表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

94/98

第94話 安らぎの朝

───六条御息所邸・夜


(あったかい……。)


パチンッ


火鉢の炭が、小さく弾けた。


その音に、意識が浮かび上がる。


重たい瞼を、ゆっくりと開く。


ぼやけた視界の中に、天井が映った。


(ここ……どこ……。)


わずかに顔を動かす。


視界に入るのは──見慣れた調度品。


几帳、柱、柔らかな灯り。


(……お邸だ……。

六条御息所様の……。)


その瞬間、意識がはっきりと戻る。


同時に、鼻をかすめる匂い。


(薬草……?そうだ……私……)


身体のあちこちに残る鈍い痛み。


ゆっくりと手を持ち上げる。


そこには、幾重にも巻かれた包帯。


しばらく、ぼんやりとそれを見つめる。


すぅ……すぅ……


静かな寝息が、聞こえた。


(……え?)


視線を巡らせる。


几帳の向こう。


(誰か、いる……?)


驚きに、胸がわずかに高鳴る。


体はまだ動かない。


それでも、指先だけで、そろそろと几帳をめくる。


──そこにいたのは


惟成だった。


(……え……?)


思考が、一瞬止まる。


なぜ、ここに。


どうして、こんな近くに。


戸惑いのまま、視線を落とす。


惟成の腕。


顔。


そこには、無数の傷。


擦り傷、切り傷。


雪と山を越えてきた跡が、そのまま残っていた。


(……あ……)


その瞬間、紗世の目から、涙がこぼれた。


静かに、止まらずに。


そっと、自分の手を伸ばす。


几帳の下から、ゆっくりと。


惟成の手に、重ねる。


(……来てくれた。私のために……。)


脳裏に蘇る声。


──「来るに決まってるだろ。お前がいるなら、どこだろうと。」


ぎゅっと、その手を握る。


(あったかい……。ちゃんと……帰って来れた……。)


安心が、全身に広がる。


張り詰めていたものが、ゆっくりと、ほどけていく。


瞼が、また重くなる。


惟成の手を握ったまま、紗世は静かに、再び眠りに落ちていった。



しばらくして。


パタパタと、足音が近付く。


様子を見に来た女房が、そっと几帳をめくった。


「……あら。」


小さく、声が漏れる。


視線の先。


几帳の内。


「……ふふ。」


思わず、口元が緩む。


すぐに廊下へ戻り、他の女房を手招きした。


「ちょっと、いらして。」


「どうしたの?」


「見てごらんなさいな。」


再び、几帳がわずかに上がる。


「あらぁ……。」


「まあ……。」


声を潜めた、柔らかな驚き。


そこには──


几帳越しに手を繋いだまま、寄り添うように眠る二人の姿。


「……起こすのは、野暮ね。」


「ええ。」


「このまま、寝かせておきましょう。」


くすり、と小さな笑い。


几帳が、そっと戻される。


灯りが揺れる中、二人の寝息だけが、静かに重なっていた。




────



ぱちっ


(……朝か……)


惟成は、いつもの癖で目を覚ました。


まだ薄暗い室内。


むくり、と上半身を起こす。


その瞬間──


違和感。


(……?)


周囲を見回す。


見慣れない天井。


調度品。


静かな香の匂い。


(……ここは……)


一瞬、思考が止まり──


(あっ!!!)


一気に覚醒する。


(そうだ……!)


昨日の出来事が、雪崩のように蘇る。


鞍馬、雪道、紗世、結界──


そして。


六条邸。


(……無事、戻って……)


そこまで思い出した時。


ふと、手に温もりを感じた。


(……?)


視線を落とす。


几帳の下に隠れた、自分の手。


誰かに──握られている。


ゆっくりと、几帳を持ち上げる。


そこにあったのは、自分の手をしっかりと掴む、小さな手。


そして、その先。


(……紗世)


静かな寝息。


穏やかな顔。


何事もなかったかのように、すやすやと眠っている。


(……そうだ。)


記憶が繋がる。



六条御息所に抱き締められる紗世を見て、全身の力が抜け、その場に座り込んだ時──


「惟成くんも、少しここで休ませてもらうと良い。」


陰陽頭が、軽く肩を叩いた。


「いや、しかし……」


「もう子の刻近いよ?」


さらりと言う。


「こんな時間に帰るなんて言ったら、御者も牛も馬も可哀想だろう?」


(……そっちか!?)


思わず内心で突っ込む。


「……では、和泉殿の様子を少し見てから帰ります。」


「うんうん。」


軽く頷くと、陰陽頭は続けた。


「あ、私も行くよ。和泉殿、首に禁言の術がかけられてたからね。それをチョチョイと解かないと。」


そのまま二人で、紗世の部屋へ向かった。


眠る紗世の傍。


陰陽頭は首元に指を当て、静かに祝詞を唱える。


すると──


黒く引かれていた線が、すうっと消えた。


「はい、これでよし。」


満足げに頷く。


「じゃ、私はこれで。」


くるりと踵を返しながら、


「惟成くんは、しっかり休んでいきなさい。」


どこか楽しそうに、部屋を出ていった。



(……それで)


紗世の顔を見て。


安心して。


(……そのまま、か。)


深く息を吐く。


がくりと肩が落ちる。


(何をやっているんだ、私は……)


軽い自己嫌悪。


それでも──


もう一度、紗世を見る。


(……さて、行くか。)


そっと、手を離そうとする。


──が。


びくともしない。


(……)


改めて見る。


がっちりと、掴まれている。


(……こいつ、手……血だらけだったよな……。)


よくこれだけの力が残っているものだ、と半ば呆れる。


もう一度、慎重に外そうとする。


その時──


「……ん……」


ぴくり、と紗世の指が動く。


「……惟……成……」


かすれた声。


だが、確かに──“声”だった。


(……!)


一瞬、動きが止まる。


ゆっくりと、紗世の顔を見る。


まだ、目は閉じたまま。


夢の中のように、呟いているだけ。


それでも。


確かに、自分を呼んだ。


惟成は、小さく息を吐いた。


「……まったく」


呆れたように、しかしどこか緩んだ声。


「……もう少し、だけだぞ。」


そう言って。


繋がれた手を、軽く握り返した。





───六条御息所邸・朝


御簾の向こう、柔らかな朝の光。


廊下を、女房たちが静かに行き交う。


「……もう、起きている頃かしら。」


一人が小声で言うと、別の女房がくすりと笑った。


「どうかしらねぇ……あの様子では。」


「ふふ……。」


意味深な視線が交わる。


「様子を見て参りましょうか。」


「ええ、そっとね。」


音を立てぬよう、足を運ぶ。


簾の前。


一人が、そっと手をかけ──


すぅ、と持ち上げた。


「……あら」


小さな声。


その一言で、後ろの女房たちも察する。


中を覗き込み、次の瞬間──


「……まあ」


「……あらあら」


声を殺した笑いが広がる。


そこには。


まだ眠っている紗世と、起きてはいるものの動けない惟成。


そして──


しっかりと繋がれたままの手。


惟成が顔を上げた。


「……見ているだけなら、閉めてくれないか。」


低い声。


しかし怒気はない。


むしろ、どこか諦めに近い。


女房たちは、顔を見合わせる。


「申し訳ございません。」


口ではそう言いながら、目元は完全に笑っている。


「ですが……あまりにも微笑ましくて。」


「……っ」


惟成の眉が、わずかに寄る。


その横で、紗世がゆっくりと目を開けた。


「……」


状況を理解するまで、数秒。


視線が下がる。


自分の手。


そして、繋がれたままの惟成の手。


「……っ!!」


一気に顔が赤くなる。


慌てて手を引こうとする──が


痛みで止まる。


「いっ……」


「無理をするな。」


惟成が静かに言う。


その一言で、余計に空気が変わる。


「……あら」


「まあ……」


女房たちの“察した”空気が一段と濃くなる。


「……もう、いいでしょう。」


惟成が小さく咳払いをする。


「御息所様にも、お知らせして参りますね。」


「待て。」


惟成が止める。


「それは──」


言いかけた時。


「必要ないわ。」


すっと、声が落ちた。


全員が振り返る。


そこにいたのは、御息所だった。


「御息所様……!」


女房たちが頭を下げる。


御息所はゆっくりと歩み寄り、几帳の内を見た。


紗世と惟成。


繋がれた手。


一瞬の沈黙。


そして──


「……安心したわ。」


穏やかな声。


責める色は、どこにもない。


紗世の目に、涙が滲む。


「御息所、様……」


かすれた声。


御息所は、そっと頷く。


「声も戻ったのね。良かった……本当に。」


そのまま、視線を惟成へ。


「惟成殿。」


「……は」


「紗世を、連れて帰ってきてくださってありがとう。」


まっすぐな言葉。


惟成は一瞬、言葉に詰まる。


「……務めを果たしたまでです。」


「ええ。」


御息所は、柔らかく微笑んだ。


「ですが……それだけではないのでしょう?」


「……」


返せない。


沈黙が、答えになる。


御息所はそれ以上は問わない。


ただ──


「その手は」


ふと、視線を落とす。


二人の手。


「……しばらくは、そのままにしておきなさい。」


静かな一言。


紗世が、目を見開く。


惟成も、わずかに驚いた表情を見せた。


女房たちは、完全に笑いを堪えている。


「無理に離して、また傷を悪くしても困るもの。」


御息所は、あくまで“建前”で言う。


だが、その目はすべてを理解していた。


くるりと背を向ける。


「湯と薬を。それと……」


一瞬だけ、足を止める。


「二人とも、よく頑張りました。」


それだけ言って、部屋を出ていった。


静寂。


そして──


「……」


「……」


気まずい沈黙。


女房たちの視線。


ニヤニヤ。


「……離すか。」


惟成が小さく言う。


「……はい。」


だが。


どちらも、すぐには手を離さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ