第七十六話 あの日、諦めなかった理由
夜が明けきらないうちに、四堂悠太とアレクシアは街の門を出た。
「随分、早いのう。まぁ……獣人の我は、いつもこのくらいの時間に起きておるが」
見送りに出てきたリデルが、驚いて言った。確かに以前リデルが、尻尾をはたいて起こしてくれたのは、朝と言うより夜明けだった。
「日が高くなる前に、少しでも進んでおきたい。……往復の時間には、余裕を持たせておきたいからな」
アレクシアは軽装に身を包み、腰に剣を差しただけの身軽な出で立ちだった。
「気をつけてくださいね、シドーさん。……アレクシアさんも」
ルティナが、二人を心配そうな目で見た。
「あぁ。夕方までには戻る」
アレクシアは短くそう答えると、迷いのない足取りで、山へと続く道を歩き出した。四堂悠太は、その背中を追うようにして後に続いた。
***
街道を外れ山道に差し掛かる頃には、朝靄がうっすらと木々の間に立ち込めていた。
「地図によればこの辺りから、傾斜がきつくなるはずだ」
アレクシアが懐から取り出した地図に、時折目を落としながら言った。五年前の情報しかない以上、目印がそのまま残っているとは限らない。それでも、中年男性の描いた地図は、思いのほか丁寧なものだった。
(山かぁ……。高校一年生のときに行った林間学校以来だ)
趣味と言えば、アニメ視聴とゲームと小説を書くことだけで、完全にインドア派だった。こんなことになるなら、もう少し運動しておけば良かったと、異世界に来る前の生活を四堂悠太は悔いた。
(……いや、待て。一つだけあったはずだ。毎年欠かさず遠征していた「魔法少女スターナイツ」のイベント。始発待ちの行列、開場ダッシュ、物販列での攻防戦——あれも、きっと運動のうちに入るはずだ。……うん、入る! 入ってくれ‼)
「アレクシア、ここ道が随分細くなってるけど……」
「あぁ。だが、崩れてはいない。まだ、問題なく歩ける」
二人は慎重に足元を確かめながら、山道を進んでいった。しばらくの間、会話らしい会話もなく、ただ黙々と歩を進める時間が続いた。
(アレクシア、朝からずっと、あんまり喋らないな……)
四堂悠太は、隣を歩くアレクシアの横顔をちらりと窺った。その表情は、いつも以上に張り詰めているように見えた。
「アレクシア、大丈夫? 何か緊張してる?」
「……別に。ただの、警戒だ」
素っ気ない返事だった。だがその手が剣の柄に、いつもより固く添えられていることに、四堂悠太は気づいていた。
***
山道を、半刻ほど進んだ頃だった。
「……止まれ」
アレクシアが、不意に足を止めた。四堂悠太もそれに合わせて、すぐに動きを止める。
「魔物?」
「あぁ。数は……二体、いや、三体か」
茂みの奥から、低い唸り声が聞こえてきた。やがて赤茶けた毛並みの、大柄な猪のような魔物が三体、姿を現した。
「ボアタスクだ……」
アレクシアはそう呟くと、四堂悠太の前に、すっと立ちはだかった。
「シドー、下がっていろ」
「うん」
四堂悠太は言われた通り、大きな岩の陰に身を寄せた。アレクシアが負けるなんて、欠片も心配していない。レッドドラゴンさえ軽くいなした相手だ、猪が三体増えたところで結果は変わらない。それでも、何かあったときに指を咥えて見ているだけの自分ではいたくなくて、アレクシアの様子をしっかりと視界に収められる位置に留まった。
三体のボアタスクが、地面を蹴って一斉に突進する。アレクシアは剣を構えたままその場に踏み留まった。真正面から受け止める、いつも通りの構えだった。
「絶対防御‼」
アレクシアの声と共に、彼女を中心に、淡く輝く光の壁が、瞬時に展開された。三体のボアタスクの牙が、次々とその壁に激突する。だが光の壁は、僅かに揺らいだだけで、ひび一つ入らなかった。
「がっ……‼」
牙を弾かれたボアタスクたちが、怯んだように一瞬、動きを止める。アレクシアは、その隙を見逃さなかった。
「今だ‼」
防御の構えから、一転して、鋭い斬撃へと切り替わる。一体、また一体と、ボアタスクの巨体が、地面に崩れ落ちていった。最後の一体が、なおも突進を試みるが、アレクシアの剣が、それを正確に捉える。
「終わりだ」
三体目が地に倒れ伏すと同時に、辺りに静寂が戻った。アレクシアは、剣についた汚れを軽く払うと、ゆっくりと振り返った。
「……終わったぞ、シドー」
「お疲れさま。……にしても、レッドドラゴンを軽くあしらってた人が、猪相手に絶対防御を使うとか、大分もったいなくない?」
四堂悠太は岩陰から出てきながら、思わず軽口を叩いた。
「油断して怪我をする方が、よほど間抜けだ」
アレクシアは、そっけなく言い返した。それから少しの間を置いて、付け加えるように呟いた。
「……シドーに、指一本触れさせなかった。それだけで、十分だ」
(怪我をしなかったのは、当たり前だ。……でも、いつもより息が上がってる気がする。もしかしてアレクシア、前のことを気にしている?)
四堂悠太は、そのことに気づいて、アレクシアの態度がいつもよりよそよそしい理由が分かった。以前、賊に襲われたとき——アレクシアは、あとで何度も謝ってくれた。すまない、私の落ち度でシドーを危険な目に遭わせてしまった、本当にすまなかったと。そんなに気にしないで、と言ったけど、あれからずっと自分自身を責め続けていたのか。
あのときのことは、今でもよく覚えている。老人に扮した賊の手から、短剣が閃いた瞬間——頭で考えるより先に、体が動いていた。守らなきゃ、なんて格好いいことを考える余裕さえなかった。ただ、目の前でアレクシアが傷つく光景に、耐えられなかった。それだけだった。
刃が腹に食い込んだ瞬間は、想像していたよりずっと熱くて、そして、ひどく静かだった。痛みよりも先に、このまま死ぬのかもしれないという、妙に冷静な諦めが浮かんだのを覚えている。前世を含めて、まともに殴り合いの喧嘩すらしたことがなかった自分が、まさか異世界で刃物を前にして体が勝手に動くとは、思ってもみなかった。
それでも、地面に倒れ込んで意識が薄れていく中で、諦めるという選択肢だけは、なぜか浮かばなかった。アレクシアがあの賊にとどめを刺されるのを、指を咥えて見ているなんて、絶対に嫌だった。だから最後にもう一度だけ、立ち上がろうと思った。理由なんて、それだけで十分だった。
(僕は、僕が思っていたより、ちゃんと戦えたんだな……)
あのときああしたのは、紛れもなく四堂悠太自身の意志だった。まさかそれが、アレクシアを苦しめてしまうとは、思いもしなかった。
(落ち度って言う程の、落ち度でもないのに。あのときアレクシアは、ただ困っている人を助けようとして、騙されただけだ。それなのに……)
「アレクシア、ありがとう」
どう言葉をかけていいのか分からなくて、お礼を言うことしかできなかった。
「……別に、礼を言われるようなことじゃない」
アレクシアは、機械的にそう言うと、視線を逸らした。だがその頬に、ほんの少し赤みが差しているのを、四堂悠太は見逃さなかった。
(あれ……。前に賊のことで謝られたときも、こんな顔してたっけ……?)
いや、違う。あのときの赤みは、もっと悔しさや申し訳なさが滲んだ、苦い色をしていた。今の赤みは、それとはどこか質が違う気がした。
(……何でだろう。今のアレクシア、ちょっと様子が変な気がする)
うまく言葉にできない違和感を覚えながらも、四堂悠太はそれ以上深く考えることはしなかった。
***
その後も二人は、慎重に山道を進んでいった。途中、崩れかけた箇所や、木の根が道を塞いでいる場所もあったが、迂回すれば十分に通れる範囲だった。
「思ったより、道自体は荒れていないな」
アレクシアが地図と、目の前の景色を見比べながらそう呟いた。
「五年間、誰も通ってないのに?」
「あぁ。……逆に言えば、誰も通っていないからこそ、崩れる要因も少なかった、ということかもしれん」
二人はそのまま、山の稜線を越え、下り坂に差し掛かった。木々の隙間から、遠く黒く染まった城の輪郭が、僅かに見えた。
「……あれが」
四堂悠太は思わず、足を止めた。かつて白亜であったというその城は、今はまるで夜を切り取ったかのような、深い黒に包まれていた。遠目にも分かる、異様な威圧感が、そこにはあった。
(あれが、魔王軍の本拠地……)
「シドー、今日はここまでだ。時間も、そろそろ限界に近い」
アレクシアの声に、四堂悠太は、はっと我に返った。太陽は既に、西の空へと傾き始めていた。
「うん……そうだね。戻ろうか」
「あぁ。……道は、間違いなく使える。これで明日、みんなで来ることができる」
アレクシアはそう言うと、来た道を再び歩き始めた。四堂悠太もその後を追いながら、遠くに見えた黒い城の姿を、もう一度だけ振り返った。




