとしていたのは、彼ら三人だけではなかった。
燃え盛る木材の下敷きになった見ず知らずの老人を、己の着物に火が燃え移るのも構わずに助け出そうとしている名もなき女学生。
川に飛び込んで溺れかけている子供の群れを引き上げるために、自らの帯を何本も結び合わせて命綱を作り、濁流の中へ飛び込んでいく芸妓たち。
避難所へ通じる狭い路地の入り口で、恐慌を来した群衆の波を押し留めるため、互いの腕を組んで人間の鎖となり、押し潰されて骨を折られながらも決して道を開けようとしない日雇いの労働者たち。
極限の恐怖と死の淵にあって、本来であれば最も醜い自己中心的な本能が剥き出しになるはずの地獄の底で。彼らは皆、驚くほどの透明な強さをもって、見ず知らずの他者のためにその血に塗れた手を伸ばし合っていた。
初葉本家の奥深く、薄暗い客間の片隅で、たった一人で血を吐くような孤独と向き合いながら桜子が書き綴っていた漆黒の活字たち。
それは単なる暇潰しの空想でも、紙屑籠に捨てられる安い感傷でもなかった。彼女の紡いだ物語は、帝都の地下水脈のように数万人の読者の心臓へと深く浸透し、未曾有の大震災という抗いようのない暴力が襲い掛かったこの瞬間、彼らの魂の奥底で凍りついていた人間としての尊厳を、炎となって現出させたのである。
燃え盛る帝都の空の下、煤と泥に塗れた無数の手と手が結びつき、命を繋いでいく。
それは、桜子の流した墨の血脈が、大正の民の血肉と化して大通りのあちこちで躍動している光景そのものであった。彼女の孤独な祈りは、大自然の無慈悲な破壊の前にあっても決して千切れることのない、強靭で美しい『光の網』となって、崩壊する帝都の闇を鮮やかに照らし出していたのである。




