第100話 都からの使者
───和泉国・郊外
晩夏の風が、ゆるやかに草を揺らしていた。
牛車を降り、紗世は大きく息を吸う。
(……少し、秋の匂い。)
少し軽くて、少し湿っていて、どこか懐かしい。
「紗世様、あまり遠くへは──」
後ろから真砂の声。
「大丈夫、すぐそこまで。」
軽く手を振り、紗世は一人、細い道へと足を向けた。
表向き療養とはいえ、ずっと邸に籠るのは性に合わない。
(少し歩くだけ……ん?)
草むらに、小さな花が群れて咲いていた。
淡い色合い、丸みのある花弁。
(これ……いいな。)
しゃがみ込む。
「この形……簪にしたら可愛いかも。」
一つ摘み、角度を変えて眺める。
「あ、この花も良い……組み合わせたら──」
夢中になって、次々と摘んでいく。
「よっし!こんなもんで──」
ガバッと立ち上がった瞬間──
ゴンッ!!
「いっ……!」
「……っ、痛ぁ……」
すぐ後ろから、低い声。
紗世は頭を押さえながら振り返る。
そこには、顎を押さえた男が立っていた。
「え、あ……!ご、ごめんなさい!!」
「いや……こちらこそ、不用意に近付き過ぎた。」
男は苦笑した。
年の頃は二十代前半ほど。
整った顔立ちだが、どこか柔らかさがある。
切れ長の目は穏やかに細められているが、その奥には妙に静かな光があった。
簡素な直衣を纏っているものの、布地は上質で、仕立ても丁寧。
無駄のない立ち姿に、どこか品が滲む。
(……あれ?)
紗世の視線が、一瞬だけ止まる。
(この人……ただの従者?)
「無礼ついでに、少し聞きたいことがあるのだが。」
「?はい。」
「和泉守の姫君を知っているか?」
(……私だよね、それ。)
一瞬、間。
だがすぐに表情を整える。
「……なぜです?」
男は少しだけ視線を細めた。
「では、その姫君の噂は?」
「申し訳ございません。私、そういう話には疎くて……
何かあるのですか?」
「そうか……。」
軽く息を吐く。
「都ではな、かなり噂になっていた。」
少しだけ、声の調子が変わる。
「呪詛を弾く姫だと。」
紗世の指先が、わずかに止まる。
(……やっぱり、それか。)
「それで?」
なるべく平坦に返す。
「もし繋がりがあるなら、紹介してもらえないかと思ってな。」
「紹介……?」
首を傾げる。
「姫君に何かご用が?」
「用があるのは、私ではない。」
男は少しだけ視線を逸らした。
「私の主人だ。」
ふわり、と空気が揺れた。
「だから、詳しいことは言えない。すまないな。」
(主人、ね……。)
紗世は男をじっと見る。
「和泉守様のお邸なら、この道を一里ほど進んで──」
道を説明する。
「……そのあたりの者に頼めば、取り次いでもらえると思います。」
「そうか、助かる。」
男は素直に頷いた。
そして、ふと。
「女房殿は、よくここへ?」
「まあ、たまに。」
「そうか。」
少しだけ、笑う。
「なぜか、そなたは話しやすい。」
その言葉に、紗世は少し肩をすくめた。
「それはどうも。」
「また会えたら、嬉しいな。」
軽く言って、男は馬の手綱を解く。
ひらりと乗る動きが、やけに綺麗だった。
(やっぱり……ただの人じゃない感じがするんだよなぁ。)
馬が動き出す。
去っていく背中を見ながら
紗世はぽつりと呟いた。
「……変な人。」
少し間を置いて
(……まあ、今は邸に行っても会えないけどね。)
小さく笑う。
(ここにいるし。)
遠くから声が飛んだ。
「紗世様ー!いずこにおられますー?」
真砂の声。
「はーい!」
花を握りしめ、駆け出す。
その背を──
遠くから、男が一度だけ振り返っていた。
(……あれは)
確信に近い何かが、胸に落ちる。
だが、口にはしない。
「面白い。」
小さく呟き、馬を進めた。
───和泉守邸
紗世が邸に戻ると、取次ぎの女房がすぐにやって来た。
「若の御方。お客人にございます。」
「客……?」
(まさか……)
「都より参られた、貴族の遣いのお方にございます。」
(早いな!あの人!!)
紗世は足早に自室へ戻り、衣を改めた。
(御簾越しに扇で顔を隠せば、さっきのは私とは気づかれないと思うけど……念のため。声も、少し変えておこ。)
呼吸を整え、わずかに声の調子を上げる。
やがて真砂が先に立ち、客間へと導いた。
「和泉守の姫君様にございます。」
その声とともに、紗世は御簾の内へ入る。
男は深く頭を垂れた。
「初めてお目にかかります。和泉守の姫君。事前の文もなく参上いたしましたこと、無礼の段、どうかお許しください。」
紗世は扇をひらりと仰ぎ、落ち着いた声音で応じた。
「構いません。お急ぎなのでしょう。季の挨拶は省きましょう——御用件を。」
「……はい。」
男は一瞬、言い淀み、真砂や控える女房たちへ視線を走らせた。
(……これは、軽い話じゃない感じ…?)
紗世はすぐに察し、静かに口を開く。
「真砂、皆を連れて下がりなさい。」
「かしこまりました。」
衣擦れの音がさわさわと遠ざかり、やがて室内には静寂が落ちた。
「これで、よろしいかしら。」
「お心遣い、痛み入ります。」
男は改めて姿勢を正すと、深く頭を下げた。
「陰陽頭に認められるほどの力——その御力をお持ちであると、伺いました。」
一拍、沈黙。
「……どうか、そのお力を——我が主にも、お貸し願えませぬか。」
紗世はわずかに目を細めた。
「あなたのご主人が、呪詛にかかっている、と?」
「……はい。」
「どのような、呪詛なのですか?」
紗世は扇をわずかに傾けながら、静かに問いかけた。
男は一瞬言葉を選ぶように視線を落とし、それから低く口を開く。
「……主の側近たちが、次々と倒れていったのです。」
「倒れる……?」
「その……見苦しい話で恐縮ですが、腹を下し、高い熱を出し……。最初は一人、二人であったものが、あっという間に数が増えまして。」
紗世の眉が、わずかに寄る。
「同じ屋敷に仕える者から順に倒れ、看病にあたった者も、ほどなくして同じように伏しました。」
(……それって……)
胸の奥に、小さな違和感が引っかかる。
「側近の方々以外に、倒れた方はいらっしゃらないのですか?」
「おります。側近の一族もまた、同じように。家族、女房、使用人……関わる者が次々と倒れていく。」
男は拳を握りしめた。
「はては、加持祈祷のために呼んだ陰陽師までもが、同じ症状で倒れました。」
(……広がってる……。)
紗世は言葉を飲み込む。
同じ場にいた者から順に倒れ、看病した者もまた伏し、やがて周囲へと広がっていく。
(まるで……触れれば移るみたいに……。)
ふと、遠い記憶がよぎる。
腹を下し、高熱を出し、人から人へと広がる病──
(赤痢……とか……腸チフスとか、ああいう……)
だが、それを口にする前に──
「これは、病などではありませぬ。」
男が、はっきりと言い切った。
その声音には、迷いがない。
紗世は顔を上げる。
「このように“狙ったように”人が倒れていくことが、ただの病であるはずがない。ましてや、祓うべき陰陽師までもが倒れるなど──」
その目には、怒りと焦りが滲んでいた。
「何者かが、我らを狙って放った呪詛に違いありませぬ。」
(……やっぱり、そう思うよね……。)
紗世は心の中で小さく呟く。
否定は、できない。
この時代に“うつる病”という考えはないのだから。
(でも……)
胸の奥の違和感は、消えなかった。




