第五章(4)
帝都の中心部からわずかに外れた閑静な区画に、初葉本家の広大な敷地は水を打ったような死の静寂とともに広がっていた。
重々しい瓦屋根と重厚な黒張りの板塀は、降りしきる晩夏の豪雨を冷厳に弾き返し、外界の猥雑な喧騒をことごとく遮断している。
その厳格な境界線を越えて敷地内へと足を踏み入れた外村洋一の肉体は、手入れの行き届いた前庭の白砂利を踏むたびに、泥と血に塗れた己の存在がいかにこの清浄な空間を汚染する異物であるかを、実体のある重圧として感じ取っていた。
大日本帝国郵便の正規の配達夫である洋一は、門番に怪しまれることなく玄関先まで進むことはできた。しかし、彼の用件は国家の認可を受けた通常の配達業務ではない。
玄関の広い三和土で彼を出迎えた初葉家の初老の使用人は、洋一が差し出した、無残に折り畳まれただけの紙片を見るなり、冷ややかな侮蔑の視線をあらわにした。
「切手も貼られておらず、表書きすらないような不審な紙切れを、桜子先生にお渡しすることなど到底できません。先生は純文学の執筆のため、一切の面会を謝絶しておられます。お引き取りを」
使用人の言葉は、大正の世における厳格な身分制度と、権威ある旧家の常識に照らし合わせれば至極当然の対応であった。
雨水と泥、そして己の罪を削り落とそうとして剥がれた爪先から流れる生々しい血の匂いに塗れた洋一の姿。雨外套の隙間からは、真鍮の釦を引き千切られ、無残に裂けた小倉織の制服が覗いている。どう見ても正気を失った狂人としか思えないその配達夫の姿に、使用人は忌々しげに頑丈な木戸を閉めようとした。
しかし、洋一は泥に汚れた長靴を扉の隙間に強引にねじ込み、奥歯が砕けるほどの力で食い下がった。
「これは、ただの郵便物ではありません。一人の人間の命がかかっているのです。どうか初葉桜子先生に」
洋一の充血した両眼には、もはや常人の持ち得る理性の限界を超えた、凄絶なまでの切迫感と狂気が宿っていた。
使用人がその異常な熱量にたじろぎ、声を荒らげて彼を力ずくで押し返そうとしたその時である。玄関の奥の薄暗い回廊から、音もなく一つの痩せ細った影が滲み出るようにして現れた。
首から無骨な硝子乾板の入った舶来の暗箱を下げた、初葉家の長男である清であった。
彼の姿を視界の端に捉えた瞬間、使用人の顔からあからさまな忌避の色が浮かび上がった。
初葉家において、極度の吃音ゆえに言葉を人前で発することを禁じられ、家督を継ぐこともできないこの長男は、母親からも使用人からもすっかり透明なものとして扱われ、不吉な木偶として忌み嫌われている。使用人は、触れてはならない病にでも直面したかのように口をつぐみ、清の姿から徹底して視線を逸らして、硬直したようにその場に立ち尽くした。
その奇妙な空白のなかで、清は深い漆黒の瞳で泥まみれの洋一を無言のまま見据えた。
清の鋭利な観察眼は、洋一の肉体が放つ異臭や破れた制服の異常さなどではなく、彼の魂の奥底で燃え盛っている『己のすべてを投げ打ってでも他者を救い、自らの罪を雪ごうとする人間の、究極の覚悟』を瞬時に見抜いていた。
清は、恐怖で身を強張らせる使用人を一切無視し、洋一の血走った眼球だけを見つめて小さく顎を引き、屋敷の外周を回って離れへと続く庭伝いの道標を、視線だけで指し示したのである。
清の無言の導きに従って通されたのは、本棟から完全に切り離された離れの客間、その外側に面した薄暗い縁側であった。
洋一は庭先に降りしきる雨を背に受けながら、縁側の冷たい板目の上に、まるで罪人のように両膝をついた。
彼の目の前で、静かな摺動音とともに、客間の襖がゆっくりと内側へと引き開けられた。
そこに端座していたのは、透き通るような白磁の肌に漆黒の髪を結い上げた、驚くほど可憐で美しい少女であった。何世代にもわたって蓄積された上質な和紙の匂いと、高く澄んだ白檀の香気が、彼女の存在を包み込むようにして客間の内側から滲み出してくる。泥と汗と血の匂いに塗れた洋一の肉体とは対極にある、純文学という名の揺るぎない聖域の中心に座す、初葉桜子その人であった。
洋一は泥に汚れた額を縁側の板目に擦り付けんばかりに身を屈め、極度に乾燥した喉の奥から、自らの腑を吐き出すようにして言葉を絞り出した。
「突然の無礼を、どうかお許しください。私は、過去に大きな罪を犯しました。助けを求める血の滲んだ手紙を、己の保身のために暗闇へと見殺しにした、卑怯で浅ましい男です」
自らの罪を言語化し、他者の前に晒す行為は、肉体を鋭い刃物で削ぎ落とすような苦痛を伴う。しかし、洋一の声には一切の逃げが存在しなかった。
「今日、私は先生の書かれた『幻燈花』を読み、己の罪の醜さを知りました。そしてその直後、配達先の洋館で、一人の少女からこの紙片を託されたのです。彼女はすでに生きる意志を奪われ、死の淵に立たされています。ですが彼女は最後に、この宛名のない手紙を『初葉桜子先生へ』と、はっきりと指定したのです」
洋一は、自傷行為によって皮膚が破れ、血と土汚れに塗れた節立った指先で、雨外套の懐に抱え込んでいた幾重にも折り込まれた紙片を取り出し、襖の敷居のわずかな隙間へと差し出した。
「この手紙の届け先は、権力者に丸め込まれる警察でも、借金に縛られた家族でもない。あの『幻燈花』を紡いだ先生にしか、この命は救えないと彼女は信じたのです。そして私も、先生の物語を読み、己の罪を知ったからこそ、己の制服を引き裂いてでもこの命の叫びを先生に直接お渡ししなければならないと確信したのです」
それは、宮崎糸という一人の少女が、自らの命と引き換えに権力の鳥籠から放った、凄惨な悲鳴であった。
雨の音だけが響く空間で、桜子は静かに縁側へと身を乗り出し、白く細い指先で、敷居の上に置かれたその泥と血に汚れた紙片をそっと拾い上げた。
桜子は、洋一の前から姿を隠すことはしなかった。彼女は膝の上に置かれたその粗末な帳簿の切れ端を、長く美しい睫毛を伏せて、ただ静かに見つめた。
紙面には、黒鉛筆で乱暴に書き殴られた文字の羅列。家族を逃がしてほしい。私のことはもうどうなってもいい。これ以上、家族が地獄に落ちるのを見たくない。
その洋墨も使えぬ乱れた文字の奥底に封じ込められた宮崎糸の凄惨な地獄が、桜子の異常な感受性の奥底へと、重く冷たい汚泥のように流れ込んでくる。
能村現や滝沢鉄朗の抱えていた過去の罪への未練とは、まったく質の異なる痛み。それは、今この瞬間にも行われている、強者による弱者の悪辣な搾取の生々しい感触であった。
権力者の脂ぎった視線が皮膚を嘗め回す吐き気。香油を塗られて白く保たれた己の手を見るたびに内臓を掻き毟りたくなる自己嫌悪。精神を肉体から引き剥がし、天井の木目を見つめながら夜の凌辱に耐え続ける日々の絶望。
一人のうら若い少女が、人間としての尊厳を微塵も残さず容赦なく食い荒らされているという、現在進行形の物理的な地獄。
その凄絶な絶望に触れた瞬間、桜子の白磁のような横顔に浮かんだのは、他者を害しようとする憎悪や、激昂による殺意などでは決してなかった。
彼女の薄い桜色の唇が微かに震え、漆黒の瞳の奥に、胸を掻き毟られるような深い悲哀の色が滲んだ。同じ女性として、一人の少女がどれほどの苦痛と恐怖のなかで夜を越えているのか。その絶望の深さを余すところなく理解してしまったがゆえの、あまりにも静かで、しかし血を吐くような凄惨な痛みの共有であった。
桜子は、両手でその泥と血に汚れた紙片を、自らの胸に抱き寄せるようにしてそっと握りしめた。
どうにかして、この少女をあの暗闇から救い出さなければならない。
警察など役に立たない。洋一に直接手紙の返事を持たせても、鷺宮の厳重な監視網を潜り抜けることは不可能であり、糸の命が直ちに奪われる結果を招くだけだ。強大な権力の鳥籠から彼女を脱出させるためには、物理的な手段ではなく、鷺宮の傲慢な精神の死角を突く必要がある。
桜子は伏せていた顔を上げ、縁側で泥に塗れたまま平伏している洋一を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、涙こそ零れてはいなかったが、一人の弱き者を絶対に守り抜くという、切実な祈りにも似た透明な強さが満ち溢れていた。
彼女の脳裏に、一つの完璧な戦略が構築されていく。
権力者は、大衆が読む新聞小説を安い感傷だと嘲笑し、決して真面目に読むことはない。読み終えれば紙屑籠に捨てる。そして、すべてを奪われた少女は、その紙屑籠から活字を拾い集め、自らの選ばれなかった人生の幻影をそこに見て、血の涙を流している。
『ならば。私が書く物語そのものを、彼女だけを救い出すための脱出の鍵へと昇華させればいい』
鷺宮をはじめとする世間の大衆の目は、相変わらず美しい空想の悲劇だと素通りしていく。しかし、宮崎糸という少女の心臓にだけは、それが現実の逃亡への完璧な合図であることを正確に突き刺すことができる。
それは、ただ他者の絶望を原稿用紙の上に写し取るだけだった桜子が、自らの紡ぐ純文学の活字を、一人の人間を物理的な地獄から確実に救い出すための武器へと鍛え上げた、歴史的な精神の転換点であった。
「確かに、受け取りました」
客間の静寂に響いた桜子の声は、ひどく穏やかでありながら、雨の音すらも平伏させるような、底知れぬ切実な祈りの重さを帯びていた。
それは、泥と血に塗れて命の叫びを運んできた外村洋一の覚悟に対する最大限の敬意であり、一人の少女を地獄から救い出すための、決して揺るぐことのない共犯関係の成立を意味していた。
洋一は、その静かで美しい声の響きを鼓膜の奥で受け止めた瞬間、己の肩に食い込んでいた過去の罪の重圧が、少しずつ霧散していくのを感じた。
彼は深く、縁側の冷たい板目に額を押し当て、無言のまま長く一礼をした。泥と汗に塗れた配達夫と、白檀の香る聖域に座す天才作家。決して交わることのなかったはずの二つの運命が、宛名のない一枚の紙片を通して見事に結びつき、強大な権力者を出し抜くための、静かで、しかし不可逆な反逆の歯車が、帝都の雨の降る暗闇の中で確実に回り始めていたのである。




