第96話 逃げ場なき都
───都・とある貴族邸
几帳の内に、甘い香が満ちていた。
「ねえ、聞いた?」
くすり、と笑いを含んだ声。
「飾り髪の和泉の話。」
「ああ……六条御息所様のところの女房ね。」
「前から噂はあったでしょう?飾り髪には呪詛を弾く力があるって。」
扇で口元を隠しながら、もう一人が頷く。
「どうやら……本当らしいわね。」
「それだけじゃないのよ。」
声が、少し落ちる。
「貴船の密教僧が張った結界を、“内側から破った”んですって。」
「結界を……!?」
思わず声が上がる。
「そこまで……?」
「ええ。弾くだけじゃないのよ。」
空気が、じわりと変わる。
「結界まで破れるなら……」
ひとりが、静かに言った。
「“逆”も、できるのかしら。」
「逆……?」
視線が集まる。
「もし和泉が、“誰かに呪詛をかけたら”」
一瞬、沈黙。
「……それほどの力なら」
「効かぬはずがない、か。」
誰かが、小さく息を吐く。
そして──
くすり、と笑った。
「世の中、いるでしょう?大した家柄でも教養でもないのに、殿方だけは一丁前に取る女。」
扇の向こうで、目が細められる。
「……そういう女に、和泉が呪詛をかけたら……どうなるのかしら?」
空気が、甘く、濁る。
誰も否定しない。
誰も止めない。
ただ──
それぞれの胸の内で、思い浮かべる顔があった。
恋敵。
奪った女。
奪われた相手。
「……私」
ぽつりと、ひとりが呟く。
「和泉と、お近づきになりたいわ。」
「私もよ。」
すぐに重なる声。
「飾り髪を教えていただきたい、という形なら自然でしょう?」
「ええ……それに、お見舞いのお文くらいなら、失礼にはならないわよね。」
くすくす、と笑いが重なる。
その奥にあるものは──
善意ではなかった。
───宮中・某役所
ざわつく空気。
「どうやら……」
声を潜めたやり取り。
「お偉方が、“飾り髪の和泉”を巡って動いているらしいぞ。」
「まあ、当然だろう。」
肩をすくめる。
「呪詛は弾き、結界すら破る。政敵だらけのあの方々にとっては……これ以上ない“御守り”だ。」
くっくっ、と笑いが漏れる。
「我々には関係のない話だな。」
誰かが、そう言いかけて──
「……そうでもないぞ。」
ぴたり、と空気が止まる。
「どういうことだ。」
「簡単な話だ。」
ゆっくりと、言葉を区切る。
「和泉と、婚姻を結べばいい。」
「……は?」
一瞬の静寂。
そして──
「……なるほどな。」
目の色が変わる。
「そうなれば、お偉方は“夫”を通すしかない。」
「和泉を使うために、夫に便宜を図る……当然だな。」
「つまり、大出世の機だ。」
ざわり、と空気が熱を帯びる。
「だが、今は療養中だろう。」
「だからこそだ。」
にやり、と笑う。
「見舞いの文を送る、様子を見る。先に繋がりを作った者が勝つ。」
一人が立ち上がる。
「動くか。」
「当然だ。」
次々と頷きが広がる。
その場にいた者たちは──
同じことを考えていた。
“女房ひとり”を巡って、
運命が変わるかもしれないと。
───六条御息所邸
「……これは、どういうことなの……?」
紗世は、思わず呟いた。
目の前に積まれた、文、文、文──
そして、山のような贈り物。
反物、香、菓子、装身具。
几帳の外まで溢れそうなほどだった。
「本日届いたものだけで、これでございます……」。
女房が困惑した顔で言う。
「……本日“だけ”で?」
紗世の声が引きつる。
「はい……。」
さらに、別の女房が続ける。
「明日も、同じくらいは届くかと……。」
「え……なにそれ……こわい……。」
思わず本音が漏れた。
ふと、脳裏に浮かぶ。
まだ、飾り髪が都に広まり始めた頃。
届いた文は──
「この髪型、とても素敵でした」
「よろしければ、また教えてください」
「真似してみました」
そんな、ささやかで、どこか温かいものばかりだった。
贈り物も、小さなもの。
「ありがとう」の延長にあるようなもの。
嬉しくて、一つ一つ丁寧に読んだ。
(あの時は……)
自然と、目の前の山へ視線が戻る。
今の文は──
「ぜひ一度、お目通りを」
「我が家にお越しいただきたい」
「飾り髪の技を、直接ご教授願いたい」
そして、露骨なものも混じる。
「縁談についてご相談が──」
「……無理。」
ぽつりと呟く。
「なんか……怖い……。」
手が伸びない。
一通も、開ける気になれなかった。
───御息所の居室
御息所は、静かに文の山を見ていた。
すべて、把握している。
差出人の名。
家柄。
派閥。
そして──意図。
「……随分と、分かりやすいこと。」
穏やかな声。
だが、その奥にあるものは冷たい。
「お見舞い、ですか。」
そっと文を手に取る。
開かずとも、分かる。
これは見舞いではない。
“値踏み”だ。
「……紗世を」
小さく、呟く。
「道具にする気ね。」
空気が、ぴんと張り詰める。
周囲の女房たちは、息を潜めた。
御息所は怒鳴らない。
責めない。
だが──
最も恐ろしいのは、この静けさだった。
「すべて、記録しておきなさい。」
静かに命じる。
「どこの誰が、何を送ってきたのか。」
「……はい。」
「そして」
少しだけ、間を置く。
「不用意に紗世へ近づけることは許しません。」
その一言で、場の空気が固まった。
──翌日
陰陽頭が六条御息所邸を訪れた。
「……和泉殿の人気……」
陰陽頭が、ゆっくりと口を開いた。
「冗談では、済みそうにない……。」
御簾越しに向かい合う御息所の空気が、ぴたりと張り詰める。
「……それほど、でございますか?」
声は静かだが、わずかに強ばっていた。
「ええ。」
即答だった。
「既に、宮中では“和泉殿をどう扱うか”という話になっています。」
「……扱う、ですか。」
その言葉に、御息所の眉がわずかに寄る。
陰陽頭は、御簾の前に積まれた文へ視線を落とした。
無数の文。
見舞いの体裁を取りながら──
その一つ一つに、まとわりつくような“意志”。
(……文ですら、この有様か。人の欲とは、ここまで露骨に滲むものか……。)
静かに息を吐く。
「上級貴族達は、身分を盾にしてくるでしょう。和泉殿が断れぬ形で、要求を出してくる。」
御息所は、黙って聞いている。
「丁寧に断ったとしても……終わりません。むしろ、火に油です。」
「……」
「上に行けば行くほど、“引かない”」
少し、言葉を選ぶように間を置く。
「強引な手を使う可能性も……高い。」
「……強引な、手?」
御息所の声が、わずかに低くなる。
陰陽頭は一瞬だけ視線を逸らし──
それでも、はっきりと言った。
「和泉殿は、十三。婚姻の話が出ても、おかしくない年です。」
「……」
御息所の指先が、わずかに強く扇を握る。
「……私も、その可能性は……」
静かに言葉を絞り出す。
「考えてはおります……回避の理由も……」
「ええ。」
陰陽頭は頷いた。
「ですが──」
その先の言葉は、冷たかった。
「断っても、来ます。」
「……え?」
御息所が顔を上げる。
陰陽頭の目は、少しも揺れていなかった。
「断られたのなら」
一拍。
「“既成事実を作る”」
空気が、凍る。
「それが、あの者達のやり方です。」
「……っ」
御息所の表情が、はっきりと固まった。
言葉を失う。
「和泉殿は、今」
陰陽頭の声が、わずかに落ちる。
「怪我もあり、満足に動けない。抵抗も、難しい状態だ。」
「……」
御息所の肩が、わずかに震えた。
視線が、文の山へと落ちる。
(この中の誰かが──
その“強引な手”を使う……?)
想像した瞬間、喉が締め付けられる。
沈黙。
重く、長い沈黙。
その中で、陰陽頭が静かに口を開いた。
「……一つ、手があります。」
御息所は、ゆっくりと顔を上げた。
「和泉殿を」
ほんのわずか、言い淀む。
「……都から離す。」
「……」
「和泉国へ里帰り、という形で。」
言葉を選びながら、続ける。
「表向きは療養。実際には、避難です。」
御息所は、すぐには答えなかった。
ただ、静かに考えている。
(この邸に置いておくことが、危険……?
私の目の届く場所にいるのに……守れない……?)
ゆっくりと、目を閉じる。
そして──
小さく、息を吐いた。
「……あの子を」
かすかに震える声。
「都から、遠ざけるしか……ないのですね……。」
陰陽頭は、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。




