第七十一話 負けて、満たされた日——忘れかけていた拳を交わす喜び
「ほう……。前に戦ったときより、動きが軽いではないか」
サンダーは、僅かに目を細めた。その表情に微かな戸惑いが浮かんでいるのを、リデルは見逃さなかった。
(サンダーの奴……余裕そうな顔をしておるが、僅かに陰りが見えるぞ)
「シドー、良く見ておれ‼」
リデルの声には、確かな喜びが滲んでいた。
「我は今心から、この瞬間を楽しんでおる‼ 王は民を守るため強くあらねばならぬ……が、今日は一旦、それを忘れることにする。ただ拳を交わす楽しさだけを、味わいたい気分でな‼」
サンダーの拳が、リデルのハンマーと打ち合った瞬間、その拳にほんの僅かな迷いが混じったのを、リデルは肌で感じ取った。
(今の、何じゃ……? サンダーほどの猛者が、拳に迷いを乗せるとは)
「面白い‼」
サンダーは、思わず声を上げた。全身から力が溢れ出すのが、傍から見てもはっきりと分かった。
「わしも、久方ぶりに血が滾るわ‼」
拳とハンマーがぶつかり合うたびに、衝撃波が周囲の木々を薙ぎ倒していく。
リデルはハンマーを振り上げ、真横から薙ぎ払った。サンダーはそれを片腕で受け止め、力任せに弾き返す。反動を利用して、リデルは体を回転させながら、今度は逆側から打ち込んだ。
「ほぉ……‼」
サンダーが、驚いたように目を見開く。防がれると分かっていて放った一撃だった。だが、狙いはそこではない。防御に力を割いた一瞬の隙を突いて、リデルは低く踏み込み、ハンマーの柄で足元を払った。
「くっ……⁉」
サンダーの巨体が、僅かに傾く。逃さず、リデルは追撃のハンマーを振り上げた。
(速い……‼ 次も、その次も、考えるより先に、体が勝手に動いていく……‼)
ハンマーを振り抜くたび、両腕の付け根まで痺れるような衝撃が駆け抜けていく。額から流れる汗が、顎先から滴り落ちた。息は、とうに上がっている。だがそれすらも、心地よかった。次はどう動くか、どう崩すか——ただそれだけを考えて、ひたすらに体を動かす。頭の中から余計なことが、一つ残らず消えていく。
(戦うことは、これほどに、楽しいことであったか……‼)
巻き上がる土埃の匂いを吸い込んだ瞬間、脳裏に、ふと遠い記憶の断片が過った。まだ王女としての重みを何一つ知らなかった頃、誰かと無邪気に取っ組み合っては、砂だらけになりながら笑い転げていた、そんな遠い日のことだ。あの頃感じていたものと、今この胸にあるものは、きっと同じだ。
リデルは口元に、抑えきれない笑みが浮かんでいくのを感じた。それは次第に大きくなり、こらえきれず、乾いた笑い声となって喉から零れ出た。
「ふっ……、はっ……はは……‼」
自分でも、随分と場違いな声だと分かっていた。王女が、傷だらけになりながら声を上げて笑うなど、あってはならないことだ。だがそんなことはもう、どうでもよかった。未来の王として、常に何かを背負いながら戦ってきた。だが今は違う。ただ純粋に目の前の強者と、拳を交わすことだけに没頭している。
「はっはっは‼ 良い、実に良いぞ‼」
サンダーの拳が、一段と重みを増した。受け止めるたびに、骨まで響くような衝撃が走る。だがその痛みすら、今のリデルには心地よい刺激でしかなかった。
拳とハンマーの応酬が、幾度となく繰り返される。時間の感覚すら、次第に薄れていった。
だが、リデルが夢中になればなるほど、その動きは大胆になっていく。守りへの意識が、少しずつ薄れていくのが、自分自身でもどこか他人事のように分かっていた。
ふと、サンダーの拳が止まった。ほんの一瞬——だが確かに、止まった。目の前の大男の顔に、何か遠くを見るような色が過るのを、リデルは見た。
(あやつ、何を考えておる……? 好機のはずじゃのに)
だがその隙を突く間もなく、次の瞬間、サンダーの拳が動いた。
「隙あり‼」
サンダーの拳が、リデルの防御をすり抜け、脇腹に直撃した。
「がはっ……‼」
リデルの体が、大きく吹き飛ばされる。地面に叩きつけられ、そのまま起き上がれなくなった。
「……くっ……」
リデルは、もう一度立ち上がろうと、震える腕を地面についた。だが、力が入らない。何度か試みた後、諦めたようにそのまま地面に倒れ込んだ。
(負けた……。我が、負けた……)
仰向けに倒れたままリデルは、抜けるような青空を見つめていた。
(未来の獣人王として立つと決めてから、負けることは許されなかった。……いや、違う。負けることを、自分自身に許してこなかったのじゃ。この身に恵まれた才ゆえ、これまで力比べで後れを取ったことは一度もない。だからこそ、圧倒的な力を示し続けることが、そのまま「絶対強者」としての己を守ることに、繋がっておった。じゃが、今日は……)
サンダーとの戦いを、思い返す。負けると、途中から薄々分かっていた。それでも、止めようとは思わなかった。むしろ、力の差を感じれば感じるほど、胸の奥が熱くなって、わくわくしていくのを感じていた。
リデルは、ゆっくりと口元を緩めた。
「動けぬ、か……。我の、負けじゃ……」
声に出してみると、思いのほか、すんなりと言葉が出た。悔しさがないわけではない。だがそれ以上に、何か大事なものを久しぶりに取り戻せたような、満ち足りた感覚があった。
(未来の王としての我は、確かに負けた。……じゃが、ただ戦うことを楽しんだ我は、今、こんなにも満たされておる)
空を見上げたまま、リデルは小さく笑った。
(サンダーよ……お主のお陰で、我は忘れかけていた大事なものを、思い出せたぞ)
倒れたままのリデルを見下ろして、サンダーは、静かに拳を見つめていた。その顔には、勝者らしい高揚感よりも、何か思案するような色が浮かんでいる。
(あやつ……何を考えておるのじゃ)
「……参ったな、これは」
不意に、サンダーがそう言った。リデルは、耳を疑った。
「参ったじゃと? 勝ったのは、お主じゃろう……?」
「勝敗の話ではない。……面白いものを見せてもらった。礼、というわけでもないが……」
そこでリデルは、はっと思い出したように、声を上げた。
「参ったというなら……そうじゃ、約束じゃ‼ ダークキングの居場所……」
「あぁ、そうだったな」
サンダーは、静かに頷いた。それから少し困ったような、これまで見せたことのない表情を浮かべた。
「ダークキング様の居場所だが……以前なら、確信を持って答えられた」
そこまで言ってサンダーは、空を仰いだ。しばらく空の一点を、悲しそうでもあるが、鋭い目で見つめていた。
少し離れた場所からその様子を見守っていた四堂悠太は、思わず息を呑んだ。あの目は、ただ言葉に詰まっているだけの目ではない。何か——遠くにある、確かめようのない何かを、探しているような目だった。
「だが、今は……」
サンダーは、視線をリデルに戻し、僅かに眉根を寄せた。
「ブリザードの奴が、妙なことを言い出してな。……あいつ、記憶の一部が戻っただの何だのと、小難しい話をしておった。最初は、たわ言だと相手にしておらんかった。だが言われてみると、そう見当違いのことも、言っておらん気がしてな」
サンダーは、頭をがしがしと掻いた。
「考えるのは、わしの得意分野ではない。……だが正直、分からなくなってきた、というのが、本当のところだ」
「な? そんな訳があるまい‼ 約束を違えるつもりか‼」
リデルが、声を荒げた。だがサンダーは、その剣幕にも動じず、静かに首を振った。
「武人が約束を違えることなどするものか。……本当に、分からんのだ」
その声には、これまでの豪快さとは違う、どこか困惑したような響きがあった。リデルは、思わず言葉を呑んだ。
サンダーはそう言って、静かに立ち上がった。その表情にリデルは、なぜか妙な胸騒ぎを覚えた。
(このまま素直に去るとも、思えぬが……)




