第八十話 頼ることを覚えた夜——それでも、譲れないもの
夜更け、城の一室。ルティナは眠れないまま、廊下の窓辺に佇んでいた。
「……ルティナ? こんな時間に、どうしたの」
声をかけられて、振り返る。水を飲みに部屋を出てきたのだろう、四堂悠太がこちらを見ていた。
「あ……。シドーさん」
ルティナは、いつもの微笑みを浮かべた。だが、うまく取り繕えているだろうか。自分でも、僅かな疲れが、顔に滲んでいるのが分かった。
「眠れなくて。……珍しいことです、こんなの」
「明日のこと、考えてる?」
「えぇ、まぁ……。それも、あるのですが」
ルティナは窓の外、月のない深い闇を見つめた。城の周囲には、これといった明かりもなく、ただ遠くの山々の稜線だけが、ぼんやりと浮かび上がっている。
「明日いよいよ、あの祠に向かいます。……そこに、どんな手掛かりがあるのか。あるいは、何も見つからないのか。何事も慎重に進めれば、大きな問題はないはずなのですが」
そこまで言って、言葉を止めた。
「……なぜでしょう。頭ではそう分かっているのに、胸の奥がざわざわして、落ち着かないんです」
四堂悠太は窓辺の長椅子に、そっと腰を下ろした。ルティナは、その傍らに立ったまま、しばらく何も言わなかった。夜風が窓の隙間から、僅かに吹き込んでくる。
「僕も、緊張してるよ。リデルが昼間言ってたように、武闘派の女の子が武者修行に来ていたんだったら面白いけど……そんな訳ないだろうし。明日何が待ってるか、分からないから」
「シドーさんも……?」
「うん。でも」
ルティナは言葉を探すように、少し間を置いた。
「あの……。実はシドーさんに、頼ってみようと……思いまして」
ルティナは、自分でそう切り出しておきながら、少し驚いていた。
「え?」
「以前、仰ってくださいましたよね。……一人で背負わなくていい、いつでも聞くから、と」
四堂悠太が、驚いたように目を見開いた。
「あぁ……。うん、覚えてるよ」
「ですので、その……。頼ってみようと、思ったのですが」
言葉が、そこで止まった。両手を膝の上で、所在なさげに組み直す。
「……いざ、頼ろうとすると、何を話せばいいのか、分からなくなってしまいまして」
「……」
「ずっと長い間一人で決めることに、慣れすぎたのかもしれません。……誰かに委ねる、という感覚が、うまく思い出せないんです」
自分でも少し、可笑しくなった。あれほど緻密に、街の運営や財政のことを、計算し尽くしてきたはずなのに。こんな単純なことが、うまくできない。
その言葉に、四堂悠太は少し笑った。
「別に、何か話さなきゃいけないわけじゃないよ。……ただ、隣にいるだけでも、いいんじゃない?」
「隣に……」
「うん。頼るって……別に、全部話すことだけじゃないと思う。……今みたいに、一人じゃなくて、誰かがそばにいる、って感覚だけでも、十分だと思うから」
ルティナはしばらくの間、その言葉を噛みしめるように、黙り込んでいた。
(……そうか。私は、頼ることの意味を、誤解していたのかもしれません。何かを、差し出さなければならないと。……役に立つ情報や、有益な会話を、しなければならないと。そうやってこれまでずっと、対価を払うようにして、人と関わってきました。でも、そうじゃない。……ただ、ここに、いてくれるだけで)
ルティナはそっと、四堂悠太の隣に腰を下ろした。何も話さないまま、しばらくの間二人は、静かに夜の闇を見つめていた。
窓の外、遠くの山の稜線が、ほんの僅かに白みを帯び始めている。夜明けはまだ遠い。それでも確かに、時間は進んでいた。
(……不思議です。頼るということがこんなにも、心地よいものだったなんて)
自分の胸の奥に生まれた、この温かさが一体何なのか、うまく言葉にできずにいた。長年培ってきた分析力を持ってしても、この感覚だけはどうしても、うまく整理できなかった。
(これまでの経験にはない感覚です。……これは、一体)
隣に座る四堂悠太の呼吸の音が、静かに耳に届く。それだけのことが、なぜかこんなにも安心する。
(この人は、いつもこうです。……何も大それたことを、してくれる訳ではないのに。ただ隣に、いてくれる。それだけで十分だと、言ってくれる)
ルティナはそっと、自分の手を見つめた。かつて「人の生死を、この手が握っているシチュエーションが最高にたぎるのです」と、おどけたように語っていたことがあった。本心を悟られないように、そうやって、いつも軽い言葉で包んでいた。今その同じ手が、こんなにも頼りなく震えていることに、自分自身驚いていた。
——ただ一つだけ、確かなことがあった。
(この人の隣は……。おかしいくらい、居心地がいい)
そう思った、次の瞬間だった。
(……あぁ、でもだめですね)
脳裏に以前、自分自身が口にした言葉が静かに蘇った。
『あの二人について分かりあえる同志が、こんな身近にできたなんて……』
『もしシドーさんでも、あの二人を傷つけるようなことをしたら——私、許しませんよ?』
あのとき、半分は冗談のつもりで、けれど半分は本気だった。リデルもアレクシアも、四堂悠太に少しずつ心を寄せ始めている。それを、誰よりも近くで見てきたはずだった。
(あの二人は、私が、なりたくてもなれなかった自分そのものです。……真っ直ぐで、優しくて、誰かのために迷いなく動ける。だからこそ私は、あの二人を守ると決めたのです。領主になったのも、街を整えたのも、全部あの二人が、あの二人のままでいられるように——それを、分かっていながら……。私まで、こんな気持ちを抱いてしまったら)
どんな形であれ、あの二人を傷つけることだけは、絶対にあってはならない。それだけは、譲れなかった。
「ごめんなさい、シドーさん。私、眠くなってきました。お休みなさい」
ルティナはそう言って急に立ち上がり、そっけなくその場を去った。
自室へと続く廊下を歩きながらルティナは、自分の胸の内から、まだ温もりが消えていないことに気づいていた。
(あんな風に、去るべきではなかったかもしれません)
四堂悠太はきっと、戸惑っているだろう。分かっていながら、あの場に留まることがどうしてもできなかった。
(これ以上、隣にいたら……。きっと、抑えきれなくなっていました)
自室の扉を、静かに閉める。一人になった途端、張り詰めていたものが、僅かに緩んだ気がした。
(眠れなくて、部屋を出たはずなのに。……余計に、眠れなくなってしまいましたね)
ルティナは寝台に腰を下ろし、そっと自分の胸に手を当てた。まだ、そこにさっきの温もりが、確かに残っている。
(これは、いけません。……あの二人のためにも、私自身のためにも)
窓の外、白み始めた空を見つめながら、ルティナは静かに目を閉じた。




