第五章(1)
八月の終わり。
帝都を覆う空気は茹だるような重苦しい湿気を孕み、夏の終焉を告げる油蝉の断末魔のような鳴き声が、高台の木々に執拗にへばりついていた。
帝都の中枢からほど近いその場所に、街の有力者である鷺宮國彦の威容を誇る洋館がそびえ立っている。
堅牢な煉瓦の塀と、冷酷なまでに整然と並ぶ鉄格子の門扉によって、外界の薄汚れた喧騒から徹底して隔絶されたその屋敷。それは、彼が築き上げた権力という名の強固な檻であり、内部には常に息が詰まるほどの静寂と、凍てつくような権勢の匂いが沈殿していた。
豪奢な舶来の調度品が隙間なく配置された威圧的な書斎のなかで、宮崎糸は、己の呼吸の音さえも極限まで殺して直立していた。
漆黒の洋装に真っ白な前掛けという、寸分の乱れもない上質な衣服を身に纏う彼女の姿は、この広大な屋敷のなかで働く他の使用人たちとは明らかに一線を画している。
彼女には、冷たい井戸水で粗末な雑巾を絞り、果てしなく続く板目を膝をついて磨き上げるような、過酷な肉体労働はいっさい科せられてはいない。
だが、それは決して主人の温情などではない。
ただ鷺宮の目を楽しませるための、意思を持たない美しい美術品としてこの極彩色の空間に配置されているという、徹底した物理的、および精神的な拘束に他ならなかった。
磨き抜かれた桃花心木の机越しに、深々と革張りの椅子に沈み込む鷺宮の巨体が、高価な葉巻の紫煙をゆっくりと吐き出す。
毛足の長い絨毯に覆われた室内に、焦げた煙草の葉と、海外から取り寄せられた強い香水の匂いが、目に見えない粘液のように重く充満していく。
糸は、卓上に置かれた切子硝子の杯に、琥珀色の洋酒を音もなく注いだ。
その所作には、微かな手の震えも、表情の揺らぎも存在しない。
彼女が差し出した杯を受け取る瞬間、鷺宮の肥えた指先が、糸の白い手の甲を意図的に撫でるようにして滑った。
その刹那、執拗で粘着質な視線が、彼女の皮膚の表面を嘗め回す。衣服の繊維を容易く通り抜けて骨髄まで達するような、極めて不快な汚濁の感触が、糸の全身を容赦なく貫いた。
しかし、糸の白磁のような顔からは、一切の感情が抜け落ちている。
家族の背負った莫大な借金と引き換えに、自らの肉体をこの洋館の主人へと売り渡したその日から、彼女は生き延びるための唯一の防衛手段として、自らの精神を肉体からことごとく引き剥がす術を身につけていた。
夜の帳が下り、鷺宮の豪華な寝室へと呼び出されるたび、彼女は己の魂を肉体の奥底の暗闇へと隔離する。
高い天井に浮かぶ木目の染みだけを焦点の合わない瞳で見つめながら、ただの冷たい陶器の器になりきるのだ。
どれほど肉体と人間としての尊厳を一方的に蹂躙されようとも、何も感じない、何も考えない美しい人形へと自己を消失させなければ、抗いようのない暴力の前に精神が跡形もなく破壊されてしまうからである。
糸は、洋酒の重い瓶を胸の前に抱えたまま、一歩退り、静かに己の白く滑らかな両手を見下ろした。
厨房や裏庭で働く他の使用人たちの手は、日々の過酷な水仕事によって荒れ果て、皮膚は赤黒くひび割れ、爪の間には常に泥が入り込んでいる。
しかし、糸の手には定期的に高価な香油が塗り込まれ、傷一つない純白を保つことが強制されている。
己の家族が、今日も冷たい汚水に塗れながら、日々の糧を得るために這いつくばっているというのに。
自分だけがこのように清浄な環境で、白く柔らかな手を維持しているという、途方もない罪悪感。
己の肉体が美しく、傷一つなく保たれていればいるほど、それは自分が鷺宮の愛玩物として激しく搾取され、決して洗い流すことのできない汚辱に塗れているという揺るぎない証明であった。
白く綺麗に整えられた爪の先を見るたびに、自らの内臓を素手で掻き毟りたくなるほどの身を切るような自己嫌悪が喉の奥まで込み上げる。
しかし、それすらも表情に出すことは許されず、彼女はただ鉛のように重い胃の腑の底へと、その猛毒を呑み込むほかなかった。
鷺宮は洋酒を一口含むと、机の上に広げられていた『東京大衆日報』の紙面へと視線を落とした。
しばらくの間、書斎には彼が葉巻を吸い込む微かな燃焼音と、新聞紙が衣擦れのような乾燥した音を立ててめくられる摩擦音だけが支配していた。
糸は、壁際の濃い影と同化するように立ち尽くし、主人の気まぐれな要求にいつでも応えられるよう、視線を足元の複雑な絨毯の模様に縫い付けている。
やがて、活字の羅列を追っていた鷺宮の口の端が歪み、肺の底から吐き出すような湿った冷笑が漏れた。
「下賎な大衆向けにしては読ませる筆致だが、所詮は空想の悲劇だ。貧乏人が互いの傷を舐め合い、己の惨めな不幸に酔いしれるための安い感傷に過ぎない」
帝都中の読者を熱狂させている純文学の連載すらも、彼にとっては優越感を満たすためのつまらない見世物でしかない。
鷺宮は、読み終えた新聞を片手で乱暴に丸めると、卓の傍らに置かれた上質な牛革の紙屑籠へと無造作に投げ捨てた。
丸められた紙面が籠の底に当たる鈍い音が、静寂の空間に小さく響く。
鷺宮は吸いかけの葉巻を重厚な硝子の灰皿に押し付けると、重々しい足音とともに椅子から立ち上がった。そして、部屋の隅に立つ糸の存在など一切視界に入っていないかのように、そのまま書斎の扉を開けて廊下へと消えていった。
主人の気配がすっかり遠ざかり、扉が背後で閉ざされた後も、糸はしばらくの間、微動だにすることができなかった。
空間にはまだ、鷺宮の放つ強い香水と葉巻の焦げた匂いが、目に見えない粘膜のようにまとわりついている。その主人の残り香を肺に吸い込むたびに、胃袋の底から強烈な吐き気がせり上がってくる。
しかし、彼女は激しく動悸を打つ心臓の拍動を必死に押さえ込み、足音を立てずに革の紙屑籠へと近づいた。
籠の底には、無残に丸められた新聞紙が転がっている。
糸は、震える白い指先を伸ばし、その紙の束を拾い上げた。
普段であれば、このような活字の群れに興味を示すことなどない。感情を殺し、ただただ空虚な時間が過ぎるのを作業的に待つだけの彼女にとって、他人の物語など何の意味も持たなかったからだ。
しかし、先ほど主人が口にした安い感傷という言葉が、なぜか彼女の分厚い氷で閉ざされた精神の奥底に、微かな熱を帯びたさざ波を立てていたのである。
もしも誰かに見咎められれば、ただでは済まない。
彼女は新聞を固く握りしめ、前掛けの懐へと素早く滑り込ませると、一切の気配を殺して書斎から逃げ出した。
洋館の最上階、鋭く傾斜した天井に押し潰されるような狭い屋根裏部屋。
そこが、糸に与えられた唯一の私室であり、強大な権力の這い回る視線からわずかに逃れられる、深海での息継ぎのための場所であった。
昼間の熱気と息苦しい湿気が逃げ場を失って澱むその薄暗い部屋で、糸は粗末な寝台の縁に腰を下ろした。
そして、懐から取り出した新聞紙の皺を、震える両手で丁寧に伸ばしていく。
そこにあったのは、初葉桜子の名を冠した連載小説、『幻燈花』の最新回であった。
薄暗い裸電球の光の下で、糸の虚ろな視線が漆黒の活字の群れをなぞり始める。
そこには、理不尽な借金苦に喘ぐ家族の姿が克明に描かれていた。
金貸しの強欲な手から逃れるため、夜の闇に紛れて粗末な家財道具を荷車に積み込み、当てもない逃避行へと旅立つ一家の物語。
冷たい夜雨に打たれ、泥濘に深く足を取られながらも、娘は決して家族の手を離そうとはしない。極限の貧困と恐怖のなかにありながら、彼女たちは互いの体温だけを頼りに寄り添い、泥に汚れた顔を見合わせて、微かに、しかし確かに笑い合っている。
その文字の連なりを追ううちに、糸の脳髄に、凄まじい質量を持った幻覚が流れ込んできた。
それは、彼女自身がかつて、幾度となく夢想し、そして現実の圧倒的な恐怖の前に選び取ることのできなかった、選ばれなかった人生の姿そのものであった。
もしもあの時、自分が己の身を売るという究極の犠牲を選択せず、家族と共に夜逃げをして、あてのない汚水の中を這いつくばる道を選んでいたら。
どれほど飢えと寒さに肉体を苛まれようとも、家族の傍に居続けることができていたなら。
活字が描き出すその悲惨なまでの逃避行は、糸にとって、今のこの豪奢な鳥籠のなかで受ける無菌状態の地獄よりも、数万倍も美しく、人間としての尊厳に満ちた幸福な道に見えた。
泥に塗れながらも笑い合う家族の光景が、糸の視界をことごとく支配する。
鼻腔には、雨に濡れた土の匂いと、粗末な衣類から発せられる家族の温かな体臭が、現実の物理的感覚を伴って生々しく蘇る。
糸は、己の膝の上で、新聞紙を力強く握りしめている自らの手を見つめた。
香油の匂いが染み付いた、傷一つない白く滑らかな皮膚。
泥の中を生き抜くための生命力を根こそぎ去勢され、権力者の慰み者として飼い殺されていることの、美しくも醜悪な証拠。
『私が本当に欲しかったのは、この白い手ではない。家族と共に泥を掴み、ひび割れ、血を流しながらも、彼らの温かい手を強く握り返すことのできる、生きた人間の手だったのだ』
何年間も、徹底的に己の魂を殺し、感情というものを分厚い氷の下に封印し続けてきた糸の精神の均衡が、活字の放つ熱量によって音を立てて崩れ去った。
胸の奥底ですっかり凍りついていた巨大な悲鳴が溶け出し、食道を逆流して喉の奥へとせり上がってくる。
しかし、彼女は声帯を震わせることを本能的に拒絶し、両手で自らの口を強く塞ぎ込んだ。
呼吸が乱れ、華奢な肩が激しく上下する。
感情を殺した陶器の人形の目から、熱を持った濁水のような涙が、とめどなく溢れ出した。
大粒の雫が彼女の白い頬を伝い、膝の上の『幻燈花』の紙面に次々と黒い染みを作っていく。
蒸し暑い屋根裏部屋の暗がりの中で、誰にも聞かれることのない無音の慟哭が、長く、深く響き続ける。
それは、肉体を搾取され尽くした抗いようのない弱者が、活字という媒介を通して、跡形もなく死に絶えていたはずの己の魂を、再び自らの内側へと取り戻した瞬間の、血を吐くような蘇生の儀式であった。




