第三十八話 この子の帰る場所
四堂悠太は、宿屋の片隅で丸くなっている犬を見て、ふと我に返った。
茶色い毛並みに、片方だけ垂れた耳。リデルが拾ってきてから、もう何日経っただろう。名前もまだつけていないのに、すっかりこの宿屋の一員のような顔をして眠っている。
(あれ……。よく考えたら、この子、このままずっとこの宿で世話をするつもりだったのか……? いや、危ういだろ。いつ魔王軍の幹部が、街を襲ってくるか分からないのに)
嫌な想像が浮かんだ。もし次の戦闘で、この子が巻き込まれてしまったら。もし、守りきれなかったら。
リデルがどれほど悲しむか、考えるだけで胸が痛んだ。飼い主が見つからなかったら、この街で、可愛がってくれる人を探すしかないのかもしれない。でもそれは、どうしても飼い主が見つからなかったときの、最終手段だ。
(誰にも言わず、こっそり飼い主を探そう……。もし見つからなかったら、その時はその時で、ちゃんとリデルと相談すればいい)
それから数日、四堂悠太は暇を見つけては、街の掲示板や、犬を保護しそうな組合、獣医のような施設を回った。誰かに聞かれたら「散歩です」とごまかしながら。
(……犬、連れてないのに、散歩は苦しくないか、これ)
自分で言っておきながら、突っ込みどころ満載な言い訳だと気づいたのは、三回目くらいだった。
だが、いくら探しても、手がかりはなかった。
ある日、疲れ切って宿屋に戻ると、リデルが縁側で犬と遊んでいるところに出くわした。犬は、リデルの手のひらに顔を擦り寄せて、気持ちよさそうに目を細めている。
「シドー、見てくれ。この子、最近は我の足音だけで、尻尾を振るようになったのじゃ」
「そうなんだ……。すごく懐いてるね」
***
思い出すのは、リデルが最初にこの犬を拾ってきた日のことだ。あの時、血まみれになるほど噛みつかれていたのが、今では嘘みたいだった。
裏路地でうずくまっていた犬を見つけたリデルは、迷いなく両手を伸ばした。四堂悠太は慌てて止めようとしたが、その時にはもう遅かった。
「うおっ⁉」
犬が牙を剥き、リデルの腕に噛みついたのだ。それも一度や二度ではない。血飛沫が飛ぶほど強く、何度も。
「いだだだああああッッッ‼」
リデルは、盛大に叫びながらも、なぜか腕を引かなかった。
「リ、リデル! 放して、その子から離れて!」
「な、なに、これしき……この程度、へでもないわ‼ ……よーし、よしよし……いだッ、いだだだだあぁぁぁぁッッッ‼」
全然へでもなさそうだった。血が滴るほど噛まれているのに、リデルはもう片方の手で、震える犬の背中を、ゆっくりと撫で続けた。
「怖かったのじゃな。すまんな、いきなり……って、痛、いだだだあぁぁぁぁッッッ‼」
優しい言葉と悲鳴が、同時に飛び出してくる。このままだと失血死するかもしれないと思って、慌ててリデルの腕から犬を取り上げた。
四堂悠太の腕の中で、さっきまで散々暴れていた犬は、びっくりするほどおとなしくなった。
「……シドー、お主、動物に好かれるようじゃな……」
リデルは驚きつつも、少し不満そうだったが、噛みつかれ過ぎて失血死しそうな勢いだったから、四堂悠太が犬を抱っこすることに反論はしなかった。
***
「うむ。でもな……時々、こう、遠くを見るような顔をする時があるんじゃ。何かを探しておるような、そんな顔を」
リデルは、犬の頭を撫でながら、少しだけ声を落とした。
「我には、分かる。動物は、言葉を話さぬが、ちゃんと気持ちがあるのじゃ。この子はきっと、誰かを待っておる」
その言葉に、どきりとした。
(リデル……もしかして、気づいてるのか)
「我も、実は少し前から、こっそり探しておったのじゃ。この子の元の飼い主を」
「え……」
「シドーも、探してくれておったのであろう? 気づいておったぞ。最近、やたらと出かけては、疲れた顔で帰ってくるのでな」
リデルは、いたずらっぽく笑った。
「な……なんだ、バレてたのか」
「バレるも何も、シドーは分かりやすいのじゃ」
四堂悠太は、頬が熱くなるのを感じながら、頭を掻いた。
「ごめん、リデルに黙って動くのはずるいと思ったんだけど……この子、もしこの街に魔王軍が攻めてきて、守れなかったら……って考えたら。それが嫌で」
「うむ、我も同じことを考えておった」
リデルは、犬の頭を、ゆっくりと撫でた。
「この子と一緒にいられるのは、幸せじゃ。じゃが、我が幸せであることと、この子が幸せであることは、必ずしも同じではない。動物にも、動物の帰る場所があるんじゃ。人と同じようにな」
その言葉を聞いて改めて、リデルの優しさの根っこにあるものを見た気がした。
可愛いから、そばに置いておきたい。それだけではない。この子にとって何が本当の幸せなのか、リデルはちゃんと考えている。
それから何日探し回っても、手がかりは一つも見つからなかった。掲示板を見た人から声をかけられることも、獣医の施設で似た犬の話を聞くこともない。
それでも、二人は諦めなかった。暇を見つけては、街のあちこちを回り続けた。気づけば、示し合わせたわけでもないのに、リデルと同じ時間に同じ場所を回っていることも増えていった。
「見つからぬのぅ……」
ある日、疲れた足取りで宿屋に戻ってきたリデルが、ぽつりと呟いた。犬は、二人の足音を聞き分けて、いつものように尻尾を振って迎えてくれる。
「うん……。でも、諦めたわけじゃないよ。きっと、いつか見つかる」
「……そうじゃな。この子には、この子の帰る場所がある。我らが見つけてやらねば」
そう言いながらも、リデルは、犬の頭を撫でる手を止めなかった。その横顔には、見つけたいという願いと、見つかってしまえば別れが来るという寂しさが、同時に滲んでいるようだった。
(リデルは、きっと分かってる。……見つからないことに、少しだけ、ほっとしてる自分がいることも)
それでも二人は、次の日も、その次の日も、暇を見つけては飼い主を探し続けた。答えの出ない毎日が、静かに積み重なっていった。




