第百四十八話 あまりにも普通だった
馬車は、サランセルゴ共和国の首都を南へ進んでいった。
朝の大通りは、すでに多くの人で賑わっている。
石造りの建物が立ち並び、店先では商人たちが商品を並べ、通りでは荷車が行き交っていた。焼きたてのパンを売る店からは香ばしい匂いが漂い、その少し先では、野菜を積み上げた露店の前で、店主と客が値段を巡って言い合っている。
新しい行政庁舎の前では役人たちが忙しそうに行き来していた。その横を、学校へ向かうらしい子どもたちが、笑いながら駆け抜けていく。
どこにでもある朝だった。
この世界で暮らす人々にとっては、今日も昨日から続いている、ごく普通の一日なのだろう。
(……誰も知らないんだよな)
パンを買っている女性も。
荷車を押している商人も。
友達と笑いながら歩いている子どもたちも。
この世界が、近いうちに滅びるかもしれないことを知らない。
(本当に、滅びるのか……?)
目の前の光景を見ていると、到底そんなことが起きるようには思えなかった。
空が赤く染まっているわけでもない。
大地に亀裂が走っているわけでもない。
人々は普通に働き、笑い、今日の昼食や明日の予定を考えている。
何も変わっていない。
だからこそ、スターウンディーネの言葉だけが、この景色からひどく浮いているように感じられた。
やがて馬車は城門を抜け、首都の外へ出た。
高い建物が少しずつ減り、街道沿いの景色も住宅から農地へと変わっていく。遠くには小さな集落が見え、荷物を積んだ馬車や旅人たちとも何度かすれ違った。
それでも、馬車の中は静かだった。
普段なら、そろそろリデルが「腹が減ったのじゃ」と言い出す頃だ。あるいは窓の外に何か珍しいものを見つけて騒ぎ始め、アレクシアに呆れられている。
今日は、何も言わない。
四堂悠太が横を見ると、リデルは窓の外へ顔を向けていた。黄褐色の猫耳も静かで、いつもなら感情を隠さず動き回る尻尾も、座席の横で力なく垂れている。
向かいでは、ルティナが何か考え込んでいた。肩に触れる程度の銀髪が馬車の揺れに合わせて僅かに動いているが、青い瞳はずっと伏せられたままだ。
御者台のアレクシアから聞こえてくるのも、時折馬へかける声くらいだった。
(……静かだな)
昨日までなら、こんなことはなかった。
誰かが黙れば、誰かが喋る。
リデルがくだらないことを言えば、アレクシアが呆れ、ルティナが微笑み、四堂悠太も余計なことを言って巻き込まれる。
そんな時間が、いつの間にか旅の日常になっていた。
けれど今は、何を話しても、最後には同じことを考えてしまう。
——この世界は、もうすぐ滅びます。
(……また、それか)
何度頭から追い出そうとしても、スターウンディーネの声が蘇ってくる。
世界が本当に滅びるのかどうかは、まだ分からない。
ただ、ウンディーネ自身はそれを本気で信じていた。
ならば、無視することもできなかった。
何が起こるのか。
いつ起こるのか。
どうすれば止められるのか。
今のところ、何一つ分からない。
***
昼を過ぎた頃、馬車はサランセルゴ共和国との国境を越え、アルブリー王国へ入った。
「……久しぶりの故郷じゃな」
外を眺めていたリデルが、ぽつりと呟いた。
「懐かしい?」
「うむ。景色そのものは、そう変わっておらぬ」
リデルはそう言って、黄褐色の猫耳を僅かに動かした。
「この辺りまで来ると、空気まで懐かしく感じるのじゃ」
「空気って、そんなに違うの?」
「獣人には分かるのじゃ」
「本当かなぁ……」
「疑うでない!」
ほんの少しだけ、いつものリデルが戻ってきた。
四堂悠太も思わず笑いそうになった。
けれど、窓の外へ目を向ける。
どこまでも続く街道。
遠くに見える山。
風に揺れる草原。
リデルが懐かしいと言った景色が、そこには当たり前のように広がっている。
(……ここも、なくなるのか?)
胸の奥に浮かんだ言葉を、四堂悠太は口にはしなかった。
***
日が傾き始めた頃、四堂悠太たちは、街道から少し外れた林の近くで馬車を止めた。
土の精霊の祠までは、まだ距離がある。
暗くなってから無理に進むより、今夜はここで休み、翌日の昼頃までに到着する予定だった。
馬に水と餌を与え、荷物を下ろし、簡単な食事を用意する。
携帯していた干し肉に、ヴィクターから餞別でもらったハチミツをかけて食べた。
以前、四人で休憩したときにも同じものを食べて、「意外とおいしい」と思った。
味は、きっとあのときと変わらない。
それなのに今は、なぜか前よりも少しだけ、おいしく感じられた。
やっていることは、いつもの野営と変わらない。
ただ、いつもより会話が少なかった。
完全に日が暮れた頃には、四人の間にある小さな焚火だけが、辺りを照らしていた。
ぱちっ、と乾いた枝が火の中ではぜる。
夜風が木々を揺らし、遠くでは虫が鳴いている。
それ以外には、ほとんど何も聞こえなかった。
四堂悠太は、焚火の向こうにいる三人へ目を向けた。
リデルは膝を立てるようにして座り、ぼんやりと炎を眺めている。普段なら食事が終わった直後から次に食べるものを探し始めるくらいなのに、今日はそんな気配すらない。
アレクシアは、手元にあった小枝を一本、焚火の中へ放り込んだ。炎が一瞬だけ大きくなり、白銀の鎧に赤い光が揺れる。
ルティナも、ずっと黙っていた。
肩までの銀髪を夜風に揺らしながら、青い瞳で焚火を見つめている。
四堂悠太も、何か話そうとは思った。
明日の土の精霊の祠のこと。
四人目の魔法少女、スターノームのこと。
昼間のリデルの「獣人には空気の違いが分かる」という、いまだに少し疑わしい話でもいい。
話題なら、いくらでもあるはずだった。
けれど、口を開こうとするたび、別の言葉が頭をよぎる。
世界が滅びるかもしれない。
その一言が、何もかもを遠ざけていた。
(昨日までは、こんなこと考えもしなかったのにな……)
明日は祠へ行く。
スターノームと会う。
その先にも、まだ旅は続いている。
そして旅が終われば、みんなそれぞれの場所へ帰っていく。
昨日までは、それが当たり前だと思っていた。
けれど今は、その当たり前にさえ、「本当にそうなるのか」という疑問がついて回る。
ぱちっ、と、また焚火がはぜた。
四堂悠太は炎を見つめたまま、無意識に拳を握る。
空を見上げれば、昨日までと変わらない星空が広がっていた。
あまりにも静かだった。
あまりにも普通だった。
この世界に何かが迫っているなんて、夜空は何一つ教えてくれない。
「……シドーさん」
突然、ルティナの声がした。
「うん?」
四堂悠太が顔を上げる。
ルティナは、もう焚火を見ていなかった。
青い瞳を真っ直ぐこちらへ向けている。
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