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第四十八話 旅立ちの朝と時計塔の十分

 出発の朝、四堂悠太は、リデルに連れられて、領主の屋敷を訪れていた。腕の中には、あの茶色い犬が、大人しく抱かれている。


「ブルーム公、折り入って、お願いがあるのじゃ」


 リデルは、いつになく緊張した面持ちで、そう切り出した。ブルームは、きょとんとした顔で、悠太の腕の中の犬を見た。


「その子は……確か、リデル様たちが、飼い主を探しておられた……」

「うむ。ずっと探しておるのじゃが、未だに見つからぬ」


 リデルは、犬の頭を、そっと撫でた。


「もうすぐ、我らは旅立つ。じゃが、この子を連れて行くわけにはいかぬ。街に置き去りにするのも、違う。……だから、ブルーム公に、預かってもらえぬかと思うてな」


 ブルームは、しばらくの間、驚いたように瞬きを繰り返していた。


「わしに……ですか」

「うむ。ブルーム公になら、安心して任せられる。この子のこと、大事にしてくれるじゃろう」

「この街の噂、ご存知でしょう。わしは、あまり、評判の良い領主ではない」


 自嘲するように、ブルームは笑った。リデルは、それに対して、まっすぐに首を振った。


「噂と、我が見てきたブルーム公は、違う。三国の会合で、幾度か言葉を交わしたじゃろう。あのとき、街の民の暮らしを、誰よりも案じておったのは、ブルーム公じゃった。……我が父上も、言うておった。噂だけで人を判じるのは、王のすることではない、とな」


 その言葉に、ブルームは、驚いたように目を見開いた。

 リデルは、まっすぐにブルームを見つめた。だがその声には、いつもの快活さの中に、隠しきれない寂しさが滲んでいた。


(リデル、本当は……もっと自分の手で、この子の行く末を見届けたいはずだよな……)


 四堂悠太は、そんなリデルの横顔を見て、そう思った。それでも、リデルは、決して自分の感傷のために、この子の行き先を選んだりしなかった。誰が一番、この子を大事にしてくれるか——それだけを、考えている。


「もちろん、飼い主が見つかったら、いつでも返してやってほしい。この子には、本当の帰る場所がある。……我らが見つけてやれなんだのが、心残りじゃが」


 リデルは、そう言って、少しだけ目を伏せた。


「じゃが、それまでの間だけでも、寂しい思いをさせたくないのじゃ。……頼めるだろうか、ブルーム公」


 ブルームは、震える手を、そっと犬の頭に伸ばした。犬は、警戒する様子もなく、その手に、鼻先をすり寄せた。


「……不思議なもんですなぁ」


 ブルームは、少し掠れた声で、そう呟いた。


「わしの孫娘も、こうやって、よく捨て犬や捨て猫を拾ってきては、わしを困らせたもんです。……この子を見ておると、あの頃を思い出す」


 犬は、まるでブルームに懐いているかのように、大人しく、その手に身を委ねていた。


「リデル様。この子のこと、喜んで、お預かりします。……あんたたちが、無事に帰ってくるまで、わしが、しっかり見ておきますから」


 ブルーム公は、そう言って、深く頷いた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「……ありがとう、ブルーム公」


 リデルは、そう言って、深々と頭を下げた。それから、屈み込んで、犬と目線を合わせた。


「お前は、賢い子じゃ。ブルーム公と、仲良くやるんじゃぞ。……我らが帰ってくるまで、な」


 犬は、まるで言葉が分かるかのように、リデルの手に、そっと頬を擦り寄せた。リデルは、少しの間、それを撫で続けていたが、やがて、名残惜しそうに、手を離した。


「……行くぞ、シドー」

「うん」


***


 ブルーム公の屋敷を後にして、四堂悠太は、街の中央にそびえる時計塔の前で、ふと足を止めた。

 このリューベックのシンボルを、旅立つ前に、もう一度目に焼き付けておきたかった。


(しばらく、見られなくなるもんな……)


 見上げた瞬間、思わず息を呑んだ。


(——え?)


 時計の針は、十二時四十五分を指していた。


 この街に初めて来たときは、時計は十三時だった。次にリデルと見た時が、十二時五十五分で、今、十二時四十五分。確実に、針が戻っている。それだけは、間違いなかった。


 背筋に、冷たいものが走った。以前、初めて時計塔の異変に気づいたときのことを思い出す。あのときも、隣にいたのはリデルだった。


「シドー、どうかしたか?」


 考え込んでいると、隣に並んだリデルが、四堂悠太の視線を追って、時計塔を見上げた。


「あ……いや、その、時計の針が……」


 恐る恐る、時計塔を指差した。


「うむ? あぁ、また落ちておるのう。この時計塔、完全に壊れておるな」


 リデルは、あっさりとそう言って、興味なさそうに視線を逸らした。


「重力で針が下がっとるだけじゃろう。前にも、そう言うたはずじゃぞ」

「そう……だよね。うん、そうだよな」


 四堂悠太は、曖昧に頷いた。でも、心のどこかで、何かが引っかかったままだった。


(重力で落ちるにしては、律儀に十五分なんだよな……。前は五分だったし。どこの時計も、そんな几帳面な壊れ方はしないと思うんだけど)


「それより、シドー、急ぐぞ!」


 リデルが、四堂悠太の袖を、ぐいっと引っ張った。


「え、あ、うん……。でも、なんで急に?」

「犬を預けておったら、思ったより時間がかかってしまったようじゃ。魔王討伐の旅に出ようというのに、出立の時間に遅れでもしたら……ルティナが怒り狂う様が目に浮かぶ」


 リデルは、そう言うと、四堂悠太の返事を待たずに、駆け出した。


「あ、待ってよ、リデル‼」


 慌てて、その後を追いかける。時計塔の違和感は、拭いきれないまま、心の奥に、そっと沈んでいった。

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