第五章(6)
深夜。
帝都の空を厚く覆っていた雨雲が、暗号の予言通りに再び重苦しい水滴を落とし始めた。
大粒の雨だれが権力者・鷺宮國彦の洋館の屋根を打つ音が響く中、宮崎糸は、豪奢な舶来家具に囲まれた鷺宮の寝室へと足を踏み入れた。
漆黒の洋装に真っ白な前掛けといういつもの衣服。しかし、今日この時の彼女の懐には、昼間に勝手口の鉄の箱から回収した、致死量一歩手前の強力な散薬が隠されている。
寝台の端に深々と腰を掛けた鷺宮は、上質な寝間着を羽織り、紫煙をくゆらせながら自らの『愛玩物』が衣服を脱ぐのを鷹揚に待っていた。
糸は無表情のまま、卓上に置かれた切子硝子の杯に琥珀色の強い洋酒を注いだ。そして、鷺宮が葉巻の灰を落とすためにわずかに視線を逸らした一瞬の死角を突き、懐から取り出した紙包みの白い粉末を杯の中へ素早く振り入れた。粉は強い酒精に溶け込み、一瞬にして姿を消す。
ここから先が、生死を分かつ極限の境界線であった。
もしこの杯をそのまま差し出せば、多疑な権力者は底に沈む微かな濁りや匂いの変化に気づくかもしれない。確実に、そして一切の疑念を持たせることなくこの猛毒を喉の奥へと流し込むためには、揺るぎない強者である鷺宮の『傲慢さ』という最大の死角を突くしかなかった。
糸は、杯を自らの口元へと運び、その強い洋酒を自らの口腔にたっぷりと含んだ。
酒精と薬品の入り混じった強烈な苦味が舌を焼き、胃の腑から凄絶な吐き気がせり上がってくるが、彼女はそれを鋼鉄の意志でねじ伏せた。そして、空になった杯を卓に戻し、無言のまま鷺宮の巨体へと近づいた。
鷺宮が怪訝な顔で眉をひそめたその瞬間。糸は自らの細い両腕を鷺宮の太い首に絡め、引き寄せるようにして、自らの薄い桜色の唇を彼の油ぎった唇に深く重ね合わせたのである。
鷺宮の身体が、一瞬だけ驚きに硬直した。
これまで夜な夜な嬲られ、ただ天井の木目を見つめてやり過ごすだけの冷たい陶器の人形であった女が、初めて自ら進んで悦びを提供しようと擦り寄ってきたのだ。その完璧な服従の姿勢は、鷺宮の肥大しきった自尊心をこの上なく満足させた。
『ついにこの人形も、俺なしではいられぬほど調教されたか』
そう錯覚した権力者の脳髄からは、警戒心などというものはすっかり消え失せていた。鷺宮は喉の奥で下劣な笑い声を漏らし、糸の腰を乱暴に抱き寄せると、彼女の口腔から流し込まれる強い酒を、自らの悦びの媚薬だと信じて疑わずに貪り飲んだ。
糸は、自らの唇から伝わる男の生温かい粘膜の感触に発狂しそうになる精神を必死に保ちながら、最後の一滴まで薬入りの酒を男の喉仏へと送り込んだ。
口を離し、糸は荒い息を吐きながら静かに一歩後ずさる。
鷺宮は上機嫌に唇を舐め、彼女を寝台へと引き摺り込もうと太い腕を伸ばした。だが、その腕が彼女の細い肩に届くことはなかった。強力な催眠剤が急速に血液を巡り、鷺宮の瞳孔が焦点を見失って激しく揺れ動く。
「貴様……なにを……」
自らが何に嵌められたのかを理解するよりも早く、鷺宮の巨体は糸が切れた操り人形のように寝台の敷布の上へと崩れ落ち、二度と目覚めぬほどの深い昏睡へと落ちていった。
糸は、乱れた衣服の襟を整えながら、鼾をかき始めた権力者の無様な姿を冷ややかな眼差しで見下ろした。彼女の瞳に、もはや怯える小鳥のような絶望はない。そこにあったのは、自らの知略と肉体を使って圧倒的強者を打ち倒した、美しくも冷酷な反逆者の光であった。
深夜の勝手口。豪雨が降りしきる泥濘の闇の中に、雨水を弾く雨外套を着て制服の破れを隠した外村洋一が、重厚な自転車を携えて立っていた。
洋館から飛び出してきた糸の姿を認めると、洋一は一切の言葉を発することなく、深く一度だけ頷いた。
糸は、洋館の敷地から、外界の泥濘へと一歩を踏み出した。白く保たれていた足袋が容赦なく汚泥に沈み込み、茶褐色に汚れていく。しかしその泥の感触と不快感こそが、彼女にとって何よりも待ち望んだ『自由』と『生命』の証明であった。
二人は、雨の打つ帝都の暗闇の中を走り出した。息は上がり、肺が焼けるように痛む。だが、糸の胸の奥底には、これまで感じたことのないほどの強烈な歓喜の炎が燃え盛っていた。
夜の帝都を駆け抜け、二人が辿り着いたのは、華やかな中心部から遠く離れた、大川沿いの貧民街の一角であった。
悪臭を放つ濁水が流れる側溝の脇に、傾きかけた粗末な長屋が身を寄せ合うようにして建ち並んでいる。初葉桜子の手配、あるいは洋一の個人的な伝手によって、糸の家族は一時的にこの場所に身を隠していた。
洋一が古びた引き戸を叩き、戸が内側から恐る恐る引き開けられる。そこから顔を覗かせたのは、過酷な労働によって実年齢以上に老け込んだ、糸の母親であった。
「……糸」
母親が雨の中に飛び出し、娘の細い身体を骨が折れるほどの力で抱きしめた瞬間、糸の中で何年間も堅牢な氷の下に封印され続けてきた『人間としての感情』が、ついに容赦なく決壊を迎えた。
彼女は、これまで決して流すことの許されなかった熱い涙を、声を上げて、赤子のように慟哭しながら流した。香油で白く傷一つなかった彼女の掌は、泥濘を走った際に鋭い石で擦りむかれ、泥に塗れて赤黒い血を滲ませている。だが、糸はその傷つき汚れた手で、凍傷と労働でひび割れた家族の手を、決して二度と離さないとばかりに強く握り返した。傷つき、血を流し、土汚れに塗れることこそが、生きた人間の特権であり、彼女が取り戻した人生そのものであった。
長屋の薄暗い軒先で、雨宿りをしながらその光景を静かに見守っていた洋一に、糸は涙と泥で汚れた顔のまま近づき、深く頭を下げた。
「外村さん。あなたの命がけの配達がなければ、私はあの鳥籠の中で死んでいました。本当に……ありがとうございました」
糸の言葉を受けた洋一の顔には、かつての卑屈な作り笑いや、絶望的な虚無の影は微塵も存在していなかった。自らの命を懸けて一人の少女の魂を確実に届けたことで、己の過去の罪を精算し、配達夫としての真の救済を得た男の、清々しく誇り高い顔がそこにあった。
「私こそ、あなたに救われたのです。どうか……生き抜いてください」
洋一は深く一礼を返すと、再び重い自転車の把手を握りしめ、雨の降りしきる闇の中へと力強い踏み出しを見せて消えていった。
しかし、屋敷から脱出できたとはいえ、糸たちの置かれた状況が絶望的であることに変わりはない。
当面の交通手段もなく、帝都から遠く離れた地へ逃げ延びるための資金もない。鷺宮に飲ませた催眠剤の効果は、長くて半日。朝になれば使用人たちが主人の異変に気づき、激怒した権力者の放つ猟犬たちが、真っ先にこの貧民街へと殺到することは火を見るより明らかであった。
いつ見つかり、家族ごと無残に殺されるかという恐怖は、真っ黒な雨雲のように彼女たちの頭上を重く覆い続けている。糸たちはわずかな荷物をまとめ、帝都からの脱出を急がなければならなかった。
そして、九月一日の朝が明けた。
昨夜までの激しい雨が嘘のように上がり、晩夏の帝都は、異常なほどの蒸し暑さと、強い南風の吹き荒れる異様な朝を迎えていた。
空は鉛色に濁り、鳥一匹として空を飛んでいない。まるで、世界そのものが何かの到来に怯えきっているかのような、得体の知れない圧迫感を持った午前であった。
午前十一時五十八分。
荷物を背負い、貧民街の狭い路地から表通りへと出ようとした糸たちの前に、一台の黒塗りの自動車が音もなく滑り込んできた。
車から降り立ったのは、鷺宮の紋章が入った背広を着た、体格のいい数人の男たちであった。主人の眠りを覚まされ、狂乱した鷺宮の命令によって放たれた追手たちが、ついに彼女たちを狩り立てにやってきたのだ。
恐怖に震え上がる両親と幼い弟たちを背にかばい、糸は一歩前へ出た。その手には、自らの命を絶つため、あるいは最後の抵抗をするために握りしめられた、錆びた小刀が握られている。もう二度と、あの鳥籠には戻らない。ここで死ぬことになろうとも、生きた人間として戦い抜く。糸の漆黒の瞳には、一切の逃げ場のない死地にあってもなお、決して消えることのない反逆の炎が燃え盛っていた。
男たちが、獲物を嬲るような冷酷な笑みを浮かべ、糸の細い身体を捕らえようと一歩を踏み出した、その瞬間であった。
――突如として、大気の底が跡形もなく抜け落ちたかのような、名状しがたい異音が這い上がってきた。
それは、空から降ってきた音ではなかった。
彼らの足元深く、帝都の地下何十里という暗黒の深淵から響き渡った、これまで誰も聞いたことのない、地球そのものが苦悶して呻き声を上げているかのような、途轍もない重低音の咆哮であった。
男たちの足が止まり、怪訝な顔で足元の泥濘を見下ろした直後。
人間の矮小な争いなど、強大な権力者の暴力すらも、すべてを無に帰す『人智を超えた抗いようのない破滅』が、帝都の大地を下から激しく突き上げたのである。




