第97話 別れの決意
───六条御息所邸・紗世の部屋
「……里帰り……?」
紗世は、ゆっくりと聞き返した。
御息所は几帳の向こうで静かに頷く。
「ええ……療養も兼ねて、和泉国へ……」
その声は穏やかだったが──
どこか、決意が滲んでいた。
「……どうして、急に……?」
分かっている。
頭では、分かっている。
けれど、聞かずにはいられなかった。
御息所は一瞬、言葉を選び──
そして、はっきりと言った。
「この都に、あなたを置いておくことが……危険だからです。」
「……っ」
紗世の指が、ぎゅっと布を握る。
沈黙。
部屋の空気が、重く沈む。
「……私」
ぽつりと、声が落ちる。
「逃げるんですか?」
御息所の肩が、わずかに揺れた。
「……紗世……。」
「だって、そうですよね。」
顔を上げる。
その目は、まっすぐだった。
「ここにいたら危ないから、遠くに行く。それって……逃げるってことじゃないですか。」
声は震えていない。
けれど、その奥にあるものは隠しきれなかった。
悔しさ。
怖さ。
そして──
置いていかれるような、感覚。
「私……ここが、好きです。」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「御息所様がいて……みんながいて……」
少しだけ、視線が揺れる。
「……それに……」
言いかけて、止まる。
その先は、言葉にできなかった。
「……それでも、行かなきゃいけないんですか?」
御息所は、すぐには答えなかった。
ただ──
静かに、頷いた。
「……あなたを、守るためです。」
その一言が、重く落ちる。
紗世は、唇を噛んだ。
その時だった。
「……行くべきだ。」
低い声が、部屋に落ちた。
紗世が振り返る。
そこには、惟成が立っていた。
いつからいたのか分からない。
だが、その目はまっすぐ紗世を見ていた。
「惟成……。」
思わず名前が漏れる。
惟成は一歩、踏み出した。
「ここに残る方が危険だ。」
はっきりと言う。
「お前がどう思おうが関係ない。」
「……っ」
紗世の表情が強ばる。
「……ひどい。」
思わず、零れた。
「私の気持ちなんて、どうでもいいの……?」
惟成の眉が、わずかに動く。
だが、すぐに戻る。
「どうでもいいわけがない。」
「なら……!」
「だからだ。」
言葉を、遮る。
一歩、さらに近付く。
「ここにいたら」
低く、押し殺した声。
「どんな手を使ってでも、お前を手に入れようとする者たちの危険に晒される。」
その言葉に、紗世の息が詰まる。
「中には、実力行使に及ぶ者もいるだろう。」
一瞬だけ、言葉を切る。
「それに対してお前は、動けない、抵抗もできない。それで、どうやって自分を守る。」
「……」
何も言えない。
分かっている。
全部、正しい。
だからこそ──苦しい。
「悔しいが」
惟成の声が、わずかに低くなる。
「権力という力を出されたら、今の俺では何もできない。」
ぎり、と拳が握られる。
「お前の傍にいるという事が、何の護りにもならない……」
ほんの一瞬だけ、目を伏せる。
「……今の俺では、護れない。」
その言葉は、
誰に向けたものでもなく──
自分自身に突き刺さっているようだった。
「……っ」
紗世の喉が詰まる。
何か言いたいのに、言葉にならない。
「……だから」
惟成が、もう一度顔を上げる。
その目は、揺れていなかった。
「今は、行け。」
紗世の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……ずるい……」
小さく、呟く。
「そんな言い方されたら……」
断れない。
分かっているくせに。
「……ちゃんと、来てよ」
震える声。
「出立の日、絶対、来てよ……。」
惟成は、ほんのわずかだけ表情を緩めた。
「ああ」
短く、頷く。
「約束だ。」
几帳の向こうで、御息所は静かに目を伏せた。
(……この子達は
互いに、縛り合うのではなく
守ろうとしているのね……。)
小さく、息を吐く。
「……出立の準備を、進めましょう。」
その声は、どこか優しかった。
───二条院(源氏の君の邸)
「和泉が、里帰り……ですか?」
御簾の向こうで若紫と貝合わせをしていた葵の上は、手を止めて顔を上げた。
「お兄様。和泉殿はどこへ行かれるのですか!?なぜ、いってしまうのですか!?」
若紫が、ぱっと立ち上がり、御簾の外へ出てくる。
その顔には、隠しきれない不安と寂しさが滲んでいた。
「和泉国……和泉殿の生まれた国だよ。」
源氏の君は、静かに答える。
「和泉殿は少し、体を悪くしてしまってね。療養のために、一度故郷へ帰るのだ。」
「療養……?」
若紫が小さく繰り返す。
その言葉の意味を、まだ完全には理解していない。
だが──
「宮中では、そんなに……?」
葵の上が、静かに問いかけた。
その声は落ち着いていたが、奥にあるものは鋭い。
左大臣家の姫として、
“何が起きているか”に、既に気付いている。
「ああ……。」
源氏の君はわずかに目を伏せた。
「和泉殿の力は、権力を欲する者たちにとっては……」
言葉を選ぶように、一度止まる。
「喉から手が出るほど、欲しいものだろう。」
部屋に、静かな緊張が落ちた。
若紫はきょとんとした顔で二人を見たが、
葵の上は、すべてを理解したように扇を傾けた。
「……そうですわね……。」
小さく、息をつく。
「和泉を護るには……それしか、ありませんわね……。」
その声には、
諦めと、それでも選ぶしかない覚悟が混じっていた。
しばしの沈黙。
やがて葵の上は、ふっと表情を和らげる。
そして若紫に向き直った。
「若紫。」
「はい……」
「私と一緒に、和泉への餞別を選びましょう。」
「え……?」
「和泉への贈り物よ。」
その言葉に、若紫の顔がぱっと明るくなった。
「はい!和泉殿と会えなくなるのは寂しいですが……」
ぐっと拳を握る。
「お姉様!一緒に選びましょう!」
「ええ。」
葵の上は、優しく微笑んだ。
その様子を見ていた源氏の君の目が、柔らかくなる。
(……葵の上との関係も、葵の上と若紫の関係も……)
静かに、息を吐く。
(随分と穏やかで、温かいものになった。)
その中心にいるのは──
(和泉殿、か……。)
思わず、微笑がこぼれる。
「和泉殿への贈り物なら、私も一緒に選びたいな。」
二人に歩み寄る。
「二人は、何が良いと思う?」
「可愛らしいものが良いです!」
若紫がすぐに答える。
「ですが、療養の折ですもの。身に負担のかからぬものがよろしいでしょう。」
葵の上が静かに補う。
「……なるほど。」
源氏の君は頷いた。
そのやり取りの中に、自然と混ざっていく。




