第93話 夜更けの帰還
───六条御息所邸
門前で、どっと歓声が上がった。
「戻られるぞ!!」
「和泉が……!」
ざわめきが、一気に広がる。
その気配は、奥の居室にまで届いた。
御簾の内。
御息所と陰陽頭が、同時に顔を上げる。
バタバタと、廊下を駆ける音。
次の瞬間──
「御息所様!!」
女房が、息を切らせて飛び込んできた。
「……っ、鞍馬にて!和泉と惟成殿が、源氏の君様・頭中将様と合流されたとのことにございます!!」
言葉が途切れそうになりながらも、必死に続ける。
「今は……馬にて、こちらへ向かっていると……!!」
その一言で──
御息所の目から、涙があふれた。
ぽろぽろと、堰を切ったように零れ落ちる。
「……良かった……」
震える声。
「良かった……本当に……」
扇を握る手が、かすかに震えている。
陰陽頭は、その様子を静かに見つめた。
そして、ふっと息を緩める。
「その知らせは、早馬で?」
「はい……!和泉が帰ることを、一刻も早くお伝えしたいと、武官が……」
「そうか。」
陰陽頭は、ゆっくり頷く。
「ならば……ここへ着くまで、あと一刻ほどだな。」
そう言って、周囲へ視線を巡らせた。
「邸内を暖めなさい。冷え切っているはずだ。
湯も多めに用意を。すぐに身体を温められるように。
それと──薬師を呼べ。怪我の手当てが最優先だ。」
淡々とした指示。
だが、その一つ一つに、確かな気遣いが滲んでいる。
「承知しました!!」
女房は、今度は明るい声で応えた。
涙ぐみながらも、口元はほころんでいる。
そのまま廊下を駆けていった。
バタバタと、人が動き出す気配。
邸全体が、“迎えるため”に動き始める。
陰陽頭は、再び御簾の向こうを見た。
「……和泉殿も、惟成殿も、よくやりましたよ。」
静かな声。
「二人とも──自分の力で、結界を破ったのです。」
御息所の肩が、わずかに震える。
「帰ってきたら……」
陰陽頭は、ほんの少しだけ柔らかく笑った。
「存分に、褒めてあげてください。」
御息所は、涙を拭いながら頷いた。
「ええ……ええ……!」
声はまだ震えている。
だが、その目には、確かな光が戻っていた。
「本当に……ありがとう、陰陽頭様……」
深く、頭を下げる。
その言葉に、陰陽頭は、軽く首を振った。
「礼は、無事に戻ってきてからで結構。」
そう言って、外へ目を向ける。
夜が、静かに更け始めている。
だが──
その闇の向こうから、確かに、“帰ってくる”足音が近づいていた。
───六条御息所邸・門前
蹄の音が、夜の静寂を破った。
「戻られた!!」
門前にいた者が声を上げる。
松明の灯りが揺れる中、一頭の馬が、ゆっくりと門をくぐった。
その背に──
惟成と、紗世。
「和泉……!」
女房たちが息を呑む。
すぐに人が集まりかけるが
「下がれ。」
低い声で、惟成が制した。
その声に、誰もが足を止める。
惟成は馬を止め、慎重に、紗世を抱き上げた。
「……っ」
腕の中で、わずかに身体が揺れる。
それでも、声はない。
意識は、あるのかないのか──
分からないほど、弱々しい。
「御息所様のところへ。」
短く告げる。
誰もが道を開ける。
静まり返る中、足音だけが響いた。
───御息所の居室
「……!」
御息所が、思わず立ち上がった。
御簾が上がる。
その視線の先──
惟成の腕の中の、紗世。
「……紗世……?」
震える声。
惟成は、静かに近付き、膝をつき、そっと紗世を差し出した。
「……お連れしました。」
その一言で、御息所の中で張り詰めていたものが、切れた。
「紗世……!!」
崩れるように、抱き寄せる。
細い身体。
冷え切った体温。
血と土にまみれた姿。
「……よく……よく……」
声にならない。
ただ、抱きしめる腕に力がこもる。
その瞬間──
ぴくり、と
紗世の指が動いた。
御息所の衣を、かすかに掴む。
そして──
ふっと、力が抜けた。
全身から、緊張がほどける。
今まで、無理やり繋ぎ止めていた意識が、一気に落ちていく。
瞼が、ゆっくりと閉じる。
「……っ!」
御息所の腕の中で、完全に、力を失った。
「紗世!?紗世!!」
「大丈夫です。」
陰陽頭の声が、静かに入る。
いつの間にか、すぐ傍に来ていた。
「気を失っただけです。」
紗世の脈に触れ、呼吸を確かめる。
「……限界だったのでしょう。」
その言葉に、御息所は、さらに強く紗世を抱きしめた。
「……もう、大丈夫よ……。」
涙が、ぽろぽろと落ちる。
「もう、帰ってきたのだから……。」
⸻
少し離れたところで、惟成はその光景を見ていた。
何も言わず。
ただ、立ったまま。
「惟成殿。」
陰陽頭が、ちらりと視線を向ける。
その瞬間だった。
ふっ、と
惟成の肩から力が抜けた。
「……っ」
わずかによろめく。
今まで張り詰めていたものが、一気に切れる。
「……はぁ……」
深く、息を吐く。
手が、わずかに震えている。
それでも視線は、紗世から離れない。
「……よかった……。」
ぽつりと、こぼれた。
それは、誰に聞かせるでもない、ただの本音だった。
陰陽頭は、それを聞いて小さく笑った。
「……遅いくらいだよ。」
静かに言う。
「よく、最後まで持たせたね。」
惟成は、何も答えない。
ただ、ようやくその場に、座り込んだ。
戦いは終わった。
そう、身体が理解した瞬間だった。




