第六十五話 ライオンの狩りは、三割しか成功しない
あの後、長老の好意で、四堂悠太たちは、隠里に一晩泊まらせてもらうことになった。「これも、ささやかなお礼のうちです」と、長老は、そう言って聞かなかった。
夜も更けた頃、四堂悠太は、喉の渇きを覚えて目を覚ました。
(水、飲みに行こう……)
寝床を抜け出し、共有スペースの井戸へと向かう。月明かりだけが頼りの薄暗い道を歩いていると、庭の隅の方から、規則的な音が聞こえてきた。
シュッ、シュッ、と、風を切るような音。
(誰か、起きてるのか……?)
様子を伺うと、そこには、木剣を振り続けるリデルの姿があった。額には玉のような汗が浮かび、息は上がっているが、その動きは、一切乱れていない。何度も、何度も、同じ軌道を、正確になぞり続けていた。
(リデル……何してるんだろう)
声をかけようか迷ったが、その真剣な横顔を見て、四堂悠太は、思わず足を止めた。普段の、あっけらかんとした彼女とは、まるで別人のような集中力だった。
やがて、リデルは、木剣を下ろすと、近くに置いていたコップに手を伸ばした。だが——。
「……っ」
小さく息を漏らすと、コップが、その手からするりと滑り落ちた。ガシャン、と、乾いた音が、静かな夜に響く。
「リデル⁉」
思わず、四堂悠太は駆け寄った。リデルは、はっとした様子で振り返る。
「シ、シドー……何故ここに」
「水飲みに来ただけだよ。それより、今の——」
落としたコップを拾おうとした四堂悠太の目に、リデルの手のひらが、映った。
「その手……」
リデルの手のひらには、幾つもの豆が潰れ、皮が剥けかけていた。慌てて、リデルが手を後ろに隠す。
「な、何でもない。ただの、鍛錬の跡じゃ」
「鍛錬って……こんな時間まで、一人で?」
リデルは、答えなかった。ただ、視線を、地面に落とした。
「リデル」
「……何じゃ」
「何かあったんだろ。良かったら、話してくれないか」
しばらくの沈黙の後、リデルは、小さく息を吐いた。
「……サンダーに、負けたじゃろう。あの時」
「うん」
「あれから、ずっと、悔しくて仕方がなかった。誰にも、言えなんだが」
その声は、いつもの豪快さが、すっかり鳴りを潜めていた。
「我は……この世界で、物理型のアタッカーとしては、最強じゃった。誰よりも強く、誰よりも前に出て、皆を守る。それが、我の誇りじゃった」
リデルは、拳を、ぎゅっと握りしめた。
「未来の獣人王として、当然のことじゃと思っておった。群れのリーダーは、強くなければならぬ。強くなければ、群れを守れぬ。だから我は、絶対王者として、あり続けねばならぬと……そう、思っておった。我は、アルブリー王国の民と、この地に生きる無数の動物たち、そして——大切な仲間を守らねばならぬと」
「……」
「なのに、負けた。それも、圧倒的に。……皆の前では、平気なふりをしておったが、内心ではずっと、情けなくて堪らなんだ。最強じゃともてはやされて、いい気になっておった自分が、心底、恥ずかしかった」
声が、少しずつ、震え始めていた。
「次に、サンダーと会うたときは、必ず、再戦を申し込む。そう決めておる。次こそは、絶対に、勝つ。……だからこうして、一人で鍛えておったのじゃ」
そこまで言うと、リデルの目に、涙がじわりと滲んだ。
「情けない話じゃろう。獣人王の娘が、こんな、こそこそと……」
「そんなことない」
四堂悠太が、すぐに、そう返した。だが、リデルは、首を振った。
「いや、情けない。……悔しくて、悔しくて、仕方がないんじゃ。負けた自分が、許せなくて……」
ぽろぽろと、涙が、頬を伝っていく。いつもの、快活な彼女からは、想像もつかない姿だった。
四堂悠太は、少し考えてから、静かに口を開いた。
「あのさ、リデル。全然関係ない話するけど、いい?」
「……何じゃ、急に」
「ライオンの狩りの成功率って、知ってる?」
リデルは、涙を拭いながら、怪訝そうな顔をした。
「狩り……? いや、知らんが」
「実は、三割くらいなんだって」
「……三割?」
「うん。百獣の王って呼ばれてるのに、十回狩りに出て、成功するのは三回くらい。七回は、失敗するんだ」
リデルは、目を瞬かせた。
「そんな、馬鹿な。ライオンといえば、この世界でも、最強格の獣じゃぞ」
「でも、それが現実なんだ。強いから、絶対勝てるわけじゃない。それでも、ライオンは、狩りをやめない。群れを養うために、負ける可能性があっても、何度も、何度も挑み続ける」
四堂悠太は、リデルの目を、まっすぐに見た。
「リデルも、同じなんじゃないかな」
「……どういう、意味じゃ」
「勝てる戦いにだけ出てれば、確かに、負け知らずでいられたと思う。強い相手を避けて、絶対に勝てる相手だけを選んでいれば、リデルは、ずっと『最強』のままでいられた」
「……」
「でも、リデルは、そうしなかった。サンダーが相手でも、勝てるかどうか分からなくても、みんなを守るために、一歩も退かずに戦った。……それって、もう、十分すぎるくらい、強いリーダーだと思うんだ」
リデルは何も言わず、ただ、四堂悠太の言葉を、聞いていた。
「負けるかもしれない。それでも、誰かを守るために、絶対に退かない。……リデルは、もう、そういう王様に、なれてると思うよ。少なくとも、僕はそう思う」
「……」
しばらくの沈黙の後、リデルは、小さく鼻をすすった。
「……お主、たまに、変なことを言うな」
「え、そうかな」
「じゃが……」
リデルは、涙で濡れた目元を、乱暴に拭った。
「悪くない、言葉じゃった」
その口元に、いつもの力強い笑みが、少しずつ戻ってくる。四堂悠太は、その様子に、少しほっとした。
「……そうだ。冗談だけどさ」
「ん?」
「僕、アルブリー王国の民になってもいいくらいだよ。リデルが治める国なら、生涯安泰だろうし」
軽い調子で、そう付け加えた。リデルは、一瞬、きょとんとした顔をした。それから、ふっと、小さく笑う。
「……ふん。案外、悪くない考えじゃな。歓迎してやってもよいぞ」
いつもの調子に戻ったリデルを見て、四堂悠太も、思わず笑った。
だがふと、リデルの表情に、いつもとは違う何かが浮かんでいることに気づいた。
笑いながらも、その目は、どこか遠くを見ているようだった。何かに戸惑っているような、それでいて、悪くない何かを噛みしめているような、そんな表情だった。
「リデル?」
「……ん? いや、何でもない」
リデルは、我に返ったように、いつもの調子に戻ったが、その一瞬だけ見えた表情が、四堂悠太の中に、小さく残った。
「シドー」
「ん?」
「その手のひら、貸してみよ」
「え?」
急に、リデルが、四堂悠太の手を取った。
「な、何?」
「別に。……ただの、確認じゃ」
リデルは、四堂悠太の手のひらを、じっと見つめていた。剣だこ一つない、柔らかい手だ。それを、いつまでも離そうとしない。
「あの、リデル?」
「……あぁ、すまん」
我に返ったように、リデルは、慌てて手を離した。心なしか、頬が赤くなっているように見えたが、月明かりのせいかもしれない、と四堂悠太は思った。
「な、何でもない。……早く寝るぞ、シドー」
いつもより早口で、リデルは、そそくさと寝床の方へ歩いていった。四堂悠太は、その背中を、少し不思議に思いながら見送った。




