第五章(2)
鉛色の空腔から際限なく吐き出される晩夏の豪雨は、数日間にわたって帝都の空を厚く覆い尽くし、街路という街路を陰湿で粘り気のある茶褐色の泥濘へと変え果てていた。
外村洋一は、前輪が車軸の半分まで泥の轍に深く食い込む重厚な鉄製の郵便自転車を、全身の筋肉を軋ませながら強引に押し進めていた。
東京湾の方角から這い上がる湿気を孕んだ突風が、大粒の雨を無数の矢のように斜めに叩きつける。重く生温かい雨水は、彼の羽織る粗末な外套の繊維を瞬く間に通り抜け、過労に喘ぐ肉体から容赦なく体力を奪い、骨の髄まで執拗な疲労感を染み込ませていく。車輪の輻に絡みついた泥塊が、ペダルを踏み込むたびに重苦しい擦過音を立て、帝都の汚泥が彼の前進を物理的に引き留めようとしているかのようであった。
肩から斜めに掛けられた分厚い牛革の郵便鞄は、内部に詰め込まれた数日分の未配達の書留や大量の束となった雑誌に加え、容赦なく降り注ぐ雨水を繊維の奥深くまでたっぷりと吸い込んだことで、通常の何倍もの異常な質量を持った拷問具へと変貌していた。
雨水を吸って膨張した太い革紐が、洋一の右側の鎖骨と肩甲骨を繋ぐ薄い筋肉の束を断ち切らんばかりに深く食い込む。彼が泥道で一歩を踏み出し、浅い呼吸を繰り返すたびに、神経を直接鋸で挽かれるかのような鋭い痛覚が脳髄へと駆け昇る。
彼の鼻腔を塞いでいるのは、湿気を含んだ古い土の匂いと、己の酷使された肉体が発する熱気と汗、そして革鞄のなかで密閉された紙の束が放つ、安価な洋墨の酸っぱい臭気の混ざり合った、労働者特有の体臭であった。それに加えて、路地の側溝から溢れ出した汚水と馬糞の匂いが、不快な膜となって肺の奥底にへばりついている。
しかし、洋一の顔には、そんな肉体的な過酷さや不快感を微塵も感じさせない、精巧な作り物のように明るい笑みが、薄い皮膚の上に強固に張り付いていた。
「おや、奥さん。今日の夕刊の別刷りは一段と読み応えがありますよ。悪天候が続きますから、お身体にはくれぐれもお気をつけて」
軒先で雨宿りをする町内の住人とすれ違うたび、洋一は歩みを止め、ひどく人の良い、太陽のように明るく温かな笑みを顔面に浮かべて深く頭を下げた。
住民は泥に塗れながらも爽やかに声をかけてくる青年の姿に安心したように顔をほころばせ、心からの労いの言葉を返す。帝都のこの一角において、誰もが彼を、気が利いて愛想の良い、誠実で頼れる郵便配達夫だと信じて疑わない。彼の届ける手紙や新聞が、この陰鬱な雨の日の数少ない慰めであるとすら思っている者も少なくなかった。国家の通信を担う制服を身に纏い、雨の日も風の日も大衆のために泥水をすする立派な青年。それが、世間が彼に向ける揺るぎない評価であった。
だが、路地の曲がり角を過ぎ、苔生した板塀によって他者の視線がことごとく遮断された瞬間。彼の顔面から、先ほどまで張り付いていた表情の筋肉が、まるで熱で溶け落ちた蝋細工のように一瞬にして消失した。
あとに残されたのは、生気を完全に失い、底知れぬ深さの泥沼を宿したような、痛々しいまでに虚ろで疲弊しきった男の横顔であった。
人の良い笑みの仮面を乱暴に剥ぎ取られた彼の心の内側には、広大な、あまりにも冷たい虚無が底なしの淵のように口を開けて広がっている。
どれほど人当たりの良い笑みを振りまいて世間を欺こうとも、どれほど己の肉体を酷使して帝都の隅々まで迅速に郵便物を届けようとも、その胸の奥底には、決して消し去ることのできない一つの醜悪な呪縛が、太く黒い根を深く張っていたのである。
それは、彼が配達夫としての職務に就いてまだ間もない頃、脳髄の奥底に焼き付けられた決して消えない記憶。
薄暗い郵便局の仕分け室で、幾重にも重なる配達物の束のなかに紛れ込んでいた、一通の異様な手紙の悍ましい感触であった。
それは上質な洋紙や定型の封筒などではなく、粗悪な帳簿の切れ端を荒く折りたたんで糊付けしただけの、ひどく歪な形状をした紙の塊であった。表面に書き殴られていたはずの宛名は、配達の途中で浴びた雨か、あるいは文字を綴った本人が流した大量の涙の染みによってすっかり洋墨が崩れ、判読不可能な黒ずんだ染みへと成り果てていた。
そして何より洋一の目を引き、彼の血液を氷点下まで凍らせたのは、封の合わせ目の部分であった。
そこには、乾ききっていない生々しい血の痕跡が、黒ずんだ鉄錆のような色に変色し、べったりとこびりついていたのだ。
それは間違いなく、誰かが己の命を削って発信した悲鳴であり、極限の地獄の底から究極の救済を求める、宛名のない絶望の血書であった。
しかし、洋一はその血の滲む不審な紙片に己の指先で触れた瞬間、関わり合いになることへの圧倒的な恐怖と、警察沙汰になるかもしれない面倒事から逃れたいという、浅ましい自己保身の念に精神をすっかり支配された。
彼はその命の叫びが発する恐ろしい熱量から目を背け、宛先不明の廃棄物として見落としたふりをし、薄暗い焼却炉の隅へと誰にも告げることなく葬り去ったのである。己の職務を全うするよりも、己の平穏な日常を守ることを優先した、あまりにも卑怯で臆病な決断であった。
己の手で一つの命を見殺しにしたという凄まじい罪悪感。
それは何年経った今もなお、洋一の意識の底で決して風化することのない泥の澱となって滞留し、血のように赤い夕焼けを見るたびに、彼の精神を内側から腐食させ続けていた。
雨脚がさらに強まり、街路の視界が白く濁り始めた頃、洋一は配達の足を一時的に止め、古びた神社の軒下へと重い自転車ごと身を滑り込ませた。
雨を凌ぐためのその薄暗い空間には、長年の風雨に晒された古い木材が湿気を吸い込んだ、黴臭く重苦しい匂いが沈殿している。
洋一は鎖骨に食い込む革鞄を軋む音とともに慎重に下ろし、蓋を開けて中身の郵便物が雨水に侵食されていないかを確認した。
その泥に汚れた指先が、配達物の束に挟まれていた真新しい『東京大衆日報』の紙面で止まった。
視線が、無意識のうちに、ある一つの連載小説の題字へと吸い寄せられる。
初葉桜子が紡ぐ純文学、『幻燈花』。
洋一は、雨水で濡れた指先を震わせながら、湿気を含んで重くなった新聞の折り目をゆっくりと開いた。活字の並ぶ紙面に眼球を走らせた瞬間、彼の周囲から神社の軒下の澱んだ匂いも、降りしきる雨の冷たい音響も、跡形もなく消失した。
そこに緻密な筆致で描かれていたのは、他でもない、一人の郵便配達夫の物語であった。
過酷な状況下で、宛名も定かではない一通の手紙を、自らの命の危険を顧みずに受取人の元へと送り届ける男の姿。
泥水にまみれ、権力者からの理不尽な暴力を受けながらも、彼は決してその血の滲んだ手紙を手放そうとはしない。その一枚の紙切れのなかに込められた一人の人間の魂の叫びを、決して見捨てることはできないという、底抜けに愚かで、そして孤高の美しさを放つ職人の矜持。
それは、洋一がかつてあの血の滲む手紙を前にした時、本当はそうありたかったと心の底で願いながらも、己の卑怯さゆえに永遠に選び取ることのできなかった、選ばれなかった人生の姿、究極の理想の幻影であった。
活字を通して脳髄へと暴力的に流れ込んでくるその配達夫の圧倒的なまでの美しさは、洋一の胸の奥底で長年くすぶり続けていた理想の灯火を、凄まじい熱量をもって燃え上がらせた。
手紙に込められた他者の想いを、己の命を懸けて何があっても送り届ける。それこそが、己がかつて憧れ、人生を懸けようと誓ったはずの配達夫の真の姿ではないか。
だが、初葉桜子の紡いだその物語が純粋で美しければ美しいほど、それは洋一の精神の防壁を切り刻む無慈悲な刃となって彼の魂を深く貫いた。
己の保身のために、他人の血の滲む命の叫びを焼却炉へと投げ捨てた現実の己の惨めな姿。
そして、紙面の中で泥に塗れながらも命を懸けて人を救い出している幻影の己の崇高な姿。
その決定的な落差が、洋一の柔らかな精神の壁を容赦なく破壊し、粉々に打ち砕いた。活字から発せられる強烈な真実の光が、彼の心の奥底に何重にも鍵をかけて隠蔽していた真っ黒な『瑕疵』を、容赦なく白日の下に晒し出す。
『俺は人殺しだ。他人の命の叫びを見殺しにしておきながら、この神聖な制服を着て、愛想の良い笑顔で世間を騙し、のうのうと息をしているだけの、醜悪で卑怯な泥棒だ』
その瞬間、活字を追っていた洋一の右手の指先に、突如として異様な『幻触』が走った。
生温かく、ひどく粘り気のある液体の感触。
悲鳴を上げて新聞紙を取り落とした洋一の視界に映ったのは、己の両手の指先に、あの日の血塗られた手紙から滲み出した『鉄錆色の血』が、べっとりとこびりついている悍ましい幻覚であった。
いくら目を凝らしても、その赤黒い染みは消えることなく、まるで皮膚の裏側から無限に湧き出してくるかのように彼の両手を汚染していく。
洋一の喉の奥から、言葉にならない濁った呻き声が漏れた。
彼は血に染まった己の両手を見ることに耐えきれず、神社の軒下から、激しく打ち付ける豪雨の中へとよろめき出た。
肺の奥まで侵入してくる冷たい雨水に咽びながら、洋一は泥濘の轍の上に両膝を突いた。
彼は狂ったように、地面に溜まった茶褐色の泥水の中に己の両手を突っ込み、狂気的な力で指と指を擦り合わせた。幻の血を洗い流そうと、路地の尖った砂利に掌を何度も何度も叩きつけ、皮膚を削り落とす。
鋭い石の角によって現実の皮膚が破れ、本物の鮮血が泥水の中に混ざり合って流れ出しても、彼の網膜にこびりついた『あの日の罪の血』は、少しも薄れることはなかった。
「違う、俺は、俺は配達夫だ。俺は、手紙を」
震える手で泥を払おうとした洋一の視線が、己の身に纏っている濃紺の配達夫の『制服』へと落ちた。
国家の通信を担い、人々の想いを届けるための神聖な衣服。
紙面の中に生きるあの気高い配達夫が着ていたものと同じ、誇り高き制服。
それなのに、なぜ自分のような卑怯な人殺しが、この神聖な服を着て世間を欺いているのか。自分がこの服を着ていること自体が、あの美しい物語への、そして見殺しにした命への最大の冒涜ではないか。
圧倒的な罪悪感と自己否定の念が、洋一の精神を木端微塵に崩壊させた。
彼は己の爪が剥がれることもいとわず、泥と血にまみれた両手で、自らが着ている制服の真鍮の釦を乱暴に引き千切った。
分厚い布地が裂ける鈍い音が、雨音を切り裂いて響く。
彼は狂乱した獣のように己の衣服を掻き毟り、制服の下に隠された己の醜い肉体を、冷たい豪雨の中に晒し出した。皮膚を直接打ち据える雨の痛みすら、もはや彼の狂った脳髄には届かない。
この汚れた制服を脱ぎ捨てなければ。この卑怯な皮膚をすべて剥がし落とさなければ、あの活字の中の美しい自分には、永遠に許してもらえない。
制服を濁水の中に放り投げた洋一は、そのまま轍の泥の中に顔を押し付け、己の罪の底なしの深淵に向かって這いつくばった。
彼の喉からは、もはや嘔吐ではなく、声帯が完全に引き裂かれるような、音の出ない絶叫だけが空しく響いていた。
帝都の広大な郵便網の片隅で、己の犯した罪の重さと卑怯さに完膚なきまでに打ちひしがれ、泥水と血に塗れて自らの衣服を引き裂く外村洋一の姿は、救いがたいほどの惨めさと狂気に満ちていた。
初葉桜子の紡いだ純文学という名の極上の光は、声なき弱者を見捨てた臆病な男の魂を、その光の強さゆえに、逃げ場のない底なしの地獄へと冷酷に突き落としていたのである。




