第95話 陽だまりに潜む翳り
───数日後
民部卿の姫君による呪詛、そして参議邸の二の姫の一件は──
一度、宮中でも正式に取り上げられた。
だが。
「……取り調べは、不可能か。」
淡々と下された判断。
民部卿の姫君は、既に廃人同然。
正気を失い、受け答えすらままならない状態だった。
そして──
参議の二の姫は
「民部卿の姫君の呪詛に巻き込まれ、操られていた」
という扱いになった。
事実かどうかは、もはや問題ではなかった。
さらに──
民部卿と参議。
いずれも上級貴族。しかも、同じ派閥。
結論は、早かった。
「……此度の件は、これ以上の追及は不要」
──事件は、なかったことにされた。
───六条御息所邸
柔らかな陽が差し込む室内。
薬の香りが、まだわずかに残る。
「……でも」
紗世が、ぽつりと呟いた。
「ちょっと、ほっとしたかも。」
向かいに座る惟成が、眉を寄せる。
「ほっと、だと?」
「うん。」
紗世は、軽く笑った。
そして──
「だってさ」
両腕を、少しだけ広げる。
まだ完全には動かせない。
包帯の巻かれた手。
痛々しい痕。
「この事件が公になって、調査とか始まったら、私も呼ばれて、あれこれ聞かれるんでしょ?」
少し首を傾げる。
「……この体で、それはキツイよ。」
あっけらかんと言う。
惟成は、しばらく黙っていた。
「……お前は」
低く、言葉を落とす。
「それでいいのか?」
その問いに、紗世は一瞬だけ目を伏せた。
(……よくは、ない)
でも。
(全部、正すなんて無理だよね。)
ゆっくりと顔を上げる。
「うん。」
小さく、頷く。
「今は、生きてるだけで充分。」
その言葉に、惟成の胸が、わずかに詰まる。
「……そうか。」
短く返す。
それ以上は、何も言わない。
言えなかった。
代わりに──
視線が、紗世の手へ落ちる。
包帯越しの、小さな手。
あの時、必死に床を叩いていた手。
無意識に、手が伸びかけて──
止まる。
(……まだ、だ。)
わずかに拳を握る。
その様子を、紗世は見逃さなかった。
(あ…)
少しだけ、口元が緩む。
「ねえ、惟成。」
「なんだ。」
「……ありがとう。」
まっすぐな言葉。
惟成の動きが、止まる。
「助けに来てくれて。」
静かな声。
でも、確かな重み。
惟成は、視線を逸らした。
「……当然だ。」
ぶっきらぼうに言う。
「へへ。」
紗世は、少しだけ笑った。
「ちゃんと来たね。」
「……当たり前だ。」
その一言が、やけに静かに、部屋に落ちた。
───宮中
「呪詛を弾く女房……と?」
重く、低い声が落ちた。
簾の奥、香の煙がゆらりと揺れる中──
数人の上級貴族が向かい合っていた。
「ああ。弾いている所を、直接見た者が複数いる。」
「……それだけではない。」
別の男が、ゆっくりと口を開く。
「山中で監禁された折、結界を“内側から”破ったそうだ。」
「結界を、内から……?」
空気が、わずかに張り詰める。
「しかもその結界、ただのものではない。」
「密教僧が張ったものらしい。」
「……ほう。」
誰かが、低く息を漏らした。
「呪詛を弾き、密教の結界を破る女房……。それは、もはや女房というより──」
言いかけて、言葉を飲み込む。
「……どこの女房だ。」
「六条御息所様の邸です。」
一瞬の静寂。
「六条御息所か……。厄介だな。」
「ええ。軽々しく手は出せません。」
御息所の名が持つ重みが、場に落ちる。
だが──
「しかし」
ひとりが、静かに言った。
「“欲しい”な。」
その一言で、空気が変わる。
「反対派閥も、同じことを考えているでしょう。」
「ならば」
別の男が、扇を閉じる。
「先に、こちらが押さえるまで。」
「どうやってだ。」
短い問い。
答えは、すぐに返る。
「婚姻です。」
迷いのない声。
「我らの側の者と縁を結ばせる。」
「……なるほど。」
「それが最も確実。」
頷きが広がる。
「年は?」
「十三とのこと。公に決まった相手はおりません。」
「年もちょうど良い。」
くっくっ、と笑いが漏れる。
「形だけでもよい。囲ってしまえばいい。」
「六条御息所がどう出るか……六条御息所が拒めば?」
「……その時は、“別の手”を使うまでよ。」
ニヤリ、と口元が歪む。
そして──
最も奥に座していた、年嵩の男が口を開いた。
それまで一言も発していなかった男。
「この宮中はな」
ゆっくりと、言葉を落とす。
「権謀術数と、怨念で出来ておる。」
誰も口を挟まない。
「政敵を失脚させても、それで終わりではない。次は、呪詛が来る。」
淡々とした事実。
「落としたはずの者に、逆に引きずり落とされることもある。」
「……」
「だが」
その男の口元が、わずかに歪む。
「呪詛を“弾く”ならば──」
間。
「何も、恐れる必要はない。」
静かな声。
だが、その中にあるものは明確だった。
「心置きなく、政敵を潰せる。」
場の誰かが、息を呑む。
「……手に入れろ。」
低く、命じる。
「どのような手を使ってでもな。」
香の煙が、ゆらりと揺れた。




