第五章(3)
神社の裏手に広がる濁水の中で、己の罪の圧倒的な重さに耐えかね、神聖な制服の真鍮の釦を引き千切って絶叫した外村洋一は、激しい疲労と自己嫌悪に震える両膝をどうにか持ち上げた。
彼は神社の境内にある手水舎へとよろめき歩き、龍の口から注がれる清水で、幾度も幾度も、狂ったように泥に塗れた両手を洗い流した。顔面にへばりついた泥を削ぎ落とし、国家の顔である逓信省から支給された小倉織の夏制服の胸元を不器用に合わせ、真鍮の徽章が鈍く光る帽子についた汚れを、指先が擦り切れるほどの力で拭い去る。
大正の御代において、帝都の郵便網を担う配達夫は、単なる荷運びではない。国家の血流を維持する公僕としての重い責任と、確かな矜持を纏う存在である。どれほど己の魂が卑怯な泥に塗れ、過去の罪に打ちひしがれようとも、書留郵便という国家の預かり物を配達する以上、泥水と血の悪臭を漂わせ、制服を乱したまま権力者の屋敷の門を叩くことなど、公務員として絶対に許されることではなかった。
洋一は、手水鉢の水で無理矢理に己の「配達夫としての外枠」を修復し、破れた胸元を隠すように雨外套を羽織り直すと、再び重厚な鉄製の自転車に跨り、街の権力者・鷺宮國彦が支配する高台の洋館へと向かって重いペダルを踏み出した。
降り続く豪雨を弾く堅牢な煉瓦の塀と、外界の俗悪な世界をことごとく拒絶するかのように高くそびえる鉄格子の門扉。その広大な屋敷の裏手にひっそりと設けられた勝手口の前に立ち、洋一は自らの雨外套の襟を正した。
顔面には、先ほどまでの絶望的な虚無を分厚い漆喰で塗り固めるようにして、いつもの愛想の良い配達夫の笑みを強固に張り付ける。彼は、雨水を吸って重くなった革鞄の中から一通の書留郵便を取り出すと、雨に濡れた真鍮の呼び鈴を指先で強く押し込んだ。
どれほどの時間が経過したか。鉄板で補強された勝手口の扉が、重々しい摺動音を立てて内側へと引き開けられた。
洋一の視界に現れたのは、この陰鬱な雨の日の情景には到底不釣り合いな、あまりにも美しく、そして完璧なまでに整えられた一人の少女の姿であった。
漆黒の洋装に真っ白な前掛けという、寸分の乱れもない上質な衣服を纏う彼女は、鷺宮の屋敷で女中として囲われている宮崎糸である。
泥と汗、そして絶望の入り混じった悪臭を放つ洋一の労働者としての肉体とは対極にある、まるで豪奢な飾り棚からそのまま持ち出されてきたかのような、白磁の人形の無機質な美しさ。
「大日本帝国郵便でございます。鷺宮様宛てに、書留が一つ届いております」
洋一が公僕としての快活な声を絞り出し、雨に濡れないよう外套の懐から受領簿と朱肉を差し出す。
糸は無言のまま、静かに首を縦に振ってそれを受け取った。その所作には一切の感情の揺らぎがなく、呼吸の気配すら感じられない。
しかし、彼女が受領印を押すためにわずかに顔を伏せたその瞬間、洋一は、彼女の長く美しい睫毛の奥に隠された、漆黒の瞳の底を見た。
人形のように生気をすっかり失い、あらゆる絶望を呑み込んで凍りついているはずのその瞳の最奥に、微かな、しかし狂気的なまでの熱を帯びた『生への執着』の火種が、鋭い切っ先のように燃え隠れているのを、彼は確と見極めたのである。
その視線が交差した直後であった。
重厚な鉄扉の向こう側、洋館の深く暗い内部から、硬質な革靴の踵が大理石の床を打ち据える重々しい足音が響いてきた。
屋敷の主人である鷺宮の足音。
それは、単なる人間の歩行音ではなく、この空間における圧倒的な支配と暴力の接近を告げる警鐘であった。
足音の接近と同時に、勝手口の蒸し暑い空気のなかに、高価な葉巻の焦げた匂いと、動物的な脂の入り混じった強烈な体臭が流れ込んでくる。その気配が空気を圧迫した瞬間、洋一の目の前に立つ糸の細い身体が、目に見えない巨大な圧力に容赦なく押し潰されるように激しく硬直した。
時間が、まるで粘り気のある水飴のなかに沈み込んだかのように、異様な遅さをもって引き延ばされていく。
洋一の背筋を、氷柱の刃をなぞるような冷や汗が伝い落ちた。彼自身は鷺宮の所有物でも何でもない、大日本帝国の末端を担う配達夫に過ぎないというのに、その屋敷の奥から滲み出してくる権力者の圧倒的な質量の前に、己の肉体が激しく萎縮し、呼吸の仕方を忘れてしまうほどの本能的な恐怖を感じていた。
靴音が、廊下の角を曲がり、勝手口へと続く空間へと確実に向かってくる。
その極限の緊張状態のなかで、糸の白い手が動いた。
彼女は、受領印を押した帳簿を洋一へと差し出すと見せかけ、その動作の死角に隠すようにして、自らの前掛けの裏側に隠し持っていた小さな紙片を抜き出した。そして、洋一が受け取ろうと伸ばした腕を潜り抜けるような素早さで、彼の着ている雨外套の深い懐へと、その乱雑に折り畳まれた紙片を強引にねじ込んだのである。
「どうか、お願いです」
洋一の心臓が激しく跳ね上がると同時に、極度に張り詰めた勝手口の空気を微かに震わせて、糸の薄い桜色の唇から切迫した声が紡ぎ出された。
「この手紙を。初葉桜子先生の元へ」
初葉桜子。
その名を耳にした瞬間、洋一の脳髄を、落雷のような激しい衝撃が貫いた。
他でもない、先ほど神社の軒下で己の過去の罪を無慈悲に抉り出し、その臆病な魂を地獄へと叩き落とした純文学『幻燈花』の作者の名であった。
洋一は息を呑んだ。本来であれば鈴を転がすように可憐で、美しい響きを持っていたはずの少女の声。しかし今、洋一の鼓膜を叩いたその響きには、日々の凄惨な搾取によって極限まで干上がり、喉の奥から血を絞り出すような凄絶なまでの必死さが宿っていた。主人の足音に怯え、決して聞き咎められぬよう限界まで音量を抑えたその囁きは、一人の人間が魂のすべてを懸けた悲鳴となって洋一の精神を直接殴りつけた。
懐にねじ込まれたその小さな紙片は、重量など無に等しいはずであった。しかし、それは洋一の肉体をその場に縫い付けるほどの、恐ろしい質量を持って彼の胸を圧迫した。
過去の呪縛が、真っ黒な汚泥となって噴き上がってくる。
出所不明の不審な紙切れ。まただ。また俺は、この底知れぬ面倒事に関わってしまったのだ。洋一の顔面から急速に血の気が引き、全身の筋肉が恐怖によって強張った。懐に飛び込んできたその紙片を今すぐ地面に叩き落とし、自転車に飛び乗ってこの不気味な洋館から逃げ出したいという浅ましい防衛本能が、彼の中で爆発的に膨れ上がる。
靴音が、さらに大きく、重く響く。鷺宮の姿が廊下の奥に現れるまで、残された時間は数秒もない。
逃げなければ。
洋一は、恐怖に引き攣る顔を背け、後ずさりをしようとした。だが、その彼を押し留めようとするかのように、懐に紙片をねじ込んだ糸の細い指先が、外套の布地越しに洋一の胸の筋肉に微かに触れた。
その瞬間、洋一の全身を、凄絶なまでの悪寒が貫いた。
外套越しに伝わってきた糸の手の感触。夏の湿気の中にあってなお、その指先は極度の恐怖でことごとく血の気を失い、氷のように異常な冷たさを帯びていた。そして何よりも恐ろしいことに、そこには人間としての「魂の重さ」が全く存在していなかったのである。
それは、生きる意志や尊厳を跡形もなく剥ぎ取られ、ただ権力者の欲望を満たすための肉の器としてのみ使われ続けている人間の、空虚で悲惨な軽さであった。
この少女は、すでに死の淵に立っている。
ここで自分が彼女の差し出したこの血の滲むような絶望の叫びを突き返せば、彼女の肉体を辛うじて繋ぎ止めている最後の細い糸が断ち切れ、彼女は遠からず確実に壊れて死ぬ。
『逃げるのか。また俺は、己の卑小な保身のために、他人の血を吐くような悲鳴を泥水の中に投げ捨てて逃げ出すのか』
洋一の頭蓋の内側を、『幻燈花』の紙面に刻まれていた活字の群れが高熱を帯びて駆け巡る。泥に塗れながらも決して手紙を手放さなかったあの美しき配達夫の幻影。あれは、ただの空想の悲劇などではない。
『偶然ではない。神社の軒下であの物語を読み、己の罪に打ちひしがれた直後に、その作者宛ての命の叫びを託された。これは、今度こそ己の過去の卑怯な罪を清算し、国家の配達夫として、そして一人の人間としての本当の誇りを取り戻すために与えられた、神からの最後の試練なのだ』
奥の廊下に、鷺宮の巨体が姿を現す気配がした。葉巻の煙が、勝手口の空気を白く濁らせる。
洋一は、奥歯が割れるほどの力で己の顎を噛み締めた。
膝の激しい震えを鋼鉄の意志でねじ伏せ、肺の奥底に滞留していた恐怖の空気をすべて吐き出す。
彼は、外套の懐に差し込まれたままになっていた糸の冷え切った白い手を、自らの節立った手で、布地の上から力強く、しかし相手を絶対に傷つけない確かな優しさをもって握り返した。
空っぽだった糸の手に、洋一の肉体から発せられる熱を帯びた生命力が、確かな重量となって流れ込んでいく。
「確実に、お届けします」
洋一の喉の奥から紡ぎ出された声は、ひどく静かでありながら、雨音と足音の迫る空間において、いかなる権力の暴力にも屈することのない揺るぎない重さを持っていた。
それは、作り笑いで世間を欺いてきた配達夫の軽い挨拶ではない。一つの命を救い出すために、己のすべてを懸けることを誓った、一人の生きた人間の決定的な宣誓であった。
糸の漆黒の瞳が、微かに、しかし確かに大きく見開かれた。
その瞳の奥で燃え隠れていた狂気的な生への執着の火種が、洋一の言葉を薪として、静かで力強い炎へと変わっていくのを、彼ははっきりと見た。
次の瞬間、糸は洋一の手から滑り抜けるように身を引き、完璧な人形の無表情を取り戻して、重厚な鉄扉を静かに閉ざした。
鉄扉が閉まる鈍い音が、雨の降る路地に重く響く。
洋一は、豪雨の降り注ぐ勝手口の前に一人取り残された。彼の外套の懐には、一人の少女の命そのものである幾重にも折り込まれた紙片が、心臓の鼓動と重なるように熱を放っている。
洋一は、顔にへばりつく雨水を雨外套の袖で乱暴に拭い去ると、重い郵便自転車のハンドルを力強く握りしめた。
過去の罪から逃げることをやめ、正面から他者の絶望と向き合う覚悟を決めた男の、鋭く精悍な光がその瞳に宿っている。泥濘の轍にタイヤを取られながらも、泥だらけの配達夫は、その懐に命の重さを抱きかかえたまま、初葉桜子の待つ帝都の中心へと向かって力強く走り出していった。




