第99話【新章】馳せる想い
紗世が和泉国へ里帰りして、一年半が経とうとしていた──。
「紗世様。陰陽頭様より、お文が届いております。」
真砂が静かに御簾を上げ、文を差し出した。
紗世はそれを受け取り、指先で丁寧に広げる。
一行、二行と読み進めるうちに、その表情はわずかに曇った。
「陰陽頭様は、何と?」
覗き込むように問う真砂に、紗世は小さく息を吐く。
「……もうしばらく、和泉国にいた方がいいだろうって。」
言い終えると、文を静かに畳んだ。
紗世が都を離れて間もなく、宮中では政の争いが激化していた。
新たに即位した帝を推す右大臣方の勢力。
それに対し、別の親王を擁立しようとする新興の一派。
両者の対立はやがて表に現れ、都を揺るがす騒動へと発展していく。
右大臣方の側近が原因不明の病に倒れ、不正の噂が広まり、一方では夜討ちや、東宮を狙った拉致未遂まで起こる。
華やかな宮中の裏で、目に見えぬ争いが、静かに、しかし確実に激しさを増していた。
「陰陽頭様のところにも、秘密裏に……呪詛の依頼が、かなり届いていたみたい。」
紗世が言うと、真砂は扇で口元を覆い、息を呑む。
「まあ……それで、陰陽頭様は……?」
紗世は少しだけ声を落とした。
「名前も明かさないまま、“あの方を病に伏せよ”とか、“懐妊を止めよ”とか……中には、“三日で命を絶て”なんて文もあったって。」
真砂の肩がびくりと揺れる。
「成功すれば、望む官位でも領地でも与える……そういう条件まで書き添えられていたらしいよ。」
一瞬、部屋の空気が冷えたように感じられた。
「もちろん、すべて断ったって。あの人、軽そうに見えるけど……そういうところは外さないんだよね。」
わずかに苦笑を浮かべながらも、その声音には確かな信頼が滲んでいた。
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もし紗世が都に留まっていたなら、この争いに巻き込まれていた可能性は高い。
実際、紗世が六条御息所の邸を離れて数日後、
六条邸に何者かが紗世を訪ねてやって来た。
「療養のため和泉国へ下った」と伝えられたものの、それを信じなかったらしい。
二日後の夜──
六条邸に押し入った男が、女房たちの制止を振り切り、年若い女房の部屋へと踏み込んだ。
紗世と誤認したのか、最も若い女房に襲いかかろうとしたところを、供の者たちに取り押さえられ、大騒ぎとなった。
男は、右大臣方の末席に連なる家の子息だった。
紗世を手籠めにし、既成事実を作れば、派閥内での立場を引き上げられる──
その浅ましい思惑の果ての行動だった。
しかし、この件が表沙汰になると、右大臣方はただちに切り捨てた。
「そのような者は、我らの知るところではない」
冷然とした一言だけを残して。
その知らせを受け取ったとき、紗世は背筋が凍る思いがした。
もし、あのまま都に残っていたなら──。
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その後、新たな帝が即位するまでは和泉国に留まるよう、六条御息所、陰陽頭、そして源氏の君からも文が届いた。
やがて朱雀帝が即位したが、なお宮中は安定には程遠い。
敗れた新興勢力の動きも、完全には沈静していなかった。
そうした情勢を見極めた陰陽頭が、改めて送ってきたのが、先ほどの文である。
「……いつまで、ここにいればいいのかな……。」
紗世はぽつりと呟いた。
「もう一年半もいるのに……。」
その声音には、隠しきれない寂しさが滲んでいる。
すると真砂は、柔らかく微笑んだ。
「真砂は、紗世様がお戻りになられて、こうしてお側にいられること……嬉しく思っております。」
その言葉に、紗世ははっと顔を上げた。
「あっ、真砂と一緒にいられるのは嬉しいよ! 都にいたときは、会えなくて寂しかったんだから!」
「ふふ……ありがたきお言葉にございます。」
真砂は嬉しそうに笑い、ふと視線を落とした。
「けれど……紗世様が再び都へ戻られたとき、また危険な目に遭われるのではと思うと……このまま、こちらにいらした方がよいのではと、つい思ってしまうのです。」
和泉へ戻った折、紗世は都での出来事を余すことなく語った。
飾り髪で流行を生み出したこと。
それがきっかけで、民部卿の姫君の反感を買ったこと。
陰陽頭との繋がり。
そして、自らが呪詛を弾く体質であること。
飾り髪にもまた、呪詛を退ける力が宿ること。
呪詛を受け、結界に閉じ込められたこと。
やがて「呪詛を弾く女房」として噂され、政治に利用されかねぬ立場となったこと──。
その一切を聞いた母は、気を失いかけ、父は顔色を失ったまま、「軽々しく都へ送り出したこと」を悔いた。
それでも紗世は語った。
六条御息所の気高さを。
源氏の君の懐の深さを。
陰陽頭の確かな力と、いざというときに差し伸べられる手を。
やがて父である和泉守は、静かにこう言った。
「六条御息所様と陰陽頭殿が、そなたを都へ戻してもよいと判断されたなら……その時は、再び上ってよい。」
それ以来、紗世は折に触れて文を送り、都の様子を問い続けていた。
六条御息所へ。
陰陽頭へ。
遠く離れた都を、思いながら──。




