第94話 安らぎの朝
───六条御息所邸・夜
(あったかい……。)
パチンッ
火鉢の炭が、小さく弾けた。
その音に、意識が浮かび上がる。
重たい瞼を、ゆっくりと開く。
ぼやけた視界の中に、天井が映った。
(ここ……どこ……。)
わずかに顔を動かす。
視界に入るのは──見慣れた調度品。
几帳、柱、柔らかな灯り。
(……お邸だ……。
六条御息所様の……。)
その瞬間、意識がはっきりと戻る。
同時に、鼻をかすめる匂い。
(薬草……?そうだ……私……)
身体のあちこちに残る鈍い痛み。
ゆっくりと手を持ち上げる。
そこには、幾重にも巻かれた包帯。
しばらく、ぼんやりとそれを見つめる。
すぅ……すぅ……
静かな寝息が、聞こえた。
(……え?)
視線を巡らせる。
几帳の向こう。
(誰か、いる……?)
驚きに、胸がわずかに高鳴る。
体はまだ動かない。
それでも、指先だけで、そろそろと几帳をめくる。
──そこにいたのは
惟成だった。
(……え……?)
思考が、一瞬止まる。
なぜ、ここに。
どうして、こんな近くに。
戸惑いのまま、視線を落とす。
惟成の腕。
顔。
そこには、無数の傷。
擦り傷、切り傷。
雪と山を越えてきた跡が、そのまま残っていた。
(……あ……)
その瞬間、紗世の目から、涙がこぼれた。
静かに、止まらずに。
そっと、自分の手を伸ばす。
几帳の下から、ゆっくりと。
惟成の手に、重ねる。
(……来てくれた。私のために……。)
脳裏に蘇る声。
──「来るに決まってるだろ。お前がいるなら、どこだろうと。」
ぎゅっと、その手を握る。
(あったかい……。ちゃんと……帰って来れた……。)
安心が、全身に広がる。
張り詰めていたものが、ゆっくりと、ほどけていく。
瞼が、また重くなる。
惟成の手を握ったまま、紗世は静かに、再び眠りに落ちていった。
⸻
しばらくして。
パタパタと、足音が近付く。
様子を見に来た女房が、そっと几帳をめくった。
「……あら。」
小さく、声が漏れる。
視線の先。
几帳の内。
「……ふふ。」
思わず、口元が緩む。
すぐに廊下へ戻り、他の女房を手招きした。
「ちょっと、いらして。」
「どうしたの?」
「見てごらんなさいな。」
再び、几帳がわずかに上がる。
「あらぁ……。」
「まあ……。」
声を潜めた、柔らかな驚き。
そこには──
几帳越しに手を繋いだまま、寄り添うように眠る二人の姿。
「……起こすのは、野暮ね。」
「ええ。」
「このまま、寝かせておきましょう。」
くすり、と小さな笑い。
几帳が、そっと戻される。
灯りが揺れる中、二人の寝息だけが、静かに重なっていた。
────
ぱちっ
(……朝か……)
惟成は、いつもの癖で目を覚ました。
まだ薄暗い室内。
むくり、と上半身を起こす。
その瞬間──
違和感。
(……?)
周囲を見回す。
見慣れない天井。
調度品。
静かな香の匂い。
(……ここは……)
一瞬、思考が止まり──
(あっ!!!)
一気に覚醒する。
(そうだ……!)
昨日の出来事が、雪崩のように蘇る。
鞍馬、雪道、紗世、結界──
そして。
六条邸。
(……無事、戻って……)
そこまで思い出した時。
ふと、手に温もりを感じた。
(……?)
視線を落とす。
几帳の下に隠れた、自分の手。
誰かに──握られている。
ゆっくりと、几帳を持ち上げる。
そこにあったのは、自分の手をしっかりと掴む、小さな手。
そして、その先。
(……紗世)
静かな寝息。
穏やかな顔。
何事もなかったかのように、すやすやと眠っている。
(……そうだ。)
記憶が繋がる。
⸻
六条御息所に抱き締められる紗世を見て、全身の力が抜け、その場に座り込んだ時──
「惟成くんも、少しここで休ませてもらうと良い。」
陰陽頭が、軽く肩を叩いた。
「いや、しかし……」
「もう子の刻近いよ?」
さらりと言う。
「こんな時間に帰るなんて言ったら、御者も牛も馬も可哀想だろう?」
(……そっちか!?)
思わず内心で突っ込む。
「……では、和泉殿の様子を少し見てから帰ります。」
「うんうん。」
軽く頷くと、陰陽頭は続けた。
「あ、私も行くよ。和泉殿、首に禁言の術がかけられてたからね。それをチョチョイと解かないと。」
そのまま二人で、紗世の部屋へ向かった。
眠る紗世の傍。
陰陽頭は首元に指を当て、静かに祝詞を唱える。
すると──
黒く引かれていた線が、すうっと消えた。
「はい、これでよし。」
満足げに頷く。
「じゃ、私はこれで。」
くるりと踵を返しながら、
「惟成くんは、しっかり休んでいきなさい。」
どこか楽しそうに、部屋を出ていった。
⸻
(……それで)
紗世の顔を見て。
安心して。
(……そのまま、か。)
深く息を吐く。
がくりと肩が落ちる。
(何をやっているんだ、私は……)
軽い自己嫌悪。
それでも──
もう一度、紗世を見る。
(……さて、行くか。)
そっと、手を離そうとする。
──が。
びくともしない。
(……)
改めて見る。
がっちりと、掴まれている。
(……こいつ、手……血だらけだったよな……。)
よくこれだけの力が残っているものだ、と半ば呆れる。
もう一度、慎重に外そうとする。
その時──
「……ん……」
ぴくり、と紗世の指が動く。
「……惟……成……」
かすれた声。
だが、確かに──“声”だった。
(……!)
一瞬、動きが止まる。
ゆっくりと、紗世の顔を見る。
まだ、目は閉じたまま。
夢の中のように、呟いているだけ。
それでも。
確かに、自分を呼んだ。
惟成は、小さく息を吐いた。
「……まったく」
呆れたように、しかしどこか緩んだ声。
「……もう少し、だけだぞ。」
そう言って。
繋がれた手を、軽く握り返した。
───六条御息所邸・朝
御簾の向こう、柔らかな朝の光。
廊下を、女房たちが静かに行き交う。
「……もう、起きている頃かしら。」
一人が小声で言うと、別の女房がくすりと笑った。
「どうかしらねぇ……あの様子では。」
「ふふ……。」
意味深な視線が交わる。
「様子を見て参りましょうか。」
「ええ、そっとね。」
音を立てぬよう、足を運ぶ。
簾の前。
一人が、そっと手をかけ──
すぅ、と持ち上げた。
「……あら」
小さな声。
その一言で、後ろの女房たちも察する。
中を覗き込み、次の瞬間──
「……まあ」
「……あらあら」
声を殺した笑いが広がる。
そこには。
まだ眠っている紗世と、起きてはいるものの動けない惟成。
そして──
しっかりと繋がれたままの手。
惟成が顔を上げた。
「……見ているだけなら、閉めてくれないか。」
低い声。
しかし怒気はない。
むしろ、どこか諦めに近い。
女房たちは、顔を見合わせる。
「申し訳ございません。」
口ではそう言いながら、目元は完全に笑っている。
「ですが……あまりにも微笑ましくて。」
「……っ」
惟成の眉が、わずかに寄る。
その横で、紗世がゆっくりと目を開けた。
「……」
状況を理解するまで、数秒。
視線が下がる。
自分の手。
そして、繋がれたままの惟成の手。
「……っ!!」
一気に顔が赤くなる。
慌てて手を引こうとする──が
痛みで止まる。
「いっ……」
「無理をするな。」
惟成が静かに言う。
その一言で、余計に空気が変わる。
「……あら」
「まあ……」
女房たちの“察した”空気が一段と濃くなる。
「……もう、いいでしょう。」
惟成が小さく咳払いをする。
「御息所様にも、お知らせして参りますね。」
「待て。」
惟成が止める。
「それは──」
言いかけた時。
「必要ないわ。」
すっと、声が落ちた。
全員が振り返る。
そこにいたのは、御息所だった。
「御息所様……!」
女房たちが頭を下げる。
御息所はゆっくりと歩み寄り、几帳の内を見た。
紗世と惟成。
繋がれた手。
一瞬の沈黙。
そして──
「……安心したわ。」
穏やかな声。
責める色は、どこにもない。
紗世の目に、涙が滲む。
「御息所、様……」
かすれた声。
御息所は、そっと頷く。
「声も戻ったのね。良かった……本当に。」
そのまま、視線を惟成へ。
「惟成殿。」
「……は」
「紗世を、連れて帰ってきてくださってありがとう。」
まっすぐな言葉。
惟成は一瞬、言葉に詰まる。
「……務めを果たしたまでです。」
「ええ。」
御息所は、柔らかく微笑んだ。
「ですが……それだけではないのでしょう?」
「……」
返せない。
沈黙が、答えになる。
御息所はそれ以上は問わない。
ただ──
「その手は」
ふと、視線を落とす。
二人の手。
「……しばらくは、そのままにしておきなさい。」
静かな一言。
紗世が、目を見開く。
惟成も、わずかに驚いた表情を見せた。
女房たちは、完全に笑いを堪えている。
「無理に離して、また傷を悪くしても困るもの。」
御息所は、あくまで“建前”で言う。
だが、その目はすべてを理解していた。
くるりと背を向ける。
「湯と薬を。それと……」
一瞬だけ、足を止める。
「二人とも、よく頑張りました。」
それだけ言って、部屋を出ていった。
静寂。
そして──
「……」
「……」
気まずい沈黙。
女房たちの視線。
ニヤニヤ。
「……離すか。」
惟成が小さく言う。
「……はい。」
だが。
どちらも、すぐには手を離さなかった。




