第四十一話 領主の秘密
ルティナがリューベックの街に来たのは、三年ほど前のことだった。
前領主が魔王軍の脅威から逃げ出して、ちょうど一年が過ぎた頃だ。街は、想像していたよりもずっと酷い有り様だった。壊れた建物はそのまま放置され、路地裏には行き場を失った人々がうずくまり、昼間から強盗や喧嘩騒ぎが絶えない。かつてクライナーが街で暴れ、建物を破壊していったその爪痕は、一年が過ぎた今も、あちこちに残っていた。統治する者を失った街というのは、こうも簡単に崩れてしまうものかと、ルティナは言葉を失った。
(これが、最前線の街の現実ですか……)
もっとも、ルティナが世界を救い隊に加わったのは、大した覚悟があってのことではなかった。魔王軍だの、世界の命運だのと聞かされても、どこか他人事のように感じていた。強いて言うなら、退屈しのぎだ。底なしと言われる自分の魔力が、この世界でどこまで通用するのか——ただ純粋に、興味があっただけだった。
(世界を救うなんて、大層な話だとは思いますけど……。まぁ、暇つぶしにはちょうどいいでしょう)
寿命が長いエルフの暇つぶし、そんな軽い気持ちで飛び込んだ場所で、ルティナはリデルとアレクシアに出会った。
最初は、二人のことを微笑ましく思っていた。街に着いてすぐ、住民たちは口々に困りごとを訴えてきた。畑を荒らす魔物を追い払ってほしい、崩れた井戸を直してほしい、行方の分からない孫を捜してほしい——世界の命運を左右する大事から、道端の小さな悩みまで、ありとあらゆる頼み事だった。
リデルとアレクシアは、その一つひとつに、律儀に応えていった。
(この人たち、世界を救いに来たはずなのに、街の人たちの困りごとを全部解決しようとして……。それじゃ、世界を救うのはいつになるんだか)
ルティナは、次第に呆れていった。予想通り、二人が請け負う依頼は、すぐに手に負えない量になった。それでも街の治安は一向に良くならず、次から次へと新しい頼み事が舞い込んでくる。リデルとアレクシアは、日に日に疲れを溜めながらも、誰一人として見捨てようとしなかった。
(お人好し、なんて言葉じゃ片づけられない。あの二人は本気で、全部背負おうとしていますね……)
その姿を見ているうちに、ルティナの中で、何かが静かに揺れ動いた。
計算も損得もなく、ただ目の前の誰かのために、当たり前のように手を差し伸べる。ルティナが心のどこかで、ずっと憧れながら、できなかった生き方だった。
(これが……私の、本当になりたかった姿なんだ)
同時に、恐怖にも似た予感があった。街の人々がこのまま頼り続ければ、二人はいずれ擦り切れて、壊れてしまう。彼らが困っているのは、紛れもない事実だ。それでも、たった二人の善意に、街ひとつ分の重さを背負わせていいはずがない。
(このままじゃ、駄目。……私の理想そのものであるあの二人を、絶対に守らなきゃ)
ルティナは決めた。この街の領主になろう、と。
自分が街の仕組みそのものを立て直せば、リデルとアレクシアが、一人ひとりの頼み事に体を削って応える必要はなくなる。二人を守り、この街を守り、そして三人で——世界を救う。それが、ルティナの出した結論だった。
最初に手をつけたのは、税制の見直しだった。住民には、これまでの二倍の税を課した。反発は覚悟の上だったが、それ以外に、街を再建する資金を作る方法が思いつかなかった。同時に、周辺の街や村から行商人を呼び寄せることにした。行商人には、この街での自由な商いと安全を保障する代わりに、売り上げの一部を受け取る。そういう約束だった。
軍も一から作り直す必要があった。もっとも、前領主が逃げた際に、お抱えの軍隊も散り散りになっていたから、一から作り直すというより、ゼロから作るというのが正確だったけれど。
ルティナは、冒険者ギルドに相談することにした。最前線の街に留まり続けている冒険者というのは、それだけで気骨のある人たちばかりだ。「この街と、この世界を守りたい」——そう思っている人が、思っていた以上にたくさんいた。
しかも好都合なことに、世界を救い隊隊長のヴィクターも、副隊長のコレットも元冒険者で、リューベックの街の冒険者の中にも、すでに世界を救い隊の隊員が何人かいた。組織と冒険者ギルドとの間には、もとから太いパイプがあったのだ。
だから、ルティナが声をかけると、話はあっという間にまとまった。
彼らを「世界を救い隊リューベック支部」として組織し、犯罪の取り締まりと未然の警備、壊れた街の修復、そして魔王軍への備えとしての城壁建設——これらの仕事を任せ、お給料を払うことにした。財源は、二倍にした税収と、行商人からもらったお金だ。
けれど、そう簡単に全てがうまくいくはずもなかった。
重罪を犯す者は、街の混乱に乗じて一向に減らなかった。処罰するにも、更生を促し牢屋に入れておくにも、そのための余裕が、この街にはどこにもなかったのだ。まず何の罪も犯していない住民たちの生活を立て直すことだけで、ルティナたちは精一杯だった。
そこで、アルブリー王国のことが思い浮かんだ。
ここヴィンラント連合は、エルフの国だ。それぞれの領主が長年自治統治を続けていて、その自治を重んじるあまり、長老ですら各領地の政治に口を挟むことができない。一方のサランセルゴ共和国は、つい最近まで王国だった。王が悪政を敷いたことで、貴族と民が結託して内乱を起こし、数年前に貴族共和政という珍しい政治形態になったばかりだ。
つまり、この二国は、どちらもトップが全権を握るような政治形態ではなかった。
その点、アルブリー王国だけは違う。長く王制が続いていて、王の一声で大体のことが決まる。しかもアルブリー王国は、獣人の力を生かした大型建造物の建築を得意としていた。三国が和平協定を結んで以降、その技術と職人を、積極的に他国へ貿易で送り出していたのだ。魔王軍が世界各地を破壊し続けたせいで、大型建造物の需要はどの国でも高まっていて、アルブリー王国の技術と職人はまさに引く手あまた。王自身も、建造業に携わる人材をもっと増やしたいと考えていたところだった。
ルティナはエルフの長老に紹介状を書いてもらい、アルブリー王に直接取引を持ちかけた。
「リューベックの街で重罪を犯した者たちを、刑期労働者として引き取っていただけないでしょうか」
王は即断即決で引き受けてくれた。代金を支払ってくれた上、「リューベックの統治、頑張りなさい」と、激励の言葉までかけてくれた。
これで、全てがうまく回り始めた——ルティナはそう思った。でも、どうしても拭えない懸念が、一つだけ残っていた。
リデルとアレクシアのことだ。
リデルは、民を守る強い王になりたい、そして全ての動物も救いたいと言う。アレクシアは、困っている人や弱い人を全て助けたいと言う。綺麗事すぎた。でも、そんな夢みたいな理想を信じている二人が、ルティナには尊く思えた。本当は、あんな風に計算せずに動ける人になりたかった。でも、なれなかった。二人は、ルティナが憧れる生き方を、そのまま体現してくれている親友だ。
だからこそ、あの二人にだけは、世の中の汚いものを見せたくなかった。そんなものを見て、せっかくの純粋さが損なわれるようなことがあれば、ルティナはきっと耐えられない。
(重罪人とはいえ、他国に引き取ってもらったうえ、お金まで貰っているなんて、二人は嫌がるでしょう)
だから、決めた。汚れ役は、全部自分一人が引き受けようと。
汚れ役は、それだけではなかった。
リデルとアレクシアが、この先世界を救うために戦い続けるには、それぞれに欠かせないものがあった。リデルには、心を落ち着けるための動物のコレクション。アレクシアには、来るべき捨て身の戦いに備えて精神を鍛え上げる、賭博という名の訓練。二人にとってそれは、単なる趣味や道楽ではなく、これから先も世界を救う戦力であり続けるための、いわば投資だった。
ヴィクターたち世界を救い隊は、三人の生活費として、多めのお金を渡してくれていた。それでも、到底足りない額だった。だから、その不足分には、リューベックの財源が充てられていた。
傍から見れば、これは領主の権限を利用した、ただの私的流用に映るだろう。実際、ルティナ自身、後ろめたさがまったくないと言えば嘘になる。それでも、リデルとアレクシアは、世界を救うために欠くことのできない人材で、能力も持っている。二人の力を最大限に引き出すためであれば、必要経費だとルティナは割り切ることにしていた。
これも、誰にも打ち明けるつもりのない、ルティナだけの秘密だった。
世界を救い隊の副隊長、コレットのことも、ルティナは何度も思い浮かべた。副隊長は頭も切れるし、口も堅い。話しても、外に漏れる心配はまずないだろう。
でも、結局は話せなかった。
コレットは、根が真面目すぎる。上司であるヴィクターに秘密を抱えたまま黙っているということが、彼女にとって、どれほどの重荷になるか、ルティナには容易に想像がついた。真実を知れば知るほど、コレットは誠実であろうとするほどに苦しむだろう。それなら、いっそ何も知らせない方がいい。
隊長のヴィクターには、なおさら言えなかった。とても良い人だが、うっかり者なところがあるから、つい二人に話してしまうかもしれない。だから、世界を救い隊にも内緒で動くことにした。アルブリー王にも、この取引が自分の一存によるものだと伏せて、口止めをお願いした。
最後に必要だったのは——表向きの「領主」だった。
その人は、酒場の片隅で見つけた。酔いつぶれて、誰にも相手にされていない、初老のホームレスの男性。名を、パイロ・ブルームといった。魔王軍の攻撃で、家も、家族も、仕事も、全てを失い、自暴自棄になっていた人だった。
「これから先、傀儡の領主として、生活の安心と安全を保障します。その代わり——私の影武者になっていただけませんか」
ブルームは、しばらくの間、焦点の定まらない目でルティナを見つめていた。長年浴び続けてきた酒のせいか、それとも突然の申し出に頭がついていかないのか、ルティナには判断がつかなかった。
「……わしのような者に、そんな大層な役目が務まるのか」
掠れた声で、ブルームがようやく言った。
「務まるかどうかではありません。務めていただきたいのです」
ルティナがまっすぐに見つめ返すと、ブルームの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「わしは、家族も、家も、仕事も、全部魔王軍に奪われた。生きとる意味なんぞ、とうにないと思っとった……。それを、あんたは、わしに——」
言葉にならず、ブルームは何度も洟をすすり上げた。しばらくして、ようやく声を絞り出した。
「あんたは、わしの命の恩人じゃ。この命、あんたに預ける。これから先、どんな仕事でも、わしは言われた通りにやる。それでこの命に、少しでも意味があるなら——わしは、喜んでその役目、引き受けさせてもらう」
ブルームは、震える手で、ルティナの手を強く握りしめた。
ルティナの脳裏に、初めて会ったときから抱いていた、ある違和感がよぎった。ブルームの目元の皺の寄り方、困ったように下がる眉尻——どこか、亡くなった祖母によく似ている。
後で知ったことだが、ブルームの亡くなった孫娘に、ルティナはとてもよく似ていたのだった。




