第五十三話 追放された勇者、絶望の村に現る
アレクシアが、ブリザードとの決闘に負けた後、ブリザードは高らかに宣言した。
「何もせずに退くという約束は、決闘に負けた場合の話だ。この村への手出しは、予定通り行わせてもらうぞ」
「そんな……‼」
四堂悠太が叫ぶより早く、ブリザードは、近くの茂みに向かって、静かに手をかざした。
茂みの奥で、何かが低く唸った。灰褐色の毛並みをした、ただの森狼だった。夜になれば村の家畜小屋を狙う程度の、取るに足らない獣に過ぎない。だが今その狼は、ブリザードの手のひらから伸びる漆黒の霧を、全身に浴びていた。
「出でよ、クライナー。世界を闇に染めろ‼」
ダークエナジーが、狼の輪郭を侵していく。四本の脚は骨ごと軋みながら伸び、毛並みは色を失い、氷の結晶のような棘となって皮膚を突き破った。喉から漏れる唸り声は、次第に、獣のものとは思えない、金属を擦り合わせたような響きへと変わっていった。
膨れ上がった体軀が、ひと際大きく脈打つ。次の瞬間、そこに立っていたのは、もはや狼とは呼べない何かだった。氷の棘に覆われた巨躯、虚ろに赤く光る眼窩、開いた口の奥には、闇そのものが渦巻いている。
「……‼」
四堂悠太は、息を呑んだ。マンドラゴラともロック鳥ともローレライとも違う、初めて目にする禍々しさだった。
クライナーは村の入り口に向かって、ゆっくりと歩き出した。
「シドーさん‼」
ルティナの声に四堂悠太は、はっと我に返った。
「わ、分かった‼」
無属性魔法を発動させようとした、その時だった。
「きゃあああっ……‼」
村の広場から、悲鳴が上がった。洗濯物を干していた若い母親が、腕の中の赤子を庇いながら、その場に立ち尽くしている。逃げようにも、足がすくんで動かない。
「母ちゃん、危ない‼」
井戸端で水を汲んでいた少年が、母親のもとへ駆け出そうとする。
「明日を夢見る心など、この世界には不要だ。クライナー、彼らの夢見るドキドキハートを奪え‼」
ブリザードが叫び、クライナーが村人たちに向かって、黒い煙のようなものを吐き出した。
それは瞬く間に、広場全体を包んでいった。
黒煙に触れた者から、順に、体の輝きが失われていく。誰もが、ついさっきまで、当たり前に持っていたはずのもの——明日への期待、誰かを想う気持ち、ささやかな夢——それらが、音もなく吸い上げられていくようだった。
「あ……あ……」
母親の腕の中で、赤子が泣き止んだ。母親自身も虚ろな表情のまま、黒色に染まっていく。指先から、爪先から、彼女の体が、ゆっくりと石へと変わっていった。
「やめろ……‼ やめてくれ‼」
四堂悠太が叫んでも、クライナーは止まらない。老人も、子供も、若者も、等しく、黒煙に呑まれていく。
その光景を、ブリザードは少し離れた場所から、静かに見つめていた。
村の方角から、次々と悲鳴が上がる。四堂悠太は、村人たちが次々と石に変わっていくのを、なす術もなく見つめることしかできなかった。
(くそ……‼ 僕がもっと早く判断していれば……‼)
自分を責める暇はなかった。昔書いた小説を必死に思い出す。
(こういう、小さい村の少年が、ある日突然「お前が勇者だ」と聞かされて、魔王を倒しに行く話……前に書いたことがある気がする。あの小説のタイトルは……)
「勇者パーティを追放された勇者、ソロで魔王を倒す」
明るかった空が突然真っ暗になり、上空にキラキラ光る円陣が突如出現した。その円陣の中から、白銀の鎧を纏った一人の少年が現れた。歳の頃は、十六ほどだろうか。整った顔立ちに、澄んだ青い瞳。腰には、装飾の施された剣を下げている。
「……え、ここ、どこだ?」
少年は、辺りを見回し、それから、自分の姿を見下ろした。
「あれ、装備、戻ってる……? いや、それより——」
少年は、視線を上げ、目の前で暴れているクライナーの姿を捉えた瞬間、表情を、僅かに引き締めた。
「魔物、か。状況はよく分からないが……とりあえず、これを片付ければいいんだな?」
その口調には、迷いがなかった。まるで、こういう状況に、慣れているかのようだった。
(「勇者パーティを追放された勇者、ソロで魔王を倒す」の主人公、ニックだ。さすが勇者! 理解が早くて助かる!)
四堂悠太の脳裏に、記憶が蘇る。パーティから追放されたニックが、実は誰よりも強い『本物の勇者』だった——という、テンプレート全開の物語だ。恥ずかしすぎて、誰にも読ませたことのない作品だった。
(いや、自分で書いた小説、誰かに読んでもらったこと一度もなかったな……。新人賞の下読みさん以外で)
ニックは、剣を抜き放つと、迷わずクライナーへと駆け出した。
「はっ……‼」
鋭い斬撃が、クライナーの巨体を切り裂く。一撃、また一撃と、ニックの剣が閃くたびに、クライナーの体が、大きく怯んでいく。攻撃の合間、ニックの視線が、一瞬だけ、逃げ惑う村人たちの方へ向いた。守るべき退路を、確保するように。
(待って……‼ 僕が書いた設定より、なんか三割増しでイケメンになってない⁉ 勇者補正かかってるのかな……追放された勇者だけど)
「なるほど。動きは単純だ。……付き合ってやる」
ニックは、冷静に敵の攻撃パターンを見切りながら、着実にダメージを重ねていった。まるで、これまで幾多の強敵と渡り合ってきたかのような、堂に入った戦い方だった。
(強い……‼ これが、追放された勇者の実力……‼)
四堂悠太が見守る中、ニックの剣が、クライナーの核心を捉えた。
「終わりだ」
鋭い一閃と共に、クライナーが、大きく仰け反った。クライナーは奇妙な叫び声をあげ、周囲にピンク色のハートをまき散らしながら消えていった。あとには、淡く光る小さな結晶だけが残った。
「……片付いたか」
ニックがそう呟いたのと同時に、四堂悠太はどっと押し寄せる疲労感に、思わずよろめいた。
(うわ……。今回、結構くるな……)
東雲柚月、ヘレナ、不知火徹——これまで召喚するたびに感じてきた、あの正体不明の違和感。今、それがはっきりと、輪郭を持って分かる。体の奥から、何かがごっそりと、抜け落ちていくような感覚だった。
(そうか……。これ多分、魔力とか、そういうものなんだろうな。使うたびに、こうやって減っていくんだ)
四堂悠太は膝に手をつき、荒い息を整えた。召喚する前と後とでは、明らかに体の内側の感覚が違う。それが今ようやく、はっきりと理解できた。
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