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『幻燈花』  作者: 長月有希


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第六章(2)

 重力という世界の揺るぎない法則が、その一瞬にしてことごとく狂い果てた。


 宮崎(みやざき)(いと)の細い身体を捕らえようと、泥濘(ぬかるみ)に足を踏み出していた猟犬たちの屈強な肉体が、まるで不可視の巨大な掌で下から激しく撥ね飛ばされたかのように、不自然な軌道を描いて宙に浮き上がった。

 彼らが頼みとしていた暴力も、他者を威圧するための権力の威光も、大自然の怒り狂う痙攣(けいれん)の前では羽虫ほどの意味すら持たなかった。足を踏み張ることすら許されず、男たちは無防備な顔面から濁水の中へと叩きつけられ、己の四肢(しし)を無秩序にばたつかせながら泥土を転げ回った。


 糸の視界の中で、貧民街の路地が、沸騰する汚泥(おでい)のように激しく上下に波打ち始める。

 固いはずの地面が液状に変化し、長年このスラム街の土台を支えていた軟弱な地層が、ねじれ、裂け、無残に引き千切られていく。左右に建ち並んでいた粗末な長屋は、最初の直下型の衝撃だけで木組の骨格を悲鳴のように軋ませ、瞬く間に砂上の楼閣(ろうかく)のように崩れ落ちていった。

 老朽化した柱がへし折れる耳を裂くような破砕音(はさいおん)が、居住者たちの絶叫ごと、大量の土砂と瓦礫(がれき)の下へとすっかり呑み込んでいく。


 宙に浮いた男の一人は、波打つ地面へと叩きつけられた直後、獣じみた悲鳴を上げる間すら与えられなかった。

 左右から倒壊してきた長屋の太い大黒柱(だいこくばしら)と大量の瓦礫が、彼の肉体を容赦なく挟み込む。身の毛のよだつ鈍い音が響き、彼の胸郭(きょうかく)は一瞬にして紙屑のように平らに潰され、口から大量の血飛沫(ちしぶき)を噴き上げて即死した。


 さらに絶望的な崩壊が、路地の入り口で起きた。

 糸たちの逃げ道を塞いでいた、鷺宮の権力の象徴とも言える重厚な黒塗りの自動車。その真下の地面が、ぽっかりと暗黒の口を開けたのである。

 幅数(けん)、深さの底すら見えない亀裂が、貧民街の泥濘を一直線に引き裂きながら走り抜ける。数千(かん)の鉄の塊である黒塗りの自動車は、車輪を虚しく空転させながら底知れぬ大地の裂け目へと傾き、すさまじい金属の軋む音を立てて、暗黒の奈落(ならく)の底へと跡形もなく呑み込まれて姿を消した。


 逃げ遅れたもう一人の追手の男が、滑り落ちていく自動車と、裂け目の泥壁との間に下半身を完膚なきまでに挟み込まれていた。

 人間の肉がすり潰され、大腿骨(だいたいこつ)がへし折れる絶望的な湿った音が、地鳴りの轟音の底から響き渡る。男は顔面を苦痛に歪め、自らの指の爪が剥がれるのも構わずに泥濘を掻き毟りながら、神とも悪魔ともつかない存在に向かって口を大きく開けた。しかし、その狂乱した命乞いの絶叫は、声となる前に血の泡となって噴き出しただけであった。容赦のない大地の揺れはさらに自動車を深く呑み込み、男の胴体は内臓を絞り出されるようにして、暗黒の地割れの奥底へと引き摺り込まれていった。


 残された男たちも、落下してきた屋根瓦に頭蓋(とうがい)を割られて泥水の中に意識を失って沈むか、折れた木材が腹部を貫通し、血の海の中で痙攣を繰り返すだけの惨めな肉塊(にくくれ)へと変え果てていた。

 揺るぎない権力の側に立ち、他者を蹂躙(じゅうりん)し続ける強者であると信じて疑わなかった彼らの命は、人智を超えた抗いようのない自然の暴力の前にことごとく砕け散り、ただ死の恐怖に怯えて泥水を啜るだけの存在へと成り下がっていたのである。


 果てしなく続くかと思われた本震の揺れが、やがて緩やかに収束していく。

 崩落した何十棟もの長屋から舞い上がった膨大な土煙と粉塵(ふんじん)が太陽の光を容赦なく遮り、貧民街の空を黄褐色の不気味な薄闇へと変え果てていた。


 糸は、激しく波打つ泥水の上で、恐慌(きょうこう)を来たして声帯を痙攣させる二人の幼い弟たちと両親の上に自らの細い身体を覆い被せるようにして、必死にその揺れに耐え抜いていた。

 奇跡的に、彼女たちの伏せていたわずかな空間だけは地割れを免れ、致命的な瓦礫の直撃も避けることができていた。耳を(つんざ)くような轟音が遠ざかり、周囲に土砂の下からの呻き声と、弟たちの声にならぬ嗚咽(おえつ)だけが響く中、糸はゆっくりと顔を上げた。


 彼女の視線の先には、無残に肉体を破壊され絶命した猟犬たちの死骸と、致命傷を負って血の海でのたうち回る男たちの姿があった。

 糸は、泥に塗れた自らの手の中で、いまだに骨が軋むほどの力で握りしめられていた錆びた小刀を見つめた。

 恐怖に震えながらも、家族を守るために他者の肉体を切り裂き、自らの手を血に染めることで自由を勝ち取ろうとした悲痛な決意。しかし、その細い手を下すまでもなく、自然という超越的な大いなる暴力が、彼女の前に立ち塞がっていた脅威をすべて粉砕してしまったのだ。


 ふと、糸は泥水から身を起こし、土煙の向こう側、帝都の中心部に位置する高台の方角を見つめた。

 そこには、かつて彼女の魂を幽閉(ゆうへい)し、尊厳を奪い尽くした、強大な権力者・鷺宮のそびえ立つ洋館が存在していたはずの場所である。分厚い煉瓦の塀と鉄格子の門扉によって、外界の俗悪な世界から徹底して隔絶されていた、あの専制的な支配の象徴。

 しかし今、糸の大きく見開かれた瞳に映ったのは、威容を誇っていたその洋館の姿ではなかった。

 高台の斜面一帯の地盤が余すところなく崩落し、空を覆い尽くさんばかりの途轍もない巨大な黒い土煙の柱が、天に向かってもうもうと立ち昇っていたのである。


 直下型の激しい揺れによって、高台そのものが形を失い、跡形もなく崩れ去ったのだ。

 分厚い天鵞絨(びろうど)の引き戸も、香油(こうゆ)の匂いが染み付いた豪華な寝台も、そして何より、昨夜、糸によって致死量一歩手前の催眠剤(さいみんざい)を飲まされ、深い昏睡(こんすい)状態のまま身動き一つとれずに眠っていたであろう鷺宮國彦の巨体も。

 すべてが、何万(かん)という莫大な重量の瓦礫の下敷きとなり、地の底深くへと圧殺(あっさつ)され、歴史から物理的に消滅したのである。


 初葉桜子が活字に忍ばせた暗号と、外村洋一が命懸けで届けた催眠剤。その二つがなければ、鷺宮は地震の初期微動で目を覚まし、屋敷の崩壊から辛うじて逃れ落ちていたかもしれない。あの二人の命を賭した代行が、強大な権力者を昏睡の底に縛り付け、大地の怒りによる無慈悲な埋葬を成立させたのだ。

 莫大な借金が記された証書も、彼女の家族を追い詰めた金貸しの強欲な帳簿も、彼女を意思を持たない人形として扱い続けた権力者の傲慢な肉体も、ただの血肉と塵芥(ちりあくた)となって大地の底に永遠に消え去った。

 糸を何年間も縛り付けていた、あの強固で冷酷な『鳥籠』は、彼女が自らの手をこれ以上血に染めることなく、呆気なく、そして完膚なきまでに破壊されたのだ。


 その圧倒的な因果の帰結を理解した瞬間。

 糸の右手から、力無くその錆びた小刀が滑り落ちた。金属が泥の中に落ちる鈍い音が響く。彼女にはもう、己の心を殺して狂気を纏う必要も、凶器を握る必要もなかった。


 母親が這うようにして泥水の中に飛び出し、声にならぬ嗚咽とともに娘の細い身体を骨が折れるほどの力で抱きしめた。

 糸は、恐怖に顔を歪めて泣きじゃくる弟たちの小さな背中を、泥と血に汚れた自らの両手で、ただ無言のままに強く、強く抱きしめ返した。その胸の奥底から、これまで彼女の精神を重く押し潰してきた目に見えない鎖が、音を立てて千切れ落ちていく。


 誰かによって与えられた恩赦(おんしゃ)でもなく、他者の命を奪った罪悪感に(さいな)まれることもない、人智を超えた自然の力による完全なる『解放』。


 糸の目から、恐怖ではなく、魂の底からの安堵(あんど)と歓喜の涙がとめどなく溢れ出した。

 弟たちの頭を撫でるその手の平は、かつて鷺宮の屋敷で保たれていたような、白く滑らかな無機質なものではない。泥がこびりつき、擦りむけた傷口から血が滲み、荒れ果てている。しかし、その手から伝わる確かな体温と、弟たちを包み込む深い慈愛(じあい)の脈動は、彼女が「愛する者を守る一人の人間」としての魂を取り戻したことの、何よりの証明であった。


 周囲の瓦礫の中から、赤い火の手が上がり始めていた。

 倒壊した家屋からこぼれ落ちた炭火や七輪(しちりん)が、乾燥した木材に燃え移り、強烈な南風に煽られ、不気味な勢いで火災を広げつつある。このままここに留まれば、やがて貧民街全体が炎の海に呑み込まれることは明白であった。


 言葉は、もはや必要なかった。

 糸は乱れた顔を拭うと、震えが止まらない両親の腕を自らの手でしっかりと掴み、力強く引き上げた。

 彼女は、燃え広がり始めた火の手を背に、瓦礫の山となった帝都の大通りへ向けて、真っ直ぐに視線を向けた。

 その漆黒の瞳には、かつての絶望も、人形としての虚無(きょむ)も残されていない。ただ、泥に塗れてでも、飢えに苦しんででも、愛する家族と共にこの過酷な世界を歩み抜くという、透明で力強い生命の輝きだけが満ち溢れていた。


 傷のない白磁の人形から、生きた血の通う人間へと変貌(へんぼう)を遂げた宮崎糸は、弟たちと両親の手を強く握りしめたまま、崩壊した街の瓦礫を自らの足で蹴り、炎の広がる帝都の暗闇の中へと、一切の躊躇なく確かな一歩を踏み出していった。

 人間の発する言葉などすべて呑み込む大災害の静寂のなかで、一人の少女が己の魂を奪い返した、凄絶(せいぜつ)で美しい蘇生(そせい)の瞬間であった。

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