第百十九話 悪徳領主と呼ばれた男——酒盛りは少々では済まない
そんなやり取りをしていると、部屋の奥から一人の男が姿を現した。
白い髭を蓄えた初老の紳士——ブルーム公だった。
「随分と賑やかだと思えば……皆さん、お戻りになられたのですな」
穏やかに笑いながら歩いてきたブルーム公は、ルティナの姿を見つけた瞬間、僅かに目を細めた。
「……ルティナ嬢。ご無事で」
「はい。……ご心配をおかけしました」
ルティナは、丁寧に頭を下げた。
「ブルーム公も、この街を守っていてくださり、ありがとうございます。コレット副隊長も、本当によく頑張ってくれました」
「なに、わしは何もしとりません」
ブルーム公は、そう言って照れたように白い髭を撫でた。
「わしにできることなど、そう多くはありませんからな。あの娘が街のために走り回っているのを見守り、時折相談に乗った程度のことです」
「それを何もしていないとは言わないと思いますが」
ルティナが思わず口を挟むと、ブルーム公は小さく笑った。
「そうでしょうかな。まあ、年寄りが口を出しすぎても、若い者の邪魔になりますからな」
「いやいや」
ガルダが横から首を振った。
「ブルーム公がいてくださったおかげで、コレット副隊長も随分助かっておりましたぞ。何かあれば相談できる相手がいるというのは、大きいものです」
ガルダの言葉に、ブルーム公は少し居心地が悪そうに白い髭を撫でた。
「街の方々の間でも、少しずつブルーム公を見る目が変わってきているようです」
ヘンリルも続けた。
「……そうなのですか?」
「はい。今でも悪徳領主だと言う方はおられます。ですが、魔王軍との戦いが続く中でもこの街を離れず、復興や警備に携わる冒険者の方々と、日々言葉を交わしておられる姿を見て、以前とは違う見方をする方も増えてきました」
「……そういえば」
犬を抱いていたリデルが、ふと思い出したように口を開いた。
「昔、一人だけおったな。『わしは、ブルーム公が街を守ってくれとるんじゃないかと思うんじゃが……』と言っておった老人が」
リデルは、少し懐かしそうに目を細めた。
「あの時は、周りの者たちに笑われておった。我も正直なところ、買い被りではないかと思っておったが……」
それから、ブルーム公を見る。
「あの老人の方が、我よりもちゃんとお主を見ておったのかもしれんな」
「そのような方が、おったのですか」
ブルーム公は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「うむ。それに我も、以前は噂だけを聞いて、お主のことを随分と悪く言ってしまった。……すまなかったな、ブルーム公」
「いえいえ。お気になさらず」
ブルーム公は、穏やかに首を振った。
「あのような噂が立っておったことは、わしも承知しとります。それに、何をしておるのか、ろくに説明もしておりませんでしたからな。なにせ、元は貴族でも何でもない、宿なし同然の身でした。急に領主らしく振る舞うことになって、それだけで精一杯でした」
「……そうだったのか」
「はい。言葉遣い一つ取っても、この通りです」
ブルーム公は苦笑した。
「民に何を説明すれば良いのか、どこまで口にして良いのか。そんなことを考えているうちに、気づけば『悪徳領主』のできあがりですな」
「それを笑って言うでない」
リデルが呆れたように言ってから、真っ直ぐにブルーム公を見る。
「噂だけで人を決めつけるのは良くない。父上からも、そう教わっておったのにな」
「……リデル様」
ブルーム公は一瞬だけ言葉を失い、それから照れ隠しをするように髭を撫でた。
「まあ、わしがしていたことなど、コレット副隊長の相談に乗った程度のものです。それから……夜になれば、ガルダ殿とヘンリル殿に酒へ少々付き合っていただいたくらいですな」
「……そちらは『少々』では済まなかったと思いますが」
ヘンリルが淡々と言った。
「ヘンリル殿も、随分と飲まれとったではないですか!」
ブルーム公が珍しく声を上げた。
「私は、お二人ほどではありません」
「いやいや」
ガルダが楽しそうに笑いながら割って入る。
「私は今まで、ヘンリルほど酒に強い者はアルブリー王くらいだと思っておりましたがな。ブルーム公も、まったく負けておりませんでした」
「ガルダ殿まで……」
「なんじゃと?」
その言葉に、リデルの耳がぴくりと動いた。
「父上と同じくらい飲むのか?」
「いや、それは少々大袈裟な——」
「大袈裟ではありませんな」
ガルダが即答した。
「では、飲み会などという可愛らしいものではないではないか。酒盛りじゃろう、それは」
「姫様。ちなみにガルダも同程度です」
ヘンリルが冷静に付け加えた。
「ヘンリル! なぜそこで私まで巻き込む!」
「今さら巻き込むも何も、ガルダとヘンリルが父上と同じくらいの酒豪だということは、とうに知っておったぞ」
リデルは呆れたように尻尾を揺らした。
「お主らの酒盛りを何度も見ておれば、誰でも分かるわ」
「姫様、それは誤解ですぞ」
「どこがじゃ」
「量です。同じくらいではございません。アルブリー王の方が、我らよりも少々多く召し上がります」
そう言ったガルダの隣では、ヘンリルが当然のように小さく頷いている。
「そこを訂正するでない‼ 正確な量などどうでもよいわ‼」
ガルダの至極真面目な返答に、リデルが思わず声を上げた。
それから三人を見渡し、ふっと表情を緩める。
「まあ……楽しそうで何よりじゃ」
そして少しだけ羨ましそうに、続けた。
「次は我も混ぜるのじゃ!」
「姫様は、まずその犬に腕を噛まれるのをやめてからにしてください」
「我が噛ませておるわけではない‼」
久しぶりに、部屋へ笑い声が広がった。
その様子を、ルティナは静かに眺めていた。
コレットが街を走り回り、ガルダとヘンリルが人々を支え、冒険者や騎士、魔導士たちも、それぞれにできることを続けている。
そしてブルーム公もまた、自分にできるやり方で、この街に残り続けてくれていた。
(いいえ、ブルーム公)
本人は何もしていないと言うけれど、そんなはずはない。
誰かの相談に乗ることも。
不安な者たちのそばにいることも。
自分より若い者たちが前へ進めるよう、後ろから支えることも。
きっと、街を守ることの一つなのだ。
(あなたも、この街を守ってくださいました)
ルティナは、その言葉を胸の内だけにしまい、ほんの少し微笑んだ。
行き交う人々の声。遠くから聞こえてくる商人の呼び声。復興作業を続ける冒険者たちの姿。
(……この街を、守りたい)
ふと、そんな言葉が胸に浮かんだ。
これまでだって、リューベックを守ろうと思ってきた。けれど、それはリデルとアレクシアのためであり、この世界を救うためでもあった。今胸に浮かんだものは、それとは少し違う気がした。
(……どうしてでしょうね)
答えは、まだ分からなかった。
ただ、久しぶりに戻ってきたこの街を見ていると、すぐに離れてしまうことが、少しだけ名残惜しく感じられた。
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