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第98話 朝霞の別れ

───六条御息所邸・門前


まだ朝靄の残る早い刻。


門前には牛車が一台、静かに用意されていた。


支度はすべて整っている。


あとは──


紗世が乗り込むだけだった。




門前には、御息所の邸の者たちに加え、陰陽頭、源氏の君、頭中将までもが揃っていた。


あまりにも重い顔ぶれ。


この出立が、ただの里帰りではないことを物語っている。




紗世は、門の外へ続く道を見つめた。


(……行くんだ。)


実感が、胸にゆっくりと沈んでいく。




「紗世。」


御息所が、静かに呼んだ。


紗世は振り向く。


「身体はまだ万全ではありません。決して無理をしてはいけませんよ。」


「……はい。」


「向こうでは、何も考えず、ただ休みなさい。」


優しい声。


だがその奥にあるのは──


離したくない、という想い。


紗世の胸が、きゅっと締め付けられる。



「和泉殿。」


源氏の君が一歩前に出た。


その手には、小さく丁寧に包まれた文と品がある。


「これは、餞別だ。」


紗世は驚いたように目を瞬いた。


「北の方と若紫が、そなたのために選んだ。」


「……!」


思わず顔が上がる。


源氏の君は、わずかに微笑んだ。


「“向こうでも寂しくないように”と、あれこれ考えていたよ。」


その言葉に、紗世の胸がじんわりと温かくなる。


「……ありがとうございます。」


両手で、そっと受け取る。


包みの中には、淡い色の小物と、香のかすかな香りがした。


(あの二人が……。)


顔が自然と緩む。


「そなたが戻る場所は、ここにもある。」


源氏の君が静かに言った。


「焦らず、身体を整えて戻ってくるといい。」


紗世は、小さく頷いた。




「全く……大層な騒ぎだな。」


頭中将が腕を組みながら言う。


「ここまで大事にされる女房もそういないぞ。」


ぶっきらぼうな口調。


だが、その視線は柔らかい。


「戻ってきた時には、また妙なことに巻き込まれるなよ。」


「……はい。」


少しだけ、笑みがこぼれる。




陰陽頭は、少し離れた場所から様子を見ていた。


そして、紗世と目が合うと、ふっと口元を緩めた。


「和泉殿。」


「はい。」


「向こうに行けば、少しは静かになるだろう。」


その目が、ほんのわずかに鋭くなる。


「……“こちら”よりは、ね。」


紗世は、その意味を理解していた。


「無理はしないこと。」


少しだけ、声が柔らぐ。


「君はもう、十分やった。」


その言葉に、胸の奥が、じんと熱くなる。




「……紗世。」


御息所が、そっと手を取った。


「必ず、戻っていらっしゃい。」


「……はい。」


声が、わずかに震える。



───


「……そろそろ刻です。」


御者の声が静かに入る。


紗世は、牛車へと歩き出した。


一歩。


また一歩。


その足取りは、重い。



(……来ないの?)


ふと、思う。


振り返りそうになるのを、ぐっと堪える。


(来るって……言ってたのに。)


胸の奥が、じくりと痛む。



その時──


「……待ってくれ!!」


遠くから声が響いた。


全員の視線が、一斉に向く。


山道の向こうから、一騎の馬が駆けてくる。


土を蹴り、まっすぐに。


「……っ!」


紗世の目が見開かれる。


馬が門前で止まる。


勢いよく飛び降りたその人物は──


「はぁ……っ……間に、合った……。」


息を切らしながら顔を上げる。


惟成だった。



「……惟成……。」


思わず、名前がこぼれる。



惟成は、まっすぐ紗世を見た。


何か言おうとして、一瞬、言葉に詰まる。



「……行くんだな。」


低い声。


紗世は、こくりと頷いた。



沈黙。


ほんの数秒。


だが、長い。



「……ちゃんと、治してこい。」


それだけを言う。


余計な言葉はない。


「そして、戻って来い。」


真っ直ぐな言葉。


紗世の目に涙が滲む。


「……うん。」


小さく、答える。



惟成は、一歩近付いた。


手を伸ばしかけて──


止める。


拳を、強く握る。



「……行け。」


短く、言う。


それが精一杯だった。



紗世は牛車に乗り込む。


御簾が下ろされる。


外の景色が遮られる。



「……出せ。」


御者の声。


牛がゆっくりと歩き出す。



ギシ……ギシ……


車輪の音が、静かに響く。


御簾の内。


紗世は、餞別の包みをぎゅっと抱きしめた。


(……絶対に、戻る。)


涙が、一筋こぼれる。


外では、惟成が、その場から動かずに立っていた。


遠ざかっていく牛車を、ただ、見つめ続ける。



誰も、何も言わない。


ただ、それぞれの想いだけが、その場に残された。

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