第2話 没落寸前の侯爵家
第2話 没落寸前の侯爵家
妖精リリィの出現によって屋敷中が大騒ぎになった翌日、エリシアとなった皇結衣は久しぶりにベッドから離れて屋敷の中を歩いていたのだが、回復魔法によって多少体調が改善したとはいえ長年病弱だった身体が急激に強くなるわけではなく、休み休み廊下を進んでいるうちに自然と今の自分の置かれた状況を確認したくなり、前世で大会前に必ず行っていた環境分析の癖そのままに情報収集を始めることにした。
カードゲームでも人生でも現状把握は最重要であり、負けるプレイヤーほど思い込みで動き、勝つプレイヤーほど盤面を確認するものだと結衣は知っている。
そんな彼女はまずローゼンベルク侯爵家の財政資料を見せてもらうことにしたのだが、執務室で帳簿を開いた瞬間に思わず遠い目になった。
赤字。
赤字。
また赤字。
ページをめくっても赤字。
さらにめくっても赤字。
「酷いねこれ……」
思わず本音が漏れる。
目の前で父アルフォンス侯爵が申し訳なさそうに視線を逸らした。
侯爵という高位貴族でありながら領地収入は年々減少し、作物の不作によって納税量も減り続け、治水設備の老朽化による被害も相次ぎ、借金は膨れ上がる一方らしい。
しかも追い打ちをかけるように母ヴィクトリアが病弱な娘の治療のため大金を投じていた結果、家計は完全に限界へ達していた。
帳簿によればあと二年保つかどうか。
ゲームの設定よりも酷い。
「これって領民の皆は大丈夫なの?」
エリシアが尋ねると、父の表情がさらに曇る。
「なんとか支えているが厳しいな、今年も不作が続けば飢える村が出るかもしれない」
結衣は小さく息を吐いた。
なるほど。
思った以上に切羽詰まっている。
没落寸前というより崖から半分落ちている状況だった。
しかし逆に考えれば改善余地だらけでもある。
どんなカードゲームでも弱い盤面には伸びしろがある。
強い盤面は維持しかできないが、弱い盤面は爆発的に成長できる。
世界ランカーとして何度も逆転してきた血が騒いだ。
「お父様」
「どうしたんだい」
「領地を見たい」
アルフォンス侯爵は目を丸くした。
病弱な娘が突然そんなことを言い出したのだから当然である。
だがエリシアの瞳は真剣だった。
「私もローゼンベルク家の一員だもの、自分の家をちゃんと知りたいの」
父は驚きながらも嬉しそうに微笑んだ。
その日の午後、エリシアは馬車に乗って領地を視察することになった。
窓から見える景色に結衣は眉を寄せる。
畑は痩せていた。
村人たちの服は古い。
家屋も傷んでいる。
飢えているわけではないが豊かとは程遠い生活が見て取れる。
ゲーム内では文章数行で語られるだけだった舞台だが、その実態を見た結衣は胸が痛くなった。
前世の日本で平和に暮らしていた自分と比べるとあまりにも厳しい環境だった。
馬車がある村を通過した時だった。
道端で一人の少女が倒れた。
やせ細った少女だった。
年齢はエリシアより少し下くらいだろう。
周囲の大人たちが慌てて駆け寄る。
「また熱を出したのか」
「医者を呼べ!」
「無理だ、この村に医者はいない!」
話を聞けば、病気が流行しているらしい。
馬車を止めたエリシアは迷わず外へ飛び出した。
護衛が慌てて止めようとする。
「お嬢様は危険です!」
「大丈夫」
結衣はカード画面を開く。
そして一枚を選択した。
《癒しの妖精リリィ》
リリィは空へ飛び上がり、少女の身体へ光を注ぐ。
優しい光に包まれた少女の呼吸が徐々に安定していく。
赤かった顔色も落ち着いた。
数分後。
少女はゆっくり目を開く。
「お母さん……?」
母親が泣きながら抱きしめる。
村人たちも信じられないものを見るような顔をしていた。
奇跡だった。
この世界に回復魔法は存在するが、ここまで効果の高い治癒能力は高位神官ですら滅多に扱えない。
当然ながら。
一瞬で噂になった。
「侯爵令嬢様が奇跡を起こした!」
「妖精の加護を授かっている!」
「聖女かもしれないぞ!」
村人たちが次々と頭を下げる。
結衣は少し困った。
別に神格化されたいわけではない。
カードの力を使っただけである。
しかし感謝されるのは嫌ではなかった。
むしろ嬉しかった。
前世では勝っても拍手されるだけだったが、今は誰かの人生そのものを助けられる。
それはゲームとは違う重みだった。
屋敷へ戻ったその夜。
エリシアは自室で改めてカード一覧を確認していた。
回復だけでは足りない。
根本から改善しなければ意味がない。
痩せた土地を豊かにし、水不足を解決し、収穫量を増やし、人々の生活を支える必要がある。
その時、一枚のカードが目に入った。
《豊穣の精霊イシュタ》
Rカード。
戦闘能力は低い。
だが作物の成長促進能力を持つ生産系ユニットとして有名なカードだった。
大会ではまず使われない。
だが領地経営なら話は別だ。
結衣の顔に笑みが浮かぶ。
「見つけた」
戦争デッキより内政デッキのほうが今は必要だった。
王都最強の貴族も。
伝説の英雄も。
魔王軍も。
関係ない。
まずは侯爵家を立て直す。
それが最優先だ。
そう決意した瞬間、窓の外から冷たい風が吹き込んできた。
その風に紛れるように黒い影が屋敷の敷地を見下ろしていたことにエリシアは気付かなかった。
暗闇の中。
黒衣の男が不気味に笑う。
「妖精契約者か……面白い」
男は何者かへ向けて魔法通信を起動する。
「報告します、ローゼンベルク侯爵家の娘に異変が発生しました」
その声は夜闇に溶けて消えていく。
没落寸前だった侯爵家は今まさに運命を変え始めていた。
それが王国中を巻き込む大きな波乱の始まりだと、まだ誰も知らなかった。




