第五章(5)
八月三十一日、早朝。
帝都の空を数日間にわたって厚く覆っていた長雨が一時的に止み、雲の裂け目から射し込んだ白々しい陽光が、権力者・鷺宮國彦の洋館を冷淡に照らし出していた。
夏の終わり特有の、風一つない不気味なほどの静けさと、肺の奥にへばりつくような重苦しい湿気が、屋敷全体を異様な密度で包み込んでいる。
豪奢な舶来の調度品に囲まれた朝餐の広間。重厚な天鵞絨の引き戸は固く閉ざされ、室内に漂うのは、淹れたての珈琲の芳醇な香りと、鷺宮の巨体から発せられる動物的な脂の匂い、そして微かな香水が入り混じった澱んだ空気であった。
宮崎糸は、漆黒の洋装に真っ白な前掛けという寸分の乱れもない衣服を纏い、主人の背後から数歩下がった壁際の暗がりで、自らの呼吸の音すらも極限まで殺して直立していた。
彼女の視線の先には、革張りの椅子に深く腰を沈め、優雅な手つきで『東京大衆日報』の紙面を広げる鷺宮の無防備な背中があった。
外村洋一という郵便配達夫に、自らの命と引き換えにした幾重にも折り込まれた手紙を託してから、ちょうど一週間。今日この朝という時間は、糸にとって、己の魂を断頭台の刃の下に置かれているのと同じほどの、息の詰まるような恐怖と期待が入り交じる極限の瞬間であった。
あの泥に塗れた配達夫は、本当に手紙を届けてくれたのか。初葉桜子という天才作家は、見ず知らずの女中の悲鳴を受け取ってくれたのか。
糸の胸の内で、肋骨を内側から叩き割らんばかりの激しい動悸が暴れ狂う。しかし彼女は、顔面を強固な氷で覆い尽くし、ただの無機質な美しい人形としてその場に立ち尽くしていた。
やがて、紙面の上で活字の羅列を追っていた鷺宮の口の端が歪み、肺の底から吐き出すような湿った冷笑が広間の空気を震わせた。
「遠い北の異国を舞台にした、悪辣な富豪に囲われる哀れな踊り子の悲劇、か。下等な大衆向けにしては読ませる筆致だが、所詮はよくある空想の通俗劇だ。底辺を這いずり回る貧乏人が、こういう悪役を憎んで己の鬱憤を晴らすための、安い感傷に過ぎない」
鷺宮は、己の読んだ物語の悪役と、現実の自分自身とを微塵も結びつけることはなかった。
揺るぎない権力者という生き物は、己を洗練された紳士であると固く信じ込んでおり、自らを客観視する能力が決定的に欠落している。初葉桜子はその鷺宮の『傲慢さゆえの死角』を完璧に計算し尽くしていた。物語の表面的な舞台を『遠い異国の昔話』へとすり替え、大衆や権力者の目を、よくある安っぽい絵空事としてことごとく欺いたのである。
鷺宮は読み終えた新聞を片手で乱暴に丸めると、卓の傍らに置かれた上質な牛革の紙屑籠へと無造作に投げ捨てた。
丸められた紙面が籠の底に当たる鈍い音が、静寂の空間に小さく響く。鷺宮は卓上の珈琲を飲み干すと、重々しい足音とともに椅子から立ち上がり、部屋の隅に立つ糸の存在などすっかり視界に入っていないかのように、そのまま重厚な扉を開けて廊下へと姿を消した。
主人の気配が遠ざかり、扉が背後で閉ざされた直後。
糸は激しく動悸を打つ心臓の拍動を必死に押さえ込みながら、足音を立てずに革の紙屑籠へと駆け寄った。籠の底に無残に丸められて転がっている新聞紙の束。彼女は震える白い指先を伸ばし、その紙の束をすくい上げると、前掛けの懐へと素早く滑り込ませ、一切の気配を殺して広間から逃げ出した。
洋館の最上階、鋭く傾斜した天井に押し潰されるような、熱気の澱む狭い屋根裏部屋。
そこが、糸に与えられた唯一の私室であり、強大な権力の這い回る視線からわずかに逃れられる深海の底であった。彼女は粗末な寝台の縁に腰を下ろし、懐から取り出した新聞紙の皺を、震える両手で丁寧に伸ばしていった。
薄暗い裸電球の光の下で、糸の虚ろな視線が『幻燈花』の漆黒の活字の群れをなぞり始める。
そこに描かれていたのは、鷺宮が口にした通り、遠い北の異国を舞台にした、富豪に囚われた踊り子の物語であった。
しかし、その活字の連なりを追ううちに、糸の全身の産毛が総毛立ち、心臓が破裂しそうなほどの衝撃に襲われた。
物語の表面的な衣装こそ違えど、そこに書き綴られていたのは、これまで彼女が紙屑籠から拾い読みしてきた『選ばれなかった人生』などではない。他でもない宮崎糸という一人の少女が、今この瞬間にも受けている悪辣な搾取と絶望の地獄そのもの、すなわち『紛れもない現実そのもの』であった。
初葉桜子は、表面の舞台設定を偽装する一方で、細部の描写に、宮崎糸という人間にしか絶対に理解できない『感覚の暗号』を緻密に織り込んでいたのである。
踊り子が富豪の寝室で凌辱される際、彼女が見つめ続ける『雨漏りの染みが三つ連なった木目の天井』。富豪が踊り子の手に塗り込む、『白檀と柑橘が混ざったような特定の香油』の匂い。そして何より、絶望のあまり『自らの精神を肉体から引き剥がし、暗闇の底へと隔離する』という、糸が日々の地獄を耐え忍ぶために行っている、誰にも語ったことのない凄惨な心理的防衛の感覚。
権力者である鷺宮は、糸を意思を持たない家具のようにしか見ていないため、彼女が夜な夜などんな天井の染みを見つめ、どんな絶望の中で精神を殺しているかなど、知る由もない。だからこそ彼は、この真実の告発に気づくことなく、ただの空想の描写として素通りしたのだ。
しかし、当事者である糸にとって、それは神が自らの脳髄を直接覗き込んできたかのような、恐ろしいほどの鮮明さを持った『真実の鏡』であった。
初葉桜子は、あの幾重にも折り込まれた紙片に書き殴られた短い文面から、糸がどのような苦痛のなかで日々を耐え忍んでいるのかを、同じ女性としての深い痛みを伴って余すところなく理解し、活字という名の器に定着させてみせたのだ。
自分が、決して孤独ではなかったこと。
この声なき絶叫が、間違いなくあの作家の心臓へと届いたという圧倒的な事実が、糸の凍りついていた魂を激しく揺さぶる。
そして、物語は終盤へと差し掛かる。
絶望の底に沈む踊り子の耳元で、彼女を救いに来た名もなき使者が、低く静かな声で囁く場面。そこに、桜子が糸の心臓に向けて放った、鋭利な刃のような言葉が刻まれていた。
『門前の鉄の箱を探れ。夜の獣をやり過ごすための、白い粉雪が隠されている』
『迎えの馬車は手配された。鳥籠の鍵は開いている。真夜中の雨音に紛れ、振り返らずに走り出せ』
その二つの短い文節が網膜を焼き付けた瞬間、糸の脳髄の奥底で、すさまじい閃光が炸裂した。
これは、物語の登場人物に向けられた単なる台詞ではない。強大な権力者である鷺宮の頭越しに、警察の目も大衆の目もすべて素通りさせ、糸と洋一、そして桜子の三者間にだけ見事に機能する、命のやり取りのための『完璧な暗号』であった。
迎えの馬車は手配された。鳥籠の鍵は開いている。
それは、今日の真夜中、再び雨が降り出す時刻に合わせて、あの泥に塗れた郵便配達夫が勝手口へと必ず迎えに来るという、逃亡の時刻と経路の決定であった。
しかし、それ以上に糸の魂を震わせたのは、前半の暗号であった。
夜の獣をやり過ごすための、白い粉雪。それはすなわち、あの外村洋一が手紙の返事として、鷺宮を無力化するための『催眠剤』を、この屋敷の勝手口の郵便受けに既に忍ばせてあるという、武器の受け渡しの合図であった。
糸は弾かれたように寝台から立ち上がると、屋根裏部屋を飛び出し、使用人たちの目を盗んで一階の裏手へと向かった。
重厚な鉄扉の脇に備え付けられた、黒塗りの郵便受け。周囲に誰もいないことを確認し、彼女は震える指先をその冷え切った鉄の箱の奥底へと滑り込ませた。
指先が、小さな紙包みの感触を捉える。
急いで引き抜くと、そこには蝋引きの紙で固く包まれた、一回分の白い散薬が隠されていた。掌に乗せたその小さな紙包みは、物理的な重量こそ無に等しかったが、糸にとっては、強大な権力者の命運すらも覆すことのできる、途方もない重さと熱を持った『反逆の刃』そのものであった。
屋根裏部屋に戻った糸は、膝の上に乗せた己の両手を静かに見つめた。
香油を塗り込まれ、傷一つなく白く柔らかく保たれていた、鷺宮の愛玩物としての醜悪な証拠。
糸は、薬の包みを握り込んだその白く滑らかな両手を、自らの意志で、骨が軋むほどの強い力で固く握りしめた。綺麗に整えられた爪が、柔らかな手のひらの皮膚に深く食い込む。激しい痛覚が脳髄を貫き、爪の先から微かな真紅の血が滲み出した。
『痛い。そして、熱い。
その痛みと血の熱さこそが、自らを陶器の器から一人の人間へと引き戻した、何よりの証明であった』
ただ配達夫に連れられて逃げるのではない。今夜、彼女は自らの手でこの薬を鷺宮に飲ませ、己の足でこの地獄を抜け出すのだ。泥に塗れてでも、家族と共に自らの人生を歩み直すため。かつて自分が望みながらも手放してしまった人生を、今度こそ自らの血の滲む両手で掴み取るのだ。
熱気の籠る屋根裏の小さな窓から、嵐の前の不気味な静けさを保つ帝都の空を真っ直ぐに見上げる。
傷のない白磁の人形から、生きた血の通う人間へと変貌を遂げた宮崎糸の漆黒の瞳には、かつての絶望の濁りは微塵も存在しない。そこには、真夜中の逃亡に向けた冷徹なまでの決意と、己の過酷な運命を自らの手で切り拓く者の持つ、背筋が粟立つほどに美しく、暗い反逆の炎だけが静かに燃え盛っていた。




