第六十一話 「データの一つのように扱うな」——ルティナ、故郷を奪われて
ストームが、静かに片手を掲げた。木々の梢が、ざわりと不自然に揺れる。
村の外れ、木立の陰。そこにいたのは、一羽の鷹だった。隠里の空を縄張りとする、ただの猛禽に過ぎない。だが今その鷹は、ストームの手のひらから伸びる漆黒の風——ダークエナジーを孕んだ暴風を、全身に浴びていた。
「出でよ、クライナー。世界を闇に染めろ‼」
ダークエナジーが、鷹の輪郭を侵していく。翼は骨ごと軋みながら引き伸ばされ、羽毛は色を失い、刃のように鋭い風切羽へと変わっていった。喉から漏れる鳴き声は、次第に、鳥のものとは思えない、風切り音と金属音の混ざったような響きへと変貌していく。
膨れ上がった翼が、ひと際大きく羽ばたく。次の瞬間、そこにいたのは、もはや鷹とは呼べない何かだった。刃のような羽根に覆われた巨躯、虚ろに赤く光る眼窩、広げた翼の周囲には、目に見えぬ真空の刃が、幾つも渦巻いている。
その影が、村の広場の方角へと、音もなく滑るように飛び去っていく。
「な……⁉」
ルティナが、はっと息を呑んだ。クライナーの狙いが、村の方角、長老たちに向けられていることに気づいたからだった。
村の広場では、何も知らない長老たちが、輪になって、静かに祈りの詩を唱えていた。旅人の無事を願う、この村に古くから伝わる祈祷だった。その中央には、ひときわ深い皺を刻んだ、白髪の老エルフの姿があった。
「夢を見るなど不要な感情は、排除する。クライナー、彼らの夢見るドキドキハートを奪え‼」
ストームの号令とともに、クライナーの体から、無数の黒い触手のようなものが伸びていく。
「……何だ、この気配は……⁉」
異変に気づいた長老が、はっと顔を上げた。
だが、それだけだった。逃げる間も、声を上げる間もなかった。触手が、祈りを捧げていた腕を、まだ祈祷の形のまま、絡め取っていく。
「な……⁉」
白髪の老エルフが、驚愕に目を見開いたまま、灰色に染まっていく自分の手を見つめた。その顔には、恐怖よりも、深い困惑が浮かんでいた。長老は、この世界が生まれたそのときから数千年もの間、この地と同族たちを、ただひとり守り続けてきた存在だった。
「ル、ルティナ……。早く……逃げ……なさ……」
最後に、掠れた声で、それだけを絞り出した。灰色の色が、喉元まで這い上がっていく。
「長老様……!」
ルティナが、叫んだ。だが、間に合わなかった。
次の瞬間には、老エルフの姿は、輪になった仲間たちとともに、完全に石と化していた。祈りを捧げる、その姿のままで。
長老は、幼いルティナが夜を怖がるたびに、決まっておとぎ話を聞かせてくれたり、古い本を読んでくれたりした。その声を聞いているうちに、いつしか安心して眠りに落ちる——そんな夜が、何度もあった。どんなに怖いことがあっても、長老とこの隠里で過ごしていれば、不安は吹き飛んだ。ルティナにとって家族も同然の、その大切な人を、ストームは石に変えたのだ。
ルティナは、衝撃に耐えきれず、その場に崩れ落ちた。手にしていた杖が、乾いた音を立てて地に落ちる。
その光景を、ストームは、感情のない目で見つめていた——はずだった。だが、心の奥で、何かが、微かにざらついた。
(データ上は、これは正しい判断だ。人質を取り、戦力を削る。合理的な選択のはずだ。それなのに——)
広場に立ち並ぶのは、もう、人ではなかった。数十体の灰色の像——それぞれが、まだ、誰かのために祈っていた形のまま、時を止めていた。風の音だけが、静かに、その像の間を吹き抜けていく。
「な、何で……‼」
それまで、冷静さを崩さなかったルティナの声が、初めて、はっきりと震えた。
「なぜです。私との戦いは、もう終わったはずです。彼らは、関係ない……!」
「関係は、あります。あなた方の戦力を測るには、大切なものを人質に取るのが、最も効率的です。それに——」
ストームが、感情のない目で、石になった長老たちを一瞥した。
「彼らの持つ夢見る心は、不要なものだと判断しましたので」
「ふざけるな……っ‼」
ルティナが、叫んだ。いつもの、柔らかく淡々とした声からは、想像もつかないほどの、激しい怒りだった。
「彼らは、私の、故郷の人たちです……! 幼い頃、右も左も分からなかった私に、魔法を教えてくれた……! 研究ばかりで、誰とも打ち解けられなかった私を、それでも、見捨てずにいてくれた人たちなんです……‼」
ルティナの手が、怒りで小さく震えていた。
「それを、データの一つのように、扱うな……‼」
ストームは、その激情を、黙って受け止めていた。
(これが……。データにはない、感情というものか)
「……興味深いですね。あれほど冷静だったあなたが、ここまで感情を乱すとは」
「黙りなさい……‼」
ルティナが、地に落ちた杖を拾い、再び構えようとした、その時だった。
(この者の怒りは、データにはない色をしている。……知りたい。何が、彼女をここまで動かすのか)
ストームは、そう思う自分自身に、僅かな違和感を覚えていた。観測対象に、これほどまで、意識を向けたことは、これまでなかったはずだった。




