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第92話 声無き想い

バリイイイインンン──!!!


砕けた。


見えないはずの“何か”が、音を立てて崩れ落ちる。


同時に──


風が、流れ込んだ。


「──っ!」


惟成の視界が揺らぐ。


先ほどまで何もなかったはずの空間に


──小屋が現れた。


古びた、朽ちかけた山小屋。


(……あった……!!)


「紗世!!」


惟成は迷いなく駆け出す。


扉へ手をかける。


ガタンッ!!


今度は、開いた。


「……っ!!」


中へ踏み込む。


冷えた空気。


薄暗い室内。


床や柱には這いずり回ったと分かる、血の跡──


「───っ!」


あまりの凄惨な景色に息を飲む。


そして──


床に、倒れる人影。


「……紗世……?」


一歩。


また一歩。


近付く。


「紗世!!」


膝をつき、体を抱き起こす。


軽い。


あまりにも、軽い。


「……っ……!」


顔は蒼白。


手は血に滲み、爪は割れている。


「おい……しっかりしろ……紗世……!」


揺さぶる。


反応が、ない。


(……遅かったのか……?)


胸が締め付けられる。


その時──


ぴくり


紗世の指先が、かすかに動いた。


「……!」


顔を覗き込む。


ゆっくりと、瞼が震える。


「……っ……」


かすかな呼吸。


生きている。


「紗世……!」


その声に引かれるように


紗世の瞳が、うっすらと開いた。


焦点が揺れる。


そして──


惟成の顔を捉える。


「……」


唇が動く。


何かを言おうとする。


だが──


声は、出ない。


「……?」


惟成が眉を寄せる。


「どうした……?」


紗世は必死に息を吸う。


喉に力を入れる。


それでも──


何も、出ない。


(……声が……出ない……。)


自分でも分かっている。


それでも伝えたくて


唇だけが、震える。


「……」


ぽろり、と涙がこぼれた。


「……っ……」


声にならない嗚咽。


惟成の表情が変わる。


「……術か。」


低く、呟く。すぐに理解した。


「喋るな。」


短く言う。


「無理に出そうとするな。」


そっと、紗世の頭を支える。


「……聞こえてる。」


目を合わせる。


「お前が何言おうとしてるかくらい、分かる。」


紗世の瞳が揺れる。


涙が次々と溢れる。


(……惟成……)


言えない。


でも──


伝わった。


その瞬間、力が抜ける。


惟成の胸に、体を預けた。


「……よくやった。」


低く、静かな声。


その腕が、しっかりと紗世を抱き締める。


「こんなになるまで、よく耐えたな。」


わずかに、声が掠れる。


紗世は小さく首を振る。


違う、と言いたい。


けれど声は出ない。


代わりに──


震える手で、惟成の衣を掴んだ。


ぎゅっと。


「……ああ。」


それだけで、十分だった。


惟成は深く息を吐く。


「来るに決まってるだろ。」


ぽつりと、落とす。


「お前がいるなら、どこだろうとな。」


紗世の瞳から、また涙がこぼれる。


安心したように。


ゆっくりと、瞼が閉じていく。


「……寝ろ。」


惟成は静かに言った。


「もう、大丈夫だ。」


そのまま、紗世を抱き上げる。


壊さないように、しかし確かに。


小屋の外へと歩き出す。


夕暮れの差し込む紅い光が、二人を包んだ



───山中・帰路


冷たい風が頬を打つ。


惟成は紗世を背負ったまま、山道を下っていた。


足場は悪い。雪も残り、滑りやすい。


それでも足は止めない。


(……早く、下まで。)


背中の重みは軽い。


軽すぎる。


そのことが、逆に不安を煽る。


「……紗世。」


呼びかける。


反応はない。


だが──


かすかに、呼吸はある。


「……」


惟成は足を止めた。


木の根元に腰を下ろす。


「少しだけだ。」


自分に言い聞かせるように呟く。


紗世を膝に乗せ、そっと身体を確認する。


手。


腫れ、出血、爪は割れている。


足。


内出血が広がり、力が入っていない。


「……ひどいな。」


眉が寄る。


懐から布を取り出す。


手のひらをそっと包む。


できる限り、優しく。


「我慢しろ。」


小さく言いながら、固定していく。


持っていた水を、ほんの少しだけ口元へ。


「飲めるか。」


紗世の唇に触れさせる。


わずかに、動いた。


ほんの少しだけ、水を含む。


「……そうだ、それでいい。」


それ以上は無理をさせない。


布で口元を拭う。


その手が、ふと止まる。


紗世の指が──


惟成の衣を、かすかに掴んでいた。


「……」


離そうとしない。


無意識なのか、それとも──


「……大丈夫だ。」


低く、言う。


「離れない。」


その言葉に応えるように


紗世の指の力が、ほんのわずか強くなった。


意識は、ほとんどないはずなのに。


(……ちゃんと、分かってるのか。)


惟成は息を吐く。


そして、再び背負う。


「行くぞ。」


今度は止まらない。


一歩ずつ、確実に山を下りていった。





───丹波国境界付近


「……もう、ほとんど暗いぞ。」


武官の一人が、山道の奥を見つめた。


空は、橙から藍へと沈みかけている。


「惟成様は……和泉殿を見つけられたのか……?」


不安が、声に滲む。


「仮に見つけていたとしても……この雪だ。足場も悪い。日が落ちれば、身動きは取れん……。」


もう一人の武官も、低く呟く。


本来なら美しいはずの夕景が、今はただ、時間の猶予が尽きる合図のように見えた。


その時──


ズザッ


「っ……!」


かすかな音。


そして、押し殺したような声。


「今のは……!」


二人が顔を見合わせる。


すぐに松明へ火を入れる。


炎が揺れ、闇を押し返す。


「行くぞ!」


山道の奥へ駆け出す。


揺れる火の向こうから現れたのは──


人影。


「……惟成様!!」


思わず声が上がる。


そこにいたのは、紗世を背負い、雪と泥にまみれ、狩衣も指貫も裂け、息を荒げる惟成だった。


「惟成様!ご無事ですか!!」


武官たちが駆け寄る。


「和泉殿を──」


手を伸ばしかける。


だが


「触るな。」


低い声で、制された。


「和泉殿は大怪我をしている。できるだけ動かしたくない。」


その声には、明確な意思があった。


武官たちは、息を呑み、手を止める。


「……このままでいい。」


「しかし……惟成様も、限界では……」


惟成の肩は上下し、足元もわずかに揺れている。


それでも──


「問題ない。」


短く、言い切る。


「馬に乗せる。それだけ手を貸せ。」


「……はっ!」


武官たちがすぐに動く。


慎重に。


できる限り揺らさぬように。


惟成は馬へと乗り、紗世を前へ抱えるように乗せた。


その瞬間──


ふと、脳裏をよぎる。


秋の山。


紅葉の帰り道。


同じように、前へ乗せて。


軽口を交わしながら、笑っていた。


「……」


目を細める。


だが今は──


紗世の体はぐったりと力がなく、自力で姿勢を保つことすらできない。


(たすき)を。」


惟成は言い、自分と紗世の体を、しっかりと結ぶ。


ギュッ、と締めた瞬間


「……っ」


紗世の眉が、わずかに動いた。


「……すまん。」


すぐに声を落とす。


「痛かったか。」


紗世は、ゆっくりと


小さく首を横に振る。


そして──


力のない手で、惟成の衣を、掴んだ。


「……」


その感触を、確かめるように


惟成は一瞬、目を閉じる。


「もう少しだ。」


低く、しかしはっきりと言う。


「もう少しだけ、我慢してくれ。」


紗世の頭が、わずかに動く。


かすかな頷き。


それだけで、十分だった。


惟成は前を見据える。


闇の向こう。


都へ続く道。


「……行くぞ。」


手綱を引く。


馬が、一歩踏み出した。


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