第六章(1)
大正十二年、九月朔日。
八月の茹だるような酷暑が終わりを告げたはずの帝都の空は、朝から異常なまでの重苦しさに支配されていた。
強い南風が吹き荒れ、街路樹の葉が狂ったように煽られている。普段であれば晩夏の空を喧しく切り裂くはずの油蝉すら、今日に限ってはピタリと鳴きを潜め、まるで抗えぬ何かの到来に怯え切っているかのようであった。
頭上を覆うのは、どこまでも低く垂れ込めた鉛色の雲の層である。太陽の姿は厚い濁りの奥に閉ざされているにもかかわらず、大気には人間の肺腑にねっとりと絡みつくような、耐え難い高湿度の熱気が澱みきっていた。まるで、帝都という巨大な空間そのものが、何かの爆発を待って極限まで膨張しているかのような、不気味なほどの死の気配であった。
初葉本家の現当主である清太郎と、次期当主である桜子の二人は、その息の詰まるような大気の中を並んで歩いていた。
帝都の中心部、瀟洒な西洋建築が軒を連ねる、銀座から京橋へと至る煉瓦の街並み。先ほどまで『東京大衆日報』の豪奢な応接室において、編集長を交えた次期連載の打ち合わせを終えてきた帰路であった。
「桜子。今朝の『幻燈花』の原稿だが、よく書けていた」
麻で仕立てられた上質な夏用の三つ揃いの背広に身を包み、手にしたステッキの先で舗装された石畳を静かに叩きながら、清太郎は隣を歩く娘に向かって短く言葉を落とした。
純文学という名の権威の頂点に君臨する家長としての冷徹な顔はそこにはなく、一人の才能あふれる書き手の成長を認める、静かな誇りが横顔に滲んでいた。
「お前はもはや、他人の痛みを安全な場所から写し取るだけの器ではない。初葉の血脈において、未だ誰も至れなかった場所に立とうとしているのだな」
その言葉の真意を深く説明することはなかった。桜子もまた、白磁のように透き通った横顔をわずかに伏せ、ただ一言「はい」とだけ応えた。
初葉の血という因果に縛り付けられ、幼い頃から膨大な文学の蔵書の奥底に幽閉されてきた彼女にとって、父のその短い肯定は、何よりも胸の奥底を重く、温かく満たすものであった。
清太郎は懐から銀側の懐中時計を取り出し、精緻な文字盤へ視線を落とした。
時計の針は、正午のわずか数分前を指し示している。
「本家へ戻る前に、昼餉にしよう。この先の煉瓦通りに、お前の好きな卵巻飯を出す洋食店ができたらしい」
清太郎が歩みをわずかに緩め、目尻に深い皺を寄せて提案した。
格式と重圧に満ちた屋敷の中では、常に当主と次期当主という関係性が強制される。しかし、こうして外界の雑踏を歩いている時だけは、彼らはただの父と娘でいることができた。
桜子は顔を上げ、漆黒の瞳に光を宿して頷こうとした。
午前十一時五十八分。
その瞬間であった。
帝都の地下深く、人間が到底到達することのできない暗黒の深淵から、突如として大気の底が跡形もなく抜け落ちたかのような、名状しがたい異音が這い上がってきた。
それは、空から降ってきた音ではない。鼓膜を震わせる空波などではなく、地球という巨大な質量そのものが凄まじい苦悶に身を捩り、自らの内臓を吐き出そうとしているかのような、途轍もない重低音の咆哮であった。
桜子が怪訝な顔で足元の石畳を見下ろした直後。
人間の矮小な尺度を一瞬にして無に帰す、無慈悲な大地のうねりが、帝都を下から激しく突き上げた。
世界が、崩壊した。
重力という揺るぎない法則が狂ったかのように、二人の立っていた頑丈な舗装路が海面のように数尺の高さまで波打ち、地割れを伴って粉々に砕け散った。
周囲を行き交っていた通行人たちの絶叫は、大地の底から噴き上げる圧倒的な地鳴りによってことごとく掻き消される。大正の近代化を象徴し、永遠の堅牢さを誇るかのようにそびえ立っていた西洋風の煉瓦建築群が、目に見えぬ巨大な鉄鎚で叩き割られたかのように、根本から無残に折れ曲がっていく。
視界のすべてが、狂乱の泥濘に呑み込まれた。
建物の壁面を覆っていた大量の煉瓦や花崗岩が、恐ろしい密度と質量をもって逃げ惑う群衆の頭上へと降り注ぐ。地割れからは泥水が噴き出し、軌道を外れた市電が横転しながら火花を散らす。
人間が何十年もかけて築き上げた文明という名の薄皮が、大自然のほんの数秒の身震いによってただの巨大な殺戮の機構へと変貌し、自らを生み出した人間たちの脆弱な肉体を容赦なく押し潰し、無慈悲に蹂躙していった。
「お父様」
桜子は激しく波打つ地面に足を取られ、体勢を崩して石畳の上に倒れ込んだ。
鼓膜を破らんばかりの崩落音と、漆喰が削れる粉塵が瞬く間に周囲を覆い尽くし、白昼の帝都に暗黒の世界を現出させる。
彼女は、呼吸すら困難な土煙の中で、自らに手を伸ばそうとしている父の姿を視覚の端に捉えた。
その直後である。
桜子の頭上にそびえ立っていた三階建ての銀行建築の壁面が、地鳴りの衝撃によって余すところなく剥離し、無数の煉瓦と鋼鉄の残骸となって崩れ落ちてきたのである。
回避することは、物理的に不可能であった。
桜子は、迫り来る死の質量を前に、ただ目を見開くことしかできなかった。
しかし、その塊が彼女の肉体を圧殺する、瞬きすら許されぬ刹那。
清太郎の肉体が、人間としての限界を超えた跳躍をもって桜子を強く抱き寄せ、崩れ落ちてきた強固な石柱の死角へと彼女の身体を庇い込んだ。
そこにいたのは、純文学の血脈を継ぐ当主ではなく、ただ己の命に代えてでも娘の未来を守り抜くという、父親としての本能だけで動く一人の男であった。
清太郎は両腕で桜子の細い身体を抱き込み、己の広い背中を、頭上から落下してくる瓦礫の群れへと一切の躊躇なく晒した。
『――悲惨なる、肉と骨が破砕される鈍い音が響いた』
桜子を覆い隠すように屈み込んだ清太郎の背中に、壁面から引きちぎられた鋭利で太い鉄骨が、無慈悲な速度で深々と突き刺さったのである。
柔らかな人間の肉体など、冷酷な鋼鉄の切っ先の前では紙細工に等しい。凄まじい衝撃力によって、鉄骨は清太郎の背中から肺葉を串刺しにし、その鋭い先端を胸骨の裏側にまで到達させていた。
清太郎の喉の奥から、言葉にならない鈍い空気が漏れた。しかし彼は、その絶望的な痛みの中にあっても、腕のなかに抱え込んだ桜子の身体だけは絶対に押し潰さぬよう、強靭な空間を確保し続けていた。
果てしなく続くかと思われた本震の揺れが、やがて緩やかに収束していく。
帝都を覆い尽くした大量の粉塵が静かに地表へと降り積もり始め、周囲は黄褐色の濃い霧の底に沈んだような薄暗さに包まれた。
倒壊した石柱の死角に形成されたわずかな空洞の中で、桜子はゆっくりと目を覚ました。
肺に流れ込んでくるのは、土埃の乾いた匂いと、生暖かく噎せ返るような血の鉄錆の匂い。
彼女の肉体には奇跡的に一つの傷も存在しなかった。すべての致命的な衝撃を、彼女を抱きしめる清太郎の身体が受け止めていたからである。
「お父、様」
桜子は、自らを庇うようにして硬直している父の腕の内で、震える声を紡ぎ出した。
清太郎は娘の顔を見下ろすと、普段と何一つ変わらない、深く穏やかな微笑みを浮かべた。
彼の口腔内には、破裂した肺から逆流してきた大量の鮮血が溢れ返っていた。
清太郎は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、娘の美しい顔に血を一滴たりとも落とさぬよう、その熱く生臭い塊を、強靭な意志をもって己の喉の奥へと無理矢理に呑み下した。
父の背中に致命的な鉄骨が深々と突き刺さり、どす黒い血液が背広を濡らして大地へと吸い込まれていることなど、腕の中に抱き込まれている桜子の位置からはすっかり死角となり、知る由もなかった。
顔面から一瞬にして血の気が失せ、額から大量の脂汗が噴き出しているにもかかわらず、彼の表情の筋肉は、娘を安心させるための完璧な『父親としての顔』を強固に構築していた。
「怪我は、ないか」
清太郎の声は、肺に刺さった鉄の影響でひどく掠れてはいたが、驚くほど静かで温かな響きを保っていた。
桜子は、父を包み込む周囲の瓦礫の惨状に気づき、自らの細い両手で土砂を押し退けようとした。
「今、人をお呼びします。どうか、そのままで」
彼女の白く美しい手が、泥に汚れながらも必死に動く。しかし、清太郎は自らの血で汚れゆく娘の手を優しく制した。
「よい。無理をするな」
彼は、己の命がもはや数分の猶予も残されていないことを理解した上で、愛する娘をこの崩壊する地獄から逃がすための、美しくも身を切るような嘘を口にした。
「案ずることはない。崩れた煉瓦で、少し足を打っただけだ。だが、この瓦礫では折れた足で歩くことはできん」
それは、純文学の大家として生涯をかけて人間の真理を言葉で練り上げてきた男が、最後に紡ぎ出した最高傑作の虚構であった。
腑を貫かれる地獄の苦痛に意識が泥のように濁りながらも、彼は微塵も表情を歪めることなく、完璧な演技をもって娘に微笑みかけた。
「私は後から、人を呼んで瓦礫を退けてもらう。お前は先に本家へ戻れ。屋敷の安否が知れん。次期当主として、皆をまとめよ」
「お父様を置いてなど、行けません」
「聞きなさい、桜子」
清太郎の低い声が、娘の言葉を静かに遮った。
その声の奥底に秘められた、娘を何がなんでも生き延びさせようとする切実な願いの強さに、桜子の身体が微かに震えた。
「これは当主としての命令だ。お前は生きねばならん。初葉の血がようやく見つけた光を、こんな土くれの中で絶やすな。行け。振り返るな」
桜子の漆黒の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
彼女の異常なまでの感受性は、父が完璧に隠し通そうとしている死の気配に、すでに気がついていたのかもしれない。だが、ここで自分が立ち止まり、父の嘘を暴くような真似をすれば、父の最期の願いを無残に踏みにじることになる。
桜子は、土埃に汚れた手で顔を覆い、噴き出そうとする慟哭を必死に噛み殺した。そして、瓦礫の影で微笑む父に向かって、最も深く、美しい一礼を捧げた。
「必ず、お迎えに参ります」
桜子は身を翻し、崩壊した帝都の瓦礫の山を乗り越えて、本家の方角へと走り出した。
清太郎は、身じろぎ一つできない状態のまま、娘の背中が黒煙と土煙の向こう側へと跡形もなく溶け込んで見えなくなるまで、一度も瞬きをすることなく見守り続けた。
桜子の姿が見えなくなったその瞬間。
彼を強固に支え続けていた意志の壁が、音を立てて決壊した。
呑み込み続けていた大量の血液が、口の端から黒く泡立って溢れ出し、彼の顎を汚して地面へと滴り落ちた。
押し殺していた苦痛が脳髄を犯し始め、視界が急速に黒く染まり、体温が恐ろしい速度で地中へと奪われていく。
しかし、清太郎の心に後悔はなかった。
純文学という名の下に、他者の人生を安全な場所から傍観し、人間の業を冷酷に書き連ねてきた己の血脈。だが、最期の最後において、彼は活字の傍観者であることをやめ、自らの血肉という物理的な盾をもって、愛する娘の未来を確実に守り抜いたのだ。
遠くで、火災の発生を告げる半鐘の音が狂ったように鳴り響いている。
土煙が舞う崩落の街角で、鋭い鉄骨に貫かれた初葉清太郎は、口元に安らかな微笑みを浮かべたまま、静かにその呼吸を停止した。
帝都を覆い尽くす黒煙の空の下、純文学の孤高の支配者であった男は、誰に見取られることもなく、ただ一人の父親としての誇りだけを胸に抱きながら、永遠の沈黙の底へと還っていったのである。




